幻を求めて 

月峰 赤

第1話 森の番人

 夢を見ているかのように、いつのまにか緑豊かな大森林が、目の前に広がっていた。至る所に木が生えていて、その幹や枝の多さ以外に何があるのか分からない。周囲は雑草が伸びていて、165cmしか身長が無い自分の膝まで隠れてしまっている。ふと上を見上げると、そこには深い雲が広がっていた。

 どうやら地球上のどこかであるらしい。


 何故ここに来たのか、ここで何をするのかを数時間かけて教えてもらったが、詳しくはあまり覚えていない。それほどに複雑で現実離れしていたのだ。

 急に視界が捻じれるようにぼやけ始めた。ほんの1,2秒で収まるや、視界の左端に円形の表示が現れる。円の真ん中に白い点が一つある。そこから一本の線が時計回りに何度も周回しているのを眺めていると、何もつけていない両耳から、ノイズのような機械音が流れる。

 やがてその音は人の声のようなものとなり、次第に聞き取れるようになる。

「…える?聞こえる?」

 語り掛けてくる女性の声は、優しく心配するような声だった。

「はい。聞こえます。今は森の中にいるみたいです」

 耳元で、安堵するような溜息が聞こえる。返事をするまで何度も声を掛けてくれていたらしい。

「良かった…。返事がないから、心配したのよ。気分はどう?」

「平気です。まだ少し感覚が合いませんが…」

 風が吹いて、草木がザァっと音を立てて揺れ動く。しかしその風を、自分の肌は感じ取ることは無い。


 ”見える幽霊のような存在”だと、今も耳元で話しかけてくれるキリカさんは言っていた。人と話すことは出来るが、こちらからもあちらからも触れることは出来ず、通り抜けてしまうらしい。地面や自然物などの一部に触れられることはあっても、味覚と嗅覚がなく、その代わりに視覚と聴覚は人間の限界を遥かに超えることが出来るらしい。

 

 リアルダイブシステム、略してRDSという、座標を合わせればこの世界のどこにでも降り立つことが出来るというマシンによって、加茂はこの場所に来た。

 そのマシンがあるのは、田舎にある、かつて豪商が建てたというだだっ広い平屋だった。それを現代に引き継いだ本庄千代衛門という男が、その地下に研究所を作ったのだ。そこでは彼が追い求める未確認生物の存在を明らかにする為に、多くの研究者が日夜調査を行っている。

 そうして完成したのがこのRDSであるが、これが誰にでも扱えるものではなかった。初めに何人かの研究員が搭乗してみたが、無反応なことがあったり、エラーが起きて正常に作動しないことがほとんどだった。

 そこで治験と称して人材を募った結果。加茂が適合したのであった。

 新しい医療機器の試運転と聞いていたが、あきらかに異様であった。最新医療とは程遠い田舎の、さらに隠すように地下に作られた研究室。研究員たちの奇異な視線にさらされながらマシンに乗り込む。マシンはカバーの無い酸素カプセルの様な形をして、中には人が一人入れるスペースしかない。いくつものケーブルや機械が繋がれており、加茂はここに来たことは間違いだったかと少し後悔し始めていた。

 

 研究所のとある一室で書類が交わされた。そこでは治験に関する誓約書も書かされている。綺麗な女性だったので、知ったかぶって、ろくに見ず承諾してしまった。そのことを思い出しながら、指示されるままにマシンに乗り込む。背中にひんやりとした感触が伝わってくる。案外クッション性が効いていて、寝心地は悪くない。

 マシンが機械的な動作音をあげ、辺りを青い光が包み込んでいく。そうして眠りに付くかのように、意識は次第に遠のいていった。


 そんなことを思い出していると、声が聞こえなくなっていることに気が付いた。しかし通信が切れているわけではなく、奥からカタカタと優しくキーボードを叩く音がしている。やがてその音が止まると、キリカではない「うーん…」とうなる渋い声が聞こえてきた。

「これがガンカー・プンスムの森林なのかい?キリカ君」

 キリカが答える。

「えぇ、そのようです。データにない生物が数多くいますが、これらはどうなさいますか?」

 辺りで動物の動く音が聞こえる。その姿をとらえることは出来なかったが、左上の表示にいくつかの赤い点が現れているのに気が付いた。

 

 ガンカープンスムとはブータンと中国との国境付近にある山で、誰も登頂したことがない未踏の場所らしい。標高の高い頂上は雪で覆われていて、そこには隠された場所として、緑豊かな森林が広がり、未確認生物も存在しているとのことだった。そのような場所があるということに明確な発表も根拠も無いのだが、千代衛門はそのことに大きな自信を持っている。

