金剛石の花嫁 ④
婚姻から半年が過ぎた頃、ハロムが死んだ。
ハロムはあれからまったく良くなる気配を見せずに、憔悴するばかりだった。最近では相手の言葉を聞き取れないようで、聞き取れない部分を勝手に推測して返事をしてくる。その言葉もどことなく不明瞭なため、使用人たちも意思の疎通がとれずに困り果てていた。かといってむやみに聞き返したりすればハロムの怒りに触れ、暴れようとした。これはもうお手上げだった。おまけに手足の痺れはどんどん酷くなっているらしく、最近では運動機能どころか日常の些細な動作にも苦労していた。もしかすると視界や感覚機能にも影響が出ているのかと素人目にもわかるほどだった。
義母はそんな夫のフォローに回らねばならず、こちらもまた憔悴しきっていた。
ここまでくると、何か妙なことが起きている気がした。
ジェロームもまた睡眠不足に悩まされていた。きちんと眠れていない時があるようだった。
そんな現実から逃れるためなのか、ときおり夢に見るのはセシリアとの逢瀬だった。自分でも意外なほど印象的だったのか、庭で出会うことが多かった。夢のなかのセシリアは現実の彼女と異なり、いかにも少女めいた若々しさがあった。妻ではなく恋人であるように、彼女はジェロームの手をとったかと思えば、振り払って駆けだして嬉しそうに花々に隠れてしまう。
「やあ、どこに隠れたんだい、お嬢さん。この悪戯っ子め!」
彼女を見つけ出そうと、わざとらしく声をあげる。
蜜月のごとき夢は、次第に現実味を帯びていく。
なにしろ夢は日が経つにつれて鮮明になっていた。境目を失いっていた景色がくっきりと浮かび上がり、彼女の髪の艶までもが現実のようだった。そんな時間は日に日に長くなっているように思えた。まるで夢のなかのほうが本当の自分であるように錯覚してしまう。現実から逃げるように、幻の彼女に恋するように。
だが無情にも夜明けはやってくる。鶏の鐘が鳴り、魔法は解ける。
ジェロームは長く夢に浸ったあと、決まって疲れ切っていた。
そうして逃げられぬ現実が目の前に立ち現れるのだ。果たしていかなる災難がこの家に降りかかっているのか、とんと見当もつかなかった。
ハロムの様子は日に日に悪くなっていく。村のほうでは、ジェロームがこの領地を乗っ取るために毒を盛ったのだという噂さえあった。だが神に誓って、ジェロームはなにもしていないと言える。噂は噂を呼び、首を切られた男が一族を呪っているとか、セシリアこそが不貞の女であり、呪われた結婚だっただという根も葉もない噂まであった。
しかしそんな状況でも――こんな状況だからこそなのか――セシリアだけはしっかりと前を向いていた。両親の具合が優れず、夫の様子さえもが良くないというのに。彼女の存在だけがこの家で光り輝いているようだった。少なくともジェロームにはそう見えていた。このときまでは。
義父は死の直前になって、ジェロームを部屋に招き入れた。
「やはり都から医者を呼び寄せましょう」
いくらジェロームでも、死の淵にある人間を放っておくことはできなかった。
「私の伝手で良い医者を知っております。セシリアも薬を取り寄せておりますが、限度というものがあるでしょう。あなたは村の医者を信用しているのかもしれないが――」
「……お、お、お前はいま、ちゃんとジェロームか?」
ハロムは不明瞭な発音ながら、そう尋ねた。
「なんですって?」
「お前は、お前でなくなっている時がある……」
「……どういう意味です?」
「なら――聞け! 聞いてくれ。頼む、いまさらなんだと思われるかもしれん。だが、だが、あの子に気をつけろ……」
ジェロームは戸惑った。
少なからずショックを受けていた。気をつけろとは、どういう意味だろう。
「お前は、おまえは……」
ジェロームは考え込むように、下を向いた。目を閉じたところまでは覚えている。だが次に目を開けたとき、まるで眠りから目覚めるような感覚に襲われた。自分が一瞬、どこにいるのかわからなかった。長い沈黙を挟んだ気がした。だがそうして顔をあげたときには、もはやそれどころではなかった。ベッドの上で横たわるハロムは、驚愕を浮かべた表情のまま、凍り付いたようにその一切の動きを止めていた。死神が不意に鎌を振り下ろしたかのごとく――その表情は恐怖に引きつり、忌まわしい凶事を暗示していた。
「だれか……」
真っ青な顔でジェロームは叫んだ。急いで扉を開け放ち、声を張り上げる。
「だれか! 人を呼べ! 義親父殿が!」
それからすぐに医者が呼ばれ、死んでいると告げられるにはそう時間は掛からなかった。
村のなかではたちまちのうちに、噂が膨れ上がった。もしかして本当にジェロームがハロムを殺したのではないかと――そう囁かれた。なにしろまだ半年だ。半年前にはまだ元気だった人間が、これほどまでに憔悴しきるだろうか。そしてハロムはジェロームの目の前で死んだ。恐怖に歪んだ引きつった表情で。噂が都にまで流れていくのは時間の問題だろう。
ジェロームは現実から逃れるように、夢のなかに沈んでいった。
夢のなかで、少女のごときセシリアが手をとって、森を進む。手を大きく広げ、踊るように跳ね回り、月の下でスカートを翻す彼女は本当に小さな娘のようだった。
しかしこれまでと違って、ジェロームはその光景を窓の中から見ているような感覚に陥っていた。間違いなく自分の視点であるのに、まるで別人が体を操作しているのを見ているような感覚だ。
久々の逢瀬を楽しむ若き魔女を、どうにか捕まえようと手を伸ばす。笑い声が木の裏から聞こえたかと思えば、すぐさま振り払って茂みの向こうから。三度目にその背中をとらえたとき、肩に手を置いてようやく捕まえた。彼女は振り返ると、ジェロームを下から見上げて頬を染めた。ほんの少し目線を逸らしてから、今度はじっくりと目を合わせる。恋と愛とが混ざり合った目だった。彼女は甘い声をあげて抱きつき、唇を重ねる。喜びに溢れた口づけのあと、潤んだ目で名を呼んだ。
「ニール」
彼女が呼んだのは彼の名ではなかった。
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