金剛石の花嫁 ⑤
口さがない人々の噂話は小さな村をあっという間に蹂躙した。
呪いだの領地の乗っ取りだの、それまで茶化すように言われていた話が一気に現実味を帯びたのだから仕方ない。田舎にいるのが純朴な青年だけかと思えば大違いだ。実際のところは暇で仕方のない人々が、自分たちを支配する貴族の醜聞は無いかと目を光らせているだけだ。そうして溜飲を下げ、笑うことしかできぬ下卑た人間どもの集まりなのだ。
義母マリアは夫のことや村での噂に精神的に疲弊してしまったらしく、今度は彼女が部屋に引きこもるようになった。ベッドに伏せ、信用している小間使いしか近くに寄せ付けないようになった。セシリアもまたマリアの部屋へと頻繁に向かったものの、実の娘のことさえ拒絶しているようだった。
本来であれば下々の噂など笑い飛ばせばいい。しかしそんなプライドはもはや戯れ言めいて、意味を成さなかった。
ジェロームもまた、精神的に参っていた。疲労からか、気がつくとそれまでいた場所とは違う場所にいたり、書類に自分が書いた記憶の無い言葉が書き込まれていたりと奇妙な事に悩まされるようになっていた。勘違いだと自分に言い聞かせる。そう頻繁ではないものの、ちょっとした異変が続くと現実逃避のひとつもしたくなってくる。
しかし夢のなかでさえ、ジェロームは恐怖に戦くことがあった。
その日のジェロームは冷たい床に座り、視線を落としていた。地下室のようだった。周囲には何人かの人間がいて、靴だけが見える。自分の意思とは関係なく、顔が一度だけあがって周囲の人間を見る。少し離れたところにハロムがいて、こっちを見た。ハロムの手はギロチンに掛けられていたが、その顔には僅かな不安と恐怖が浮かんでいた。周囲に立ちすくんでいた人々が手を伸ばし、彼の体を掴んで引きずった。その首をギロチン台に近づける。途端に何が起きるか理解すると、彼は悲鳴をあげて手を止めさせようとした。
だがそんな恐怖とは裏腹に、ジェロームの体はこれから何が起きるか知っているように、黙って首を差し出した。
「やめろ、やめてくれ……」
その声は自分の喉からは出ず、ただ起きていることを窓のこちら側から見ているしかなかった。ハロムの方を見ようとするが、自分の体なのに指先ひとつ動かすことができない。震える手がギロチンのロープへとかけられたのがわかった。空を切る音がする。
そうしてジェロームは悲鳴とともに飛び起き、全身に汗をかいていた。
あの甘い夢はどこへ消えてしまったのか。
もはや夢のなかに逃げることもできなかったが、ジェロームはそれで戸惑うことはなかった。むしろこんなときだからこそ夢も変なものを見るのだと自分に言い聞かせる。あまり使われていない狩猟室へと足を向けると、こんなときこそ気分転換に限るのだと、ジェロームは自分に言い聞かせた。
その日の仕事を終わらせると、近くにいた使用人にひとつふたつ言づてを言いつけてから外へと出かけた。その足は村へは向かわずに、炭焼き小屋へと向けられた。森にほど近い小さな小屋へと向かうと、主人の姿はすぐには見つからなかった。主人よりも繋がれた犬が先に気付き、撫でてほしそうに近寄って舌を出した。
「よーしよし、賢い子だ」
既にジェロームのことも認知しているらしい。撫でてやると嬉しそうに尻尾を振った。そのうちに薪の束を持ったジズが戻ってきて、頭を下げた。
「おや、ジェローム様。すいません、席を外していて」
薪の束を一旦置くと、帽子をとってもう一度頭を下げる。
「構わんさ。それよりジズ、機会が来たぞ。明日なんてどうだい」
「鹿撃ちですかい。アタシは構いませんよ。他に同行者は?」
「わたしひとりだ。準備をしておいてくれ」
「わかりやした」
ジズは頷いて、帽子をかぶり直した。
犬の頭を何度か撫でながら、ジェロームはふと思い出したことがあった。
「そういえば、あれから獣はどうなった?」
「はあ、獣ですか。それらしい気配はありませんな。奥のほうへと逃げていったのかもしれません」
どこかきょとんとしたようにジズは答える。
「それは僥倖だ、ちょうど良かった。ようやく面倒なくこの森に入れるな。期待していた成果があればいいんだがね」
顔を舐めてきた犬に笑いかけながら言ったが、やはりジズはどこかおかしな表情をしていた。
「そうは言いますが、ジェローム様。ジェローム様も、最近はよく森においでになったではありませんか」
「なに?」
ジェロームは呆気にとられた。
犬を落ち着かせると、目を瞬かせる。
「わたしがひとりで森に入ったと?」と尋ねてから、「見間違いだろう」と続ける。
「わたしはここへ夫としてやってきてから、いまだ自分の趣味にさえ没頭できなかったのだから」
だがジズは首を振った。
「いいえ、いいえ。ジェローム様だけではありませんや。セシリア様もご一緒していたではないですか。ずいぶんと仲睦まじいご様子で、館でお見かけするときとはずいぶん違って見えましたので、これはお邪魔してはいけないなと」
ジェロームは今度こそ言葉を失った。
立ち上がってジズに近づいていくとき、相当にひどい顔をしていたのだろう。ジズはやや怯えたように、動揺した顔で目線を逸らした。
「すみません、見るつもりはありませんで――」
「それは、本当にわたしだったのか?」
「え、ええ。確かにジェローム様でした」
「いつの話だ?」
「いつと言われましても……そのう」
老人の目は戸惑いがちに伏せられる。
「いいか、これは命令だ。重要なことなんだ。言ってくれ」
「いちばん最近では、確か、ハロム様が亡くなって二、三日ほどしたあたりで……」
ジェロームは深く息を吐いた。
「では、最後にもうひとつだけ教えてくれ」
「は、はい」
「セシリアを襲って死罪にされた庭師――そいつの名前はなんだった?」
唐突な質問にジズは少し戸惑ったが、老人は的確にその名を告げた。
いまにも襲いかかってしまいそうな自分をなんとかおさえ、怯える老人の肩を軽く叩いた。何度も頷き、「わかった」と小さく言ってから踵を返した。
炭小屋から引き返し、足早に屋敷に戻りながら、強烈な既視感の正体を探る。
ハロムが死んだあと、森のなかで、セシリアと連れだってダンスのように踊る。まるでそれが当然というように。それは夢のなかだけの存在しないはずの記憶だったが、間違いなく現実なのだ。
彼はもうその答えにたどり着いていた。答えを知っていた。知っていてなお、受け入れることができずにいた。身震いする。
あれは実際にあったことなのだ。
だが――だがそのときの自分は、明らかにジェローム自分ではなかった。
ニールだ。
庭師のニール。
死人が自分に成り代わろうとしているのだ――いったいいつからこんなことに?
ジェロームははっと気付いて館にとってかえすと、まだ自分が自分であるうちに震える手で手紙を一枚したためた。
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