愛した相手はアイだった。
譜久村 火山
第1話
一日の授業を全て終え、席の近い生徒同士が談笑している中、勤は一人シャープペンシルを動かしていた。黒縁の眼鏡の奥から鋭い眼光を光らせ、参考書に載っている二次関数の図を睨みつける。そして手元を確認することもなく、ひたすら数式を書き殴っていくのであった。
やがて扉が開く音がして担任の先生が教室に入って来る。いつもなら帰りのホームルームが始まるところだが、その前に先生が教室全体に言い渡した。
「それじゃあ、この前受けてもらった模試の結果返すからな」
先生の声は梅雨の影響を受けてどんよりとした空気の溜まった教室によく響いた。直後、生徒たちからどよめきが起こる。
「うわー、前より偏差値落ちてたらどうしよう」
隣の席の遥香が心配そうに声を上げる。それに対して、後ろの席の裕介が明るい声を返した。
「俺はもう低いって分かってるから、怖くもないね」
そう言って裕介は分厚い胸を張って見せる。その下には脂肪のたっぷりついた腹が制服のシャツを圧迫しているが、本人は中肉中背だと主張していた。
「むぅ、私はそう言う訳には行かないの」
遥香が頬を膨らませながら、サラサラした長髪を靡かせる。
勤はその仕草が視界の端に映り目を奪われかけたが、首を小さく左右に振ると数式へと意識を戻した。
そこで先生が生徒の名前を呼び始め、順番に模試の結果が配られる。勤、遥香、裕介の幼馴染三人の中で最初に名前を呼ばれたのは遥香だ。
勤は大きな問題を一つ解き終えるとペンを置いて、遥香の方を見る。
遥香は両肘を机の上に着き、模試の結果が記された冊子を開いた。そして、そのままの姿勢で数秒間固まった後、頭を抱えるようにして机に突っ伏す。
「うぅ」
項垂れる遥香の腕の隙間から、悲痛な声が漏れ聞こえてきた。
続いて裕介が冊子を受け取って席へと戻って来る。
「ポッチャマ、模試の結果見せろよ」
ポッチャマと言うのは裕介が一部の友達から呼ばれているあだ名である。その体型から名づけられたそうだ。同じ名前のポケモンがいたような気がするが、勤はゲームもアニメもろくに経験したことがないため、分からない。
裕介は席に着くなり、さらに後ろの席の高木に冊子を取り上げられた。
「うわー、相変わらず馬鹿だなー。地理の偏差値、四十もないんだけど」
そう言って高木が仲間内で裕介の冊子を眺めながら、笑い合っている。
「もう、やめろよぉ」
裕介はそう笑いながら、頭をポリポリと掻いている。いじられて嬉しそうだ。やがて裕介の手元に結果が返ってきて、それを今度は遥香が受け取った。
「裕介、ドンマイ」
しばらく裕介の模試を眺めた遥香が言う。
「あっ、でも数学は高いじゃん。いいな~」
遥香が冊子を返しつつ、羨ましそうな眼差しを裕介へと向けた。
勤の心が針に刺されたようにちくりと痛む。
「でもよ、こいつのせいでいつも二位なんだよな」
そう言うと、裕介は勤の方を指差して眉を顰めてみせる。
「あはは、それは仕方ないよ」
遥香が言った。
そこで担任の先生から勤の名前が呼ばれる。自分の冊子を手渡された勤は席へ戻るなり、裕介にそれを取り上げられた。
「おい、見せてくれよ」
そう言って模試の結果を眺めた裕介だったが、それをすぐ遥香に回した。
「ちぇっ、面白くないな」
裕介が口をすぼめた。
「うわ、全部一位じゃん。相変わらず、すごすぎる」
遥香が言った。そして笑顔で模試の結果を勤へと返してくる。勤はきっと咲き誇る桜のように美しい笑顔がそこにあると知りながら、目を合わせることが出来ず俯いたまま冊子を受け取った。
「ねぇ、なんでそんなに勉強ができるの?」
遥香が質問をしてくる。テストや模試の度に同じことを聞かれている気がした。でも不思議と嫌な感じはしない。むしろ、内心では得意げにさえなっていた。それを表に出すことは無いけれど。
「俺なんてまだまだだよ」
勤が言う。
「もう、謙遜なんていいからどうやったらそんな賢くなれるのか教えてよ」
遥香が少し頬を膨らませながら、勤の瞳を見つめる。勤は数秒間見つめ合うことになってしまい、心臓の音に思考を邪魔されつつも言葉を捻り出した。
「俺には勉強しかないから」
そう言うと勤はこれ以上は無理だと感じ、冊子へと視線を移して模試の自己分析を始めた。全て一位であるとはいえ、国語と世界史の偏差値は前回よりも下がっている。理由はおそらく問題との相性が悪かったことだが、それを言い訳にはできない。本番の入試で相性の良い問題と当たれるとは限らないのだ。
そうやって再び机に齧りついた勤を、遥香が机に突っ伏しながら横目で眺めていた。そして遥香は「はぁ~」と深い溜息をつく。
そんな二人の様子を後ろから睨め付けていた裕介は、下唇を上の歯で強く噛んだ。
そこで勤は先ほどの二次関数の問題で計算ミスをしたことに気が付いた。
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