「本当ならその生物は全て持ち帰りたいが、あくまでも本命を狙ってもらうとするよ。この先、何が起きるか分からないからね」

 小さく、「はい」という声が聞こえる。

「加茂くん。体に変な所は無い?」

 視界を自分の手の平に落とし、軽く握ったり広げたりして感覚を確かめる。馴染んできたのか、生身の体と遜色ない感覚になってきている。それに加えて、筋力が増加し、神経が研ぎ澄まされているのを強く感じた。

「大丈夫です。むしろ力が漲っている感じがします」

「了解。じゃあ少し歩いてみようか」

「はい」

 ゆっくりと右足を持ち上げ、歩いて行く。伸びた草はまるでそこに存在しないかのように、掻き分けている感覚はほとんどない。そのまま木々の間を通り抜けていく。時々自然に咲いた花や見たことのない虫が飛んでいるのを見かける。周囲を見渡すが、景色が変わる様子はほとんどない。


 耳元でキリカの声がする。

「脈拍などにも異常なし。ここまでは大丈夫みたいね」

 安堵したように息を吐く声が聞こえた。

「ここで今回の目的について再確認しておくね」

 奥でカタカタとキーを叩く音が聞こえる。

「加茂くんには、ここでフンババという生物を発見、捕獲してもらいます」

 フンババを発見・捕獲というキーワードに、思わず苦笑してしまう。

 フンババという名前はRPGや神話が好きな人なら馴染みが深いかもしれない。ギルガメシュ叙事詩に出てくる生物で、妖精とも言われるらしい。ギルガメシュとエンキドゥが共闘し、その首を取ったという。

 加茂自身もその話を何となく聞いたことはあったが、神話級の生物がこの現代に生存していると言われても、すぐに信じることは出来なかったし、何なら今も信じていない。


「そのフンババって、本当にいるんですか?過去に実在したかも分からないのに」

 その言葉に真っ先に反応したのは、依頼主である千代衛門であった。齢80を超えてなお元気である。

「それは間違いない、この山は立ち入りが禁止されているのだが、それはこの森を隠すためだということは分かっている。そこにいるのがフンババではないのなら、そこに一体何がいるというんだい?」

「何って、そりゃあ…」

 先程のキリカの発言から、ここには見たことも無い生物が数多くいるのだろう。それほど生物や植物に詳しくない加茂にでさえ、ここは地上でも特別な匂いを放っているのは間違いなかった。

「化物とかは、まぁいそうですが」

 その答えに満足したかのように、はっはっはと笑い声をあげる。

「そうだろう!ここは立ち入り禁止区域なわけだから、必ず何かがいる。それは森の番人フンババで間違いないんだ!」

 フンババがいるというその根拠が、一体どこにあるのかを聞いておけばよかったと加茂は激しく後悔した。目撃例すらない生物を探すなんて途方に暮れてしまう。いくら体力が長く続くと言っても、精神的な疲れは感じざるを得ない。

 事前にフンババについての資料を見ても、その正体はまばらで、様々な様相で描かれている。つまりこれが正しい姿だというものは無い。これなら、それっぽい生物にフンババと名付けても問題無いだろうと思った。

「ごめんね。君しか頼れる人がいないから」

 加茂にしか聞こえない小さい声でキリカが言った。そう言われてしまうと、いやと返事をすることは難しい。


 この仕事に応募したのは加茂自身だった。待遇もいい。自分が選ばれたことを誇りに感じているし、多少のことなら目もつぶろうと思うが、千代衛門の傍若無人には、ついていけそうにない。

「大丈夫です。さっさとそのフンババとやらを探しましょう。多分いないだろうけど」

 最後は消え入りそうな声量に、キリカは小さく笑いを漏らす。

 

