第4話
七月七日。勤は母が作ってくれたサンドウィッチを食べながら、屋上で単語帳を眺めていた。扉とは反対の運動場側にある柵の前に腰かけ、太陽に当たる。普段家や図書館で勉強している勤にとって、貴重な光合成の時間だ。
最近は梅雨のせいでしばらく屋上に上がれなかったが、久しぶりに来ると気持ちがいい。と思っていたが、暑さのせいで制服の下にはすでに汗が滲んでいる。
他にも生徒の姿がちらほら見られたが、やはり気温がネックなのか数は多くない。勤はサンドイッチを一つ食べ終え、二個目に手を伸ばすため単語帳から視線を外した。すると視界の端にフェンスの向こう側が見える。
ここから飛び降りたら、間違いなく死ねるだろうな。
そんなことを考えながら、二つ目のチキンカツサンドへと手を伸ばしたそのときだった。
階段へと繋がる扉から、二つの人影が現れる。裕介と遥香だった。二人は並んで楽しそうに談笑しながら屋上へと入って来る。
そこで遥香が勤に気が付き手を振って来たが、勤は返さなかった。
そのまま裕介と遥香は勤と反対側のフェンス付近に腰かけ、お弁当を広げる。すると、屋上の入口からさらに男子数人が忍び足で顔を覗かせた。
勤は掴みかけたサンドウィッチを弁当箱に戻し、立ち上がる。そして、遥香たちの方を決して見ないようにして階段へと繋がる扉へと向かった。
「何してるんだ?」
勤は扉の影から顔を伸ばしている高木に声をかける。
すると高木はにやっと笑って、扉の奥を指さした。
「あれ、見てみろよ。俺たちが背中押したら、ポッチャマの奴ほんとに遥香ちゃんを飯に誘いやがったぜ。あんな奴を、あの遥香ちゃんが好きになる訳ないのにな」
そう言って高木は面白そうに、裕介たちの方を見ている。
「そうか」
勤はそれだけ言って眼鏡の位置を直すと、そのまま暗い階段へと足を進めた。心なしか速足になってしまうのが自分でも不思議でならない。
その日の帰り道、跨線橋の真ん中あたりで遥香が唐突に口を開いた。
「ねぇ、ちょっとコンビニ寄って良い?」
今日の遥香はなぜかテンションがとても高かった。
「良いけど、何か欲しいものでもあるのか?」
「勤、今日が何の日か忘れてるでしょ?」
「今日?何か特別な日だったか。どちらも誕生日じゃないはずだが」
「もう勤はどうして特別な日イコール誕生日なわけ。今日は七夕だよ。た・な・ば・た」
遥香はそう言いながら腰の後ろで組んだ手に鞄を下げ、跳ねるように前を歩いていく。勤は仕方なくスピードを上げて遥香についていった。
跨線橋を渡り切るとすぐ前にコンビニがある。遥香が迷わず自動ドアを潜ると、お馴染みの軽快な音楽が歓迎してくれた。
遥香はまずお菓子のコーナーへとやって来ると、スナック菓子を吟味し始めた。
「あっ、私これ好き」
などと言いながら、いくつかの商品を手に取っては戻すということを繰り返している。普通女子ならスイーツのコーナーでこういうことをするものだろう。勤はそう思ったが、ポテトチップスの袋を眺めている遥香を見て、らしいなと思ってしまった。
それからグミやジュースのコーナーでも同じことをして、たっぷり時間を使った後、遥香は最後にお目当てらしいアイスのコーナーへとやって来た。
そこでは買うものが決まっていたのか、
「あった」
と言って、すぐに一つの商品に手を伸ばす。
「なんだ、それは」
勤が聞くと、遥香の笑顔が咲いた。
「濃厚ミルクのアイスクリーム、七夕限定フレーバーだよ」
遥香が自慢げにアイスクリームのカップを勤に見せびらかしてくる。
「うー、でもどうしよう」
遥香はカップを手に持ちつつ、まだケースの方に視線を彷徨わせている。
「どうした?」
「どっちの味を食べようか迷ってるんだよね」
そう言って遥香は、ケースの方を指さした。見ると、織姫味と彦星味の二種類があるらしい。遥香が手に持っていたのは織姫味だった。
「両方食べれば、良いんじゃないのか」
勤は何げなくそう言ったが、遥香が頬を膨らませて睨みつけてくる。
「乙女は、一日一個までなの」
そう言って、再び眉をハの字にして悩み始める。あまり時間が経つと、手に持ったアイスが溶けてしまう。
勤は仕方なく遥香の横から身を乗り出して、彦星味のカップを手に取った。
「半分ずつな」
そう言うと、遥香がニヤッと笑ってわき腹をつついて来る。
「さすが勤、分かってるね」
遥香の希望で跨線橋へと戻り、二人はアイスを食べた。その間、二人は大した会話を交わすこともなく、黙々とスプーンを口に運ぶ。
七夕限定のアイスはどちらの味も悪くなかったが、勤は純粋なバニラ味の方が好きである。
「思ったほどじゃないね」
遥香も同じことを感じたのか、カップを交換して彦星味を平らげた後に言った。遥香は食べ終えると鞄からビニール袋を取り出し、勤のカップも受け取ってまとめてくれる。
こういう所が、気配りが出来てモテるということなのだろうか。勤はふと屋上での遥香と裕介のことを思い出し、口が開きかけたが言葉が出る寸前でなんとか思いとどまった。
線路の奥にあるビルの隙間から太陽が沈みかけている。空はすでにオレンジ色に染まっていて、直に紺色が侵略してくるはずだった。
遥香はゴミ袋を上で括ると、それを手の指にかけてぶらぶらと振った。カサカサと、ビニール袋の擦れる音が夕方の跨線橋に吸い込まれていく。
「お父さんの転勤が決まった」
遥香がぽつりと言う。出来るだけさらっと言ったつもりのようだが、視線が泳いでいた。手の振りが大きくなる。
唐突に放たれた言葉だったけれど、勤はここまでの遥香の態度からなんとなく察していた。そのおかげで、いつもと同じトーンで話すことが出来る。
「どこに引っ越すんだ?」
「東京みたい。栄転なんだって」
遥香は無理に笑顔を作った。しかし、もうさっきまでのハイテンションはどこかへ消え去ってしまっている。きっと心の中では、父親を祝福する気持ちと生まれ育った町を離れる寂しさが同居して大喧嘩をしているのではないだろうか。
勤は軽々しく「良かったじゃないか」と口にするのも憚れて、黙り込んでしまう。沈黙が二人の間に舞い降りた。今日の沈黙はいつもと違って、少しだけ胸に刺さる。
「だからやっぱり、志望校変えないといけないや」
遥香も沈黙が嫌だったのか、無理やり声を上げたように思われた。しかし、勤は遥香の言葉に一筋の光が差し込んで来るのを感じる。
そうかそうすれば、すべては解決するではないか。
勤は眼鏡の位置を直すと、頭の中で検証を始める。いけそうな気がしてきた。思わず、口角が上がる。
「なに、何か良いことでもあったの?」
遥香が沈んだ表情のまま勤を見上げた。
勤は遥香に見上げられて、思わず今思いついたアイデアを口にしそうになる。だが慌てて首を振った。それではまるで、自分は遥香のことが好きですと言っているようなものではないか。勤は空気を深く吸い、荒ぶる心を落ち着かせると遥香に言った。
「すまない、今日は帰る。また明日」
早口でそう捲し立てると、勤は足早に跨線橋を降りていく。
頬を橙色に染めながら一人取り残された遥香が伸ばしかけた手を引っ込めたことに、勤は気が付かなかった。
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