第3話

 遥香は勤と別れると家とは違う方向に進み始めた。引っ越すかもしれないと告げた時、勤の顔は相変わらず無表情だった。もうちょっと動揺してくれるかもしれないと思っていたが、勤らしいと言えば勤らしい。でもちょっと寂しさもあった。

 そんな寂しさを埋めるために、遥香は昔のことを思い出す。

 遥香は中学生二年生だった頃、いじめられていた。理由は、当時クラスを牛耳っていた女子の好きな男子と仲良くしたということだけである。それも元々遥香から声をかけたのではなく、男子生徒の方から強引に遥香へと話しかけてきたのだった。

 それでも遥香はいじめられ、露骨に無視をされたり、理科の班が一緒の時には理科室の机の下で何度も足を蹴られたりしていた。

 そんなある日、先生から大事なプリントが配られた。保護者にサインをもらって翌週までに提出しなければならない重要な書類らしい。大事な紙だから一枚しかなく、失くしても替えはないと先生は生徒を脅した。当時の遥香はそれを信じて、そのプリントを丁寧にファイルへとしまったのである。

 そして放課後、鞄に教科書を詰め込んでいると抽斗の中に例の書類が裸で置いてあった。おかしいなと思いつつ紙を手に取ると、何かの文字が透けていた。遥かは何も考えず、プリントを裏返す。すると、一目でそこには自分に対する悪口が書いてあるのだと理解できた。

 遥香は慌てて、プリントを表向きにする。

 質の悪いことに、悪口はネームペンで書かれていた。消すことは出来ない。でも、両親に迷惑をかけたくなかった。二人は遥香がいじめられていると知ったら、きっと心配しすぎてしまう。

 どうしよう。言葉に出来ないような焦燥感が遥香を襲っていた。

 遥香は他のクラスメイトがいなくなったのを確認すると、教室で一人ネームペンで書かれた文字を必死に消しゴムで擦った。悪口の内容は、「死ね」だったり「ブス」だったりと典型的なものばかりで心に深く刺さらなかったことは幸いである。 

 だが擦っても擦っても僅かに薄くなるばかりで全然消えてくれない文字に、遥香は涙を浮かべていた。

 しばらくは涙で視界を揺らしながらも、手を動かし続けた。しかし消しカスと涙ばかりが溜まっていき、目の前が真っ暗になりかけていた時である。

 委員会から帰って来たらしい勤が教室へと入って来た。

 遥香は慌ててプリントを裏返し、瞼の涙を拭った。しかし勤はすぐに遥香の異変に気が付く。

「どうし………」

 勤は言い切る前に机の上に置かれた、よれよれになっているプリントに視線を移した。そして、遥香が隠すより先にプリントを拾い上げる。

 数多の悪口が勤の目に留まった。

「犯人は誰だ」

 珍しく、勤の声は震えていた。眼鏡の奥の眼光が、見たことがないくらい鋭くなっている。遥香は首を横に振った。心当たりはある。でも確信がある訳じゃない。

 それに………あの子もきっと何か理由があって私のことをいじめているのだ。

 遥香はそう思って頭に浮かび上がった名前を口にはしなかった。私をいじめることで、その人が幸せならそれでいい。もしくは他の誰かがいじめられることを、未然に防いでいるのならそれでいい。

 遥香はそう考えていた。そして勤もそんな遥香の考えを知ってか、それ以上問い詰めては来なかった。

 しかし、次の瞬間、

「〇〇さんだな」

 と遥香の思い描いていた名前を口にした。

「遥香の視線だけはいつも素直であると俺は知ってる」

 どうやら無意識のうちに、〇〇さんの席を見てしまっていたようだった。それから勤は自分のファイルから例の書類を取り出すと遥香のものと交換した。

 そしてそのまま遥香のプリントを持って教室を出て行こうとする。そんな勤の腕を遥香は掴んだ。

「私、大丈夫だから」

 そう言って、勤を止めようとした。でも勤は下手な笑顔を作ると、言った。

「遥香が心配していることはだいたい分かる。自分のせいで〇〇さんたちが責められるのが、いたたまれないんだろ。でも安心してくれ、別に彼女たちを攻撃しに行く訳じゃない」

 そう言われて、遥香は掴んでいた腕を離した。勤は頷くと、教室を出て行った。

 その日以降、いじめはなくなった。〇〇さんとは仲良くなったわけじゃないけれど、無視されたり嫌がらせをされたりすることは二度となかった。

 そしてそれからだった。勤と話していると、心臓が邪魔をしてくるようになったのは。

 そこで遥香は緩やかな坂に差し掛かり、意識が現実へと戻って来る。

 気が付けば、溜息をついていた。

 昔は勤も自分に少なからず好意を抱いてくれているのではないかと、内心喜んでいた。でも最近は分からない。

 勤はいつも勉強ばかりしていて、恋愛に興味が無いように思えてきたのだ。本当は一緒に帰ったりするのも迷惑なのではないだろうか。自信が無くなって来る。

 最近の勤は私と話していても遠くばかり見ていて、全然楽しそうじゃなかった。まるで頭の中が常に計算式の処理に追われているかのようである。

 坂道を上る足が重たい。昼間だというのに、世界の一部が暗く霞んで見えた。自然と俯いてしまう自分が嫌になる。

 遥香は首を振って、足に力を込めた。勤のことはきっとなるようになるはずだ。あれこれ考えても仕方がない。その時が来たら、きっと答えも出るだろう。

 そう思って、坂を上っている理由に意識を移した。

 やがて坂の上にある住宅街の一角に辿り着く。目の前に立っているのはクリーム色の壁が印象的な二階建ての一軒家である。

 黒い西洋風のポストの上にアルファベットで「SHIBATA」と書かれた表札が張られていた。遥香は少し呼吸を整える。

 そして表札を通り過ぎると、玄関脇にあるインターフォンを鳴らした。

 しばらくして、扉が開く。

「あ~、遥香ちゃん。いつもごめんなさいね。ちょっと待ってて」

 まだ三十代の若い母親が出てきたかと思うと、またすぐに家の中へと引っ込んでいく。それから階段をバタバタと上り下りする音が聞こえてきた。

 再び、玄関の扉が開く。

「ごめんね、やっぱり会いたくないみたい」

「そうですか………」

 遥香が訪れているのは、クラスメイトである愛の家である。愛は二年生の時から同じクラスで、人見知りで友達の少ない遥香にとっては親友のような存在だった。しかし愛からすればそうではなかったのか、気づけば理由も知らないまま愛は不登校になってしまったのである。いじめがあったという噂も立っていたけれど、真相は分からない。

「あの、愛ちゃんが私と会ってくれない理由とかって………」

「さぁ、私もさっぱりなの。ただ学校の人とは会わないとしか言わなくて。わざわざ来てくれたのにごめんなさいね」

「いえいえ」

 そこで遥香は、肩に下げた鞄を開いた。

「あっこれ、昨日配られたプリントです」

「本当にいつもありがとう」

 愛のお母さんは何度も頭を下げてきて、遥香が帰ろうとするとお菓子を渡してくれた。遥香はお礼を言いつつ、柴田家を後にする。

 しかし少し進んだところで足を止めた。そして、愛の部屋がある二階を見上げる。

 また世界の色が少しだけ暗くなった気がした。

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