 そのとき、左上に表示されていた円形のマップが波打ち、その形を崩した。聞こえていた風の音も、動物が動き回る音も、いつの間にか止んでいるのに気が付いた。

 その場で歩みを止めると、それに気が付いたのはキリカではなく千代衛門だった。

「どうした?」

 辺りを見渡す。草木が生い茂っていること以外に変わりはなく、フンババが現れた様子もない。

 木々の隙間を注意深く観察していく。望遠鏡でのぞいた時のように、遠くまではっきりと見ることが出来る。

 その中で1本だけ、他の木よりも色が濃いことに気が付いた。そこに焦点を合わせ、2人に相談する。

「見えますか?あの木だけ、他の木に比べて色が濃いんです」

 加茂が見ている視界は共有することが出来る。2人が何か言うまでじっとその木を見ていると、少し間を置いてキリカが答えた。

「確かにその1本だけ色が違うわね。少し待って、調べてみるから」

「分かりました」

 しかし瞬きをした直後、そこにあった木は跡形もなく消えてしまっていた。

「キリカさん!木が無くなりました!」

 加茂のその言葉に、キリカは「え?」と声を漏らす。

「キリカ君、加茂君。準備をしなさい。何かがいる」

 大げさに話すいつもの雰囲気とは違うことに、キリカはすぐに反応した。

「加茂君。念のため武器を転送します。何が起きるか分かりません。可能な限り回避をしてください。こちらからオペレーションします」

 

 何が起きているのかを聞くより早く、右手を青い光が包み込む。それはやがて長く伸びていき、鞘の無い刀身がむき出しの日本刀に姿を変えた。カチャリと音を立てて握る刀は、本来の重さを感じさせないほどに軽く、容易に振れそうだった。

『フンババを発見・捕獲してもらいます』というキリカの言葉が蘇る。捕獲するということはイコール戦う必要があるということを事前に聞かされていたが、まだ色の違う木を1本見つけて、それが消えただけである。二人の様子から察するに、この木がフンババに関係しているということになるわけだが、未だにその現状を理解することは出来ないでいた。


「加茂君!対象は移動しています。周囲マップに生体反応が出ると思うから、注意して!」

 その言葉に、慌てて視界左上のマップに目をやる。まだ自分の白い点しか見えていない。

 現実の体ではないのに心臓が激しく鳴っているような気がした。身体データはキリカが逐一確認してくれているのだろうから、彼女から何かない限りは、問題ないはずだ。


 その時、マップにある自分の白い点のすぐ上に、赤い点が現れたのに気が付いた。視線を正面に戻すと、わずか2メートルほど前方に、自分の体ほどの大きさの顔面が現れた。大きく開かれた口から凶暴な牙がむき出しており、皺が深く刻まれた鬼のような面容には首が無く、代わりにそこから筋骨隆々な足が生えているが、頭が重いのか膝に当たる位置が屈折していた。

 耳の奥で、ひっ、という小さな悲鳴が聞こえる。

 長く伸びた腕が顔の横から生えており、その先にある握りこぶしが、視界の左から襲い掛かってくるのを辛うじて捕える。

 当たるはずがない。

 頭ではそう思っていても、咄嗟に持っていた刀で防ごうと試みる。

 しかしながら腕にかかる力はすさまじく、加茂の体はすさまじい勢いで吹き飛んで行った。幾本の木をすり抜けていき、地面を転がっていく。吹き飛ばされる間に耳から騒ぎ声が聞こえてきたが、何を言っているのかは分からなかった。

 衝撃が全身に及ぶが、外傷も痛みもない。

 膝をつき、元いた方向に体を直したが、その先には何もいなかった。

 立ち上がろうとするが、上手くいかない。息は乱れ、眩暈もする。

 

 今起こっていることに、理解が追いつかない。

 一体あの生物は何なのだ。まるでファンタジー映画に出てくる魔物のようだ。 

 そしてなぜ攻撃が当たったのか、生物に触れることも、触れられることも無いはずなのに。

 疑問だけが頭を駆け巡り、中々行動が起こせない。

 息を整えていると、耳元の声が一層やかましくなる。どうやら千代衛門が騒いでいるらしい。日本語なのかを疑うくらい意味が分からなかったが、辛うじて「フンババ」という言葉だけが聞き取れた。キリカが落ち着かせるようなことを言っているが、千代衛門の声にほとんどかき消されてしまっている。

 

 どうやら、先程現れた異形の怪物がフンババということらしい。顔を見たのは一瞬でも何故か覚えている。横に長く切れた目は瞳が無くて真っ白だった。口は大きく開いてこちらを威嚇しているようだ。腕は2,3メートルじゃ効かない。5メートルはあるだろう。ごつごつしとした長い腕と岩のような握り拳が、今もフラッシュバックする。 

 

 眩暈も収まり、ゆっくりと立ち上がる。これがゲームならHPゲージがいくらか減少していることだろう。だがそのようなゲージは存在しない。いくら殴られようが致命傷になることはないが、生身の体とは精神がつながっている為、精神的な乱れがあればキリカの操作ですぐに戻れるはずだ。だがそうならないということは、自分自身にまだ余裕があるのか、もしくは依頼主の、この絶好の機会を止めたくないという圧力が掛かっているのかということだ。


