第2話
七月に入り、ようやく梅雨も明けたかと思われる頃。試験管からの「止め」の合図で張り詰めていた空気が緩んだ。
この日は、先週返されたのとはまた別の模試を受けていたのだった。今日の科目は国語と英語と数学。また明日には、世界史や日本史、化学基礎や生物基礎などの科目が残っている。
勤は悪くない出来に慢心することもなく、頭を翌日の科目へと切り替える。やがて解答用紙が回収され、解散となった。
「勤、高木たちと飯食いに行くんだけど来る?」
裕介が脂肪を揺らしながら、勤の席まで声をかけに来た。
「俺は遠慮させてもらう」
それに対して勤はいつものように返した。勤は勉強しなければならない。明日にもまだ模試は残っているし、もう入試本番まで半年程度だ。時間を無駄にしている暇はない。それに勤には勉強しなければいけない理由が他にもある………。
「そうか、お前もたまには息抜きしろよ」
裕介が勤の肩を軽く叩いた。つもりなのだろうが、勤は微かに痛みを感じる。
「おい、ポッチャマ行かねぇの?」
教室の入り口付近から高木が裕介を呼んだ。
「ごめん、今行く」
そこで裕介が振り返り、腹を揺らしながら小走りで高木たちの下へと向かう。高木らが廊下に出てさらに階段を下っていく背中を見届ける。楽しそうな笑い声が教室まで響き渡って来たが、勤は聞かなかったことにした。友達など、必要ない。
そこで勤は席を立った。
そのまま黒板付近の席でガールズトークを繰り広げている遥香の席へと向かう。模試では出席番号で席に着くため今日は隣ではなかった。
「帰るぞ」
勤は出来るだけ感情を込めないようにして、遥香の背後から声をかける。その一言で、女子たちの楽しそうな会話が一時中断する。
勤の姿を見上げた遥香以外の女子二人が、すぐに声をあげた。
「良いな~、遥香ちゃんには一緒に帰る彼氏がいて」
「それな、私も彼氏欲しいぃ」
そんな二人の声に対して勤の眉がピクリと動いた。しかし顔は無表情のまま、遥香たちを見下ろしている。
そこで遥香が友達二人に対して慌てて顔の前で手を振る。
「違うよ、彼氏じゃないから」
勤は状況を冷静に観察していたが、慌てて立ち上がった遥かに向きを変えさせられ背中を押される。
遥香は残った二人に対して「ごめん、私帰るね。また明日~」と手を振った後、勤を急かしてバタバタと教室を出た。
昇降口で靴を履き替え、並んで歩き出したところで遥香が言う。
「声掛けてくれて、ありがとう」
空にはほとんど雲が無く、初夏とはいえ暑い日差しが周囲一帯に降り注いでいた。勤はコンクリートに整備された道の先にある校門に視線を固定する。
「なんのことだ?」
「ほら帰るぞって、言ってくれたじゃん」
「あぁ、それは遥香からお願いして来たからだろ」
遥香と勤の家ははす向かいであり、学校から二十分ほど歩いたところにある。前から通学路が同じため、登下校を共にすることはあったのだが、少し前勤は遥香に「予定が無い時は、私の事誘ってよ」と言われたのであった。
特に断る理由もなかっため承諾したのだが、遥香はまだ何か不満があるようだ。
「でも、友達がいる前で声掛けないでよ………」
遥香は首をすくめて、僅かに頬を赤らめた。しかし勤は前を向いていて、その表情の変化に気が付かない。
「私、なんか嫌な女みたいじゃん」
遥香が言った。
勤は一定のペースで歩きながら返す。
「この前喋り終わるのを待っていたら、何分かかったと思ってるんだ」
誘って欲しいと言われた翌日、勤は遥香に声をかけるタイミングを伺っていたら黒板上の時計の長針が一周していたのだった。
「うぅ、その節は………ごめんなさい」
遥香はそのときのことを思い出したのか、ぺこりと頭を下げた。
二人は揃って校門を潜る。背後には青空にまで突き抜けるような運動部の声が響いていた。勤はその青春に、わずかだが眉を顰めた。中学高校と帰宅部だった勤には縁のない声である。
対して遥香は中学でバレーボール部、高校でダンス部に所属しそれなりの学生生活を送って来たようで、
「羨ましいな~。まだ引退して一か月ちょっとなのに、もう遠い昔の事みたい」