 一瞬、マップに赤い点が映る。右斜め後ろにそれはあり、刀を体の前に構えてから慌てて振り返る。しかし姿は見つけられず、赤い点はマップの左端へと移動していた。マップの円周に沿うような位置に赤い点はある。瞬間移動を使っているのかと思うような速さに、これが現存している生物なのかと混乱する。

 視線を感じた。間違いなくあの怪物から見ている。すぐに相対しなくては再び攻撃を受けるかもしれない。そう頭では分かっているに、体が金縛りにあったかのように動かすことは出来なかった。

 

 首だけがゆっくりと左に動いた。

 木々が生えそろう先に、フンババの姿があった。

 長い腕を地面に下ろし、こちらを見ている。威嚇的だった先程とは違い、口は閉じられ、目をじっと細めている。まるでこちらを監視しているような、そんな表情だった。

 ここから出て行けと言われている気がした。受けた攻撃はきっと、この地に足踏み入れたことに対する警告なのだろう。


 視線を交わしたままでいると、やっと耳元から指示が飛んでくる。

「大丈夫⁉加茂君!そのままゆっくりと深呼吸をして!心拍数や血圧が高くなって、体に負担が掛かってる。このままじゃ危険よ!」

 その言葉にふと我に返る。その態勢のままゆっくりと呼吸を繰り返す。この最中も、フンババは石像になったかのようにピクリとも動かない。こちらがここから立ち去れば何もしないということなのだろう。猶予が与えられている気がして、少し落ち着いてきた。生身の体は、今どうなっているのだろう。真っ赤な顔をして、ぜーぜー言っているのだとしたら、少し恥ずかしさを覚えてきた。

 

 思案していると、やがて声が飛んでくる。千代衛門の声だ。

「これは大発見だ。今までにこのような生物は見たことが無い。ここまでの挙動は現代生物のどれにも当てはまりはしないだろう」

 やや興奮気味ながらも、今回は聞き取ることが出来た。

「捕獲が最大の目的であることに変わりはない。だがそれが困難な場合、可能な限りフンババの姿を目に焼き付けて欲しい。どうだ、出来るかい?」 

 その言葉には慈悲と悔しさが孕んでいたことに、加茂は気付いた。

 それでも目一杯の譲歩、あるいは加茂に対する諦めだったのかもしれない。現在はもちろん過去にも存在していたかどうか怪しい生物が、これがフンババであるのかは置いといて、存在している可能性があり、それを初めて捕えた人間になれるのだ。それを千代衛門はこれまでに信じ、それを実現しようとしている。

 それは容易く捨てられるものではない。今日この日の為に、多くの時間、財産、研究を積んできたのだ。それらが報われるこの瞬間を、何度も夢見てきたはずだ。

 自身が生きている間に叶えられるか分からないことの為に、研究所を建て、機械を作り、人材を集めた。

 それでも上手くいかなくて、諦められなくて、。

 その最後のカギが、この自分で――。


「加茂君。聞こえる?」

 返事がない自分の安否を気遣ってくれるキリカに短く「はい」と答える。「千代衛門さん」と続けると、「何だ」と返ってくる。

「やれるだけやります。…それで、勘弁して下さい」

 答えは、すぐに返ってきた。

「分かった。少しでも長く頼むよ」

 そうして声は聞こえなくなった。

 貴重な残り時間に、おそらく自分と同じものを見ているに違いなかった。


 依然としてフンババと視線が交わっている。最初に見た頃に比べて、恐怖心は大分薄れてきた。

 一息ついて、体を向ける。フンババの表情が少し強張ったように見えた。

 刀を構える。攻撃するつもりはなく、あくまで相手の攻撃を防ぐための行動だ。

 キリカは可能なら回避をするようにと言っていた。自分の身を案じてのことだろうが、フンババのスピードを見切ることは難しい。だから回避についてはもう考えていなかった。

 

 一歩踏み出すと、鬼の形相が険しくなり、腕が徐々に持ち上がっていった。もう相容れることは出来ないだろう。あとどのくらいここにいられるのかは、時間の問題となっている。

 けれど、歩みは止められない。このまま行くしかなかった。

 少しでもあの姿を長く、目に焼き付けなくてはならない。距離が近づくごとに風が強くなり、動物の鳴き声も大きくなる。フンババだけではない。森全体が、人間の欲望を拒んでいる。そんな感覚に襲われる。