と遠くに眼差しを向ける。
「そう言えば、勤は志望校どうするの?」
校門を抜けてすぐの坂を下りながら、遥香が聞いて来る。
「まだ、決めてない」
「そっかぁ」
通常、高校三年生の夏となればそれなりに志望校が固まって来る頃だが、何度も話した話題であるためか遥香は特に驚かない。
「でも、すごいよね。だいたいみんな行きたい大学があるから勉強とかって頑張れるじゃん。なのに勤は特に明確な目標とかないのに、こんな勉強頑張ってるんだもんね」
「いや、別に………」
目標が無い訳じゃない。そう言いかけて、勤は口を噤んだ。
「なになに、普段きっぱり喋る勤が口籠るなんて珍しいね」
そう言って遥香が人差し指で勤のわき腹をツンと差す。しかし、勤は表情を変えないまま、
「そっちこそ、志望校どうするんだ」
と聞き返した。
「………」
しかし、遥香からの返事は無かった。勤は不思議に思って、ようやく前に向けていた視線を遥香へと向ける。
遥香は勤の少し後ろを、足元を眺めながら歩いていた。
「どうした?大丈夫か」
勤が足を遅くして、声をかける。
するとハッとしたように顔を上げた遥香が、小走りで再び勤の横へと並んだ。
「何かあったのか?」
「ううん。なんでもない」
遥香が笑顔を作った。唇を結んで、口角を上げる。しかし遥香は心から笑うとき、歯を隠そうともしない。それが本心からの笑みではないと勤は分かったが、深くは踏み込まなかった。
沈黙を抱えたまま二人は、坂を下りきって駅周辺の、田舎にしては栄えているあたりに辿り着く。二人は線路沿いの道をゆっくり歩いた。
小さい頃から一緒にいるからか、別に沈黙が苦しいと思うことは無い。しかし、遥香の浮かない表情がどこか空気を重くしていた。
勤は自分から振るような話題も無かったため、仕方なく模試の問題を頭の中で振り返る。
そうこうしていると、やがて跨線橋にやってきた。駅の近くという事もあり四本の線路が並ぶ上を虹のように跨ぐ橋だ。少し行けば踏切があるのだが、遥香はいつもこの跨線橋を渡りたがる。
この日も、言葉がなくとも自然と二人の足は跨線橋へと向かった。階段を上り、踊り場で百八十度向きを変えてまた階段を上ると橋の上へと辿り着く。
そこで遥香の足が止まった。自然と勤の足も止まる。
「ごめんね、暗い雰囲気にさせて」
遥香がポツリと言った。
「ちょっと、気持ちに整理をつけるから待ってて」
そう言うと遥香は自身の右手を左手で包み込むようにして、胸に当てた。
勤はそんな遥香を横目に、跨線橋の手すりに腕を置き体重をかける。三メートルほど下に、線路があった。もしここから飛び降りたならば、死ぬことが出来るのだろうか。
ふとそんな考えが頭によぎる。高校生になった頃から、高い所に立つといつも考えてしまう事だった。なぜそんなことを考えてしまうのかは分からない。
やがて欄干に背中を預け勤とは反対方向を向いていた遥香が声を上げる。
「私、志望校、変えないといけないかも知れない」
遥香の瞼の端に、涙が溜まっていた。遥香はそれを勤に見られないように、指で拭う。
勤は線路の先を眺めながら、聞いた。
「どうして?〇〇大学は厳しいのか?」
いつもと変わらない、あまり感情の籠っていない声である。でもそれが逆に、遥香にとっては温かかった。
〇〇大学とは、勤たちが住む県にある国公立大学である。遥香は昔からずっとこの大学を志望していた。
遥香が胸に当てていた拳に力を籠める。そして、勤の方を振り返り言葉を捻り出そうとした。
それに気が付いた勤も顔を遥香の方に向ける。目が合った。
数秒間見つめ合う二人。爽やかな初夏の風が、跨線橋と垂直方向に吹き抜けていく。遠くの方から踏切の音が聞こえてきた。
いつもは勤の方から外す視線を、今日は遥香が先に逸らした。そして勤の顔を見られないまま、踏切の音にかき消されそうな程か細い声で言う。
「私、引っ越さなきゃいけないかもしれないの」
「じゃあ、俺はこのまま図書館に行って勉強するから」
「うん、また明日ね」
遥香と別れた勤は、交番の前を通り大通りに沿って歩き始める。一人になると、途端に寂しさが押し寄せてきた。