 

 フンババの姿が消えた。こちらに照準を合わせていることは間違いない。けれど、どこから来るのかは分からない。全てはマップと、オペレーターであるキリカの指示、そして加茂自身の動きだけに委ねられた。

「後ろ!」

 ほとんど叫ぶような声が耳に響き、背中に向き直る。マップを見る余裕はない。すでに目標は、目の前で拳を振りかぶっている。

 躱すにはもう遅すぎた。吹き飛ばされないように腰を落とし、足と腕に力を入れる。

 人間の限界を超えているというこの体が、いったいどこまで耐えられるか不明だが、やるしかなかった。

 巨大な拳が、斜め上から振り下ろされる。それが構えた腕と衝突したとき、腕にかかる力が一瞬にして無くなった。

 

 加茂の両肘から下が千切れ、刀と一緒に遠くへ吹き飛んでいく。それらは地面に辿り着く前に、青い光を放って消えていった。

 

 振り切った腕を戻し、目の前の怪物は、ただじっとこちらを見つめている。

 手の感覚も痛みもない。出血もしていない。だがその状況にパニックになることは無かった。改めて、これは夢の中の出来事のようだと思った。

 

 ここで、フンババの生態をまじまじと見た。拳から腕、顔、足。一通り見ても、それは生物というより、人工的に作られた怪獣にしか思えない。

 出来れば背中も見たかったが、それは叶わなかった。心の中で、すいませんと呟く。 

 躱すことも難しく、両腕を失って防ぐことも出来ない。けれど、加茂は抵抗を止めなかった。

 決して負けまいと相手の目を見据えるが、フンババに変化は無い。

 耳元では世話しなくキーボードが叩かれる音と、誰かに必死に何かを伝えようとしている声が聞こえる。

 

 フンババが、最後と言わんばかりに右の拳を大きく引き、体をのけ反らせる。どうやら最後まで徹底するらしい。それでこそ、森の番人としてふさわしいと思った。

 それを見て、覚悟が決まった。

 加茂は全身を震わせて、雄たけびを上げた。

 自分らしくないなと思った。

 この森の出来事が、フンババとの出会いが、自分の中の雄を呼び覚ましたような気がした。

 残った足で駆け出す。距離は1m。今までで一番近い距離だ。


『思う存分見やがれ!』


 鬼面に向かっていく。大きく開かれた口の奥、何かぶら下がっているものが見えたのを最後に、加茂の意識は途絶えた。


 


 ぼんやりと目が開かれる。

 薄暗い天井には明かりが無く、数多ある壁掛けのモニターの光だけがこの部屋を照らしていた。

 白衣をまとった数人がパソコンに何かを打ち込みをしているのを見ると、現実に帰ってきたんだなと思う。

 酸素カプセルのような機械の中で横たわる中、いつの間にか口や頭、腕、足や腹囲にまで様々な装置がつけられている。

 するとモニターに向かっていた内の1人がこちらに駆け寄ってくるのが分かった。後ろで結んだ長い髪が左右に揺れている。

「加茂君。大丈夫?体調は?気分は悪くない?」

 先程まで聞こえていたキリカの声で間違いなかった。

 頭を縦に振ろうとするが、上手くいかない。キリカの手が伸びて、口についていた酸素マスクのようなものが取り外される。

「少し疲れと、脱力感があります。けど、痛いとか気持ち悪いとかは無いです」

 そう答えると、キリカはほっと息を吐いた。

「良かった…けど、念のためメディカルチェックはするからね。初めてのダイブだったし、後で何かあったら大変だもんね」

 「はい」と返事をすると、キリカの横に高齢の白髪頭が現れた。加茂の姿を見る表情は不愛想だったが、加茂にはそれが何だかフンババと被って見え、少しだけ笑ってしまった。


「あれだけのことがあったのに、精神状態も落ち着いているとは、大したものだな」

 嫌味というよりも、どこか感心したような口ぶりに、苦笑いをするしかなかった。

「お疲れ様です。所長。今からメディカルチェックを行いますので、加茂君は連れていきますね」

 千代衛門は一瞬キリカに目を向けた後、すぐに加茂の方に視線を戻した。

「あぁ、それがいい。彼の体は貴重だからな。異常が有ったらお互いに困るだろう」

 淡々とした口調に嘘はなかった。けれどキリカの話し方と比べると、やはり親切味に欠ける。

 その不満を飲み込んで、加茂は言う。

「あの怪物は、フンババなのでしょうか」

「あれは間違いなくフンババだ。森の番人に相応しい動きだったろう?君のことを森を荒らしに来た侵入者のように出迎えておったしなぁ」

 それは加茂も同意だった。やはりあの森林は足を踏み入れてはならなかったのだ。

「もう一度あの森に行きたいが、このままでは同じことの繰り返しになる。私の目的は、あくまでも捕獲だ。それまでにこのRDSも、君も、もっと能力を上げなくてはならない」

「えぇ…もう一度行くんですか…?」

 思わず口に出してしまい、はっとする。流石に面と向かっては不味かったかと思ったが、千代衛門は、ふっと微笑んだだけだった。

「とにかくまずは休むように。次の準備が整うまでにはしっかりと体調を整えておくことだ。まぁ、今回は良くやった。報酬は期待していなさい」

 カプセルの縁を軽く叩き、千代衛門はモニターとにらめっこしている白衣の人物の下に歩いて行った。

 

 それを見届けてから、キリカは加茂の顔を覗き込む。

「メディカルルームは別の部屋にあるんだけど、歩ける?それとも、もう少し休んでた方がいい?」

 本当は少し休んでいたかったが、いつの間にかカプセルの周りで作業を始めている人が何人もいた。おそらくマシンのメンテナンスか何かで、加茂が出るのを待っているのだと推察した。

「いえ、歩けると思います」

 キリカに手を貸してもらい、カプセルから出る。

 

 ゆっくりと歩きながらキリカに先導され、自動ドアから通路に出ると、通路は磨かれたように白く輝いていて、先程の部屋が暗かったことも相まって、異様に眩しく感じた。そうこうしていると「メディカルルーム」のプレートが掛かる部屋に辿りつき、中に入る。

 そこには一人の女性がいた。他の人と同じく白衣を着ており。丸椅子に座ってあくびをしていた。

 キリカ達に気が付くと、眠たげな眼でこちらを見た。

「タワラさん、加茂君を連れてきました。メディカルチェックをお願いします」

 キリカが少し下がって、加茂に道を開けてくれる。「よろしくお願いします」と頭を下げるが、それには興味が無いというように、タワラと呼ばれた女性はもう一度あくびをした。

「あっち。寝て」

 そう言ってダルそうに指を差す。ぶっきらぼうな言い草に、加茂ではなくキリカが溜息をついた。

 はははと苦笑いして指先の方向を見ると、この部屋の中にもう一つ小さな部屋があっり、壁にはドアが一つあるだけだった。どうやらそこに入れということらしい。

 キリカが近づいてきて、背中を優しく押される。加茂は小部屋の方に歩いて行き、ドアを開ける。いたって普通の引きドアだ。中に入ると、すぐにカギが掛かった。

 天井の角にあるスピーカーを通して、部屋の中に声が響く。

「おら、そこにさっさと横になれ」

 部屋の中央には一人用のベッドがあった。乱暴な口調に押されるようにそこに向かい、急いで横になると、急に睡魔に襲われてきた。

「あとはそのままでいいからね。ゆっくり深呼吸して、眠ってもいいからね」

 遠くから聞こえてくる、優しい声。

 体の脱力感が強くなって、瞼がとろんと落ちてくる。

 部屋の外にいる2人が何か話しているが、返事をすることも出来ず、目の前が次第に暗くなっていく。

 

 真っ暗な世界の中に何をするでもなく立っていると、しばらくして、遠くからこちらを見てくる何かがあるのに気が付いた。次第に輪郭がはっきりしてくると、それはフンババの顔だった。手をだらんと下ろし、こちらを監視する瞳はやはり白いままだ。

 そこでふと考える。

 千代衛門はフンババのことを森の番人と言った。それを認めるなら、人を入れず、生態系や自然を守る存在をあの場所から引きはがすことは間違っているのではないか。

 濃い色の木に変態していたのなら、それは森林と一つになろうとしているのではないか。

 それを自分たち部外者が邪魔することは出来ない。

 そもそも関わらないことが正解なのかもしれない。

 けれど、またこのようなことは千代衛門から依頼される。そしてそれを断る術はない。今も準備をしているだろう。

 フンババが遠く離れていく。やはり、背中は見せてくれない。

 いつか見ることが出来るのだろうか。

 次に会う未確認生物は観察するだけがいいなと思いながら、加茂は眠りに付いた。

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