遥香に引っ越すかもしれないと告げられたが、まだ現実味がない。遥香もまだ完全に決まったわけではないらしく、それ以上のことは話そうとしなかった。
勤はふと想像してみる。小さい頃から当たり前のように傍にいた遥香がいないというのは、どういうことなのだろうか。しかし、あまり上手くイメージすることが出来ない。
代わりに浮かんで来たのは、過去の記憶だった。
あの日も確か初夏で、眩しい太陽が降り注いでいた気がする。だが今ほどは暑くなかったはずだ。勤と遥香は幼稚園児であり、二人で遊びながら親が迎えに来てくれるのを待っていた。
「こうやって、水を混ぜると固まりやすいんだよ」
「へぇ、すごいっ!勤くんって物知りなんだね」
なぜかこの台詞が頭の中に強く残っている。確か勤は泥団子の作り方を遥香に教えていたはずだった。
それからの記憶は曖昧だが、この日は珍しく父が勤を迎えに来たはずである。父の紺色のスーツ姿が印象に残っていた。それに茶色の革靴も。
父はおそらく冷淡に勤を見下ろすと、家へ連れて帰ろうとした。
しかし勤はもっと遥香と遊んでいたいと思ったことを記憶している。そして、それを父に言ったのではないか。
「やだ、もっと遥香ちゃんと遊びたい」
そんな台詞がなんとなく頭の中で響いた。
しかし父は表情一つ変えずに、勤を説得する。
「今日はお勉強をするっていう約束だっただろ」
「嫌だ、今日は遥香ちゃんと遊ぶんだもん」
「遥香ちゃんとは明日も会えるだろう」
「勉強だって、明日でも出来るじゃん」
「勉強は、毎日継続することに意味があるんだ」
その最後の台詞は当時、何を言っているのか分からなかった。しかし、父に対して怒りを感じたことを覚えている。
黙って父を睨みつけていた勤だったが、父は強引に勤の腕を取り、連れて帰ろうとした。
必死に抵抗した勤は、歯を食いしばって父の手を振り払う。遥香の前だったからか、絶対に負けてはいけない気がしていた。そして、砂場の淵に並べられたそれが視界の端に映ったのである。
勤は作り上げた泥団子の一つを手に取ると父に向かって投げつけたのだった。
だが当時は大した力もない子供である。父の顔目掛けて投げたはずの泥団子は、空中で減速し、綺麗な茶色の革靴に落下した。
父は汚れた革靴にちらっと視線を移すと、表情を変えることもなく再び勤を睨みつける。
「お前、一人で帰って来いよ」
父はそれだけ言うと、靴の泥を払い、踵を返して去っていったのだった。割れた泥団子が、父のいた位置に崩れ落ちていた。その土は水を含んでいたせいか、周囲の砂よりも濃い色をしていた。
「お父さんなんて大嫌い」
勤は去っていく父の背中に向かって叫んだ。しかし、父は悠然と幼稚園を出て行った。その背中を勤はしばらく睨みつけていた。
一部始終を黙って見守っていた遥香が声をかけてくる。
「大丈夫なの?お家帰らなくて」
「別にいいんだ。俺、家までの道知ってるから」
本当は途中までしか分からなかったけれど、勤は見栄を張ったのだった。
「でも………」
遥香は泥団子を作る手を止めて、何かを言いにくそうにしていた。
「なに?」
勤が尋ねると、意を決したのか当時から大きかった瞳で勤を見つめて言った。
「お父さんに対して、あの態度はよくないよ」
今思えば遥香はあのときから大人だったのかもしれない。
「だって………」
勤は自分が悪いと言われるとは思っておらず、むきになって言い返した。
「勉強なんかしたくないもん!」
しかし幼い日の遥香は声を荒げることもなく、まるでお腹空いたねとでも言うかのようなトーンで、勤に言った。
「私は、勉強頑張ってる勤くんも好きだよ」
………
そんなことを思い出していたら、気が付けば図書館の入口へと着いた。勤は頭を勉強に切り替えるとガラスの自動ドアを潜る。
手前にある日本文学の棚の間を進み、自習用の机に着くとすぐに参考書を開いた。そして心の中で呟く。
「俺は賢くあらねばならない」
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