第1話

『少しは自分の頭で考えろ』


 先輩からのチャット。謝罪のメッセージを入力して、エンターキーを押した。既読のマークがついて、それきり先輩からメッセージは返ってこなかった。


 加藤 栄太はスーツのジャケットを椅子の背もたれから取り、袖を通した。古臭いPCはブツリと音を立ててシャットダウンされ、敷居を隔てた向かいでは死にそうな顔をした同僚がPCとにらめっこしている。血走った目で液晶にキスをしそうなくらい噛り付いているのを見ると、終業の挨拶をするのもはばかられた。ごく小さな声で「お疲れ様です」とつぶやき、筆記用具と財布しか入っていない鞄を片手に会社を出た。


 あくびをしている警備員の横を通ってゲートを出ると、後ろから「お疲れさまでした」と声を掛けられる。振り向くとさっきあくびをしていた警備員の男が会釈していた。こちらも軽く会釈で返し、会社のビルを出る。ふと上を見上げると、自分たちの会社のフロアだけが煌々と明るく光っていた。


 ズボンからスマートフォンを抜き出すと、画面に表示される時計を見た。23:25の文字。終電には間に合う。早歩きで駅に向かい、酒に酔ったサラリーマンたちと一緒に電車に押し込まれる。そこから一時間ちょっと立ったまま電車に揺られ、自宅近くの駅で降りた。乗るときにはあんなにギュウギュウだった電車が、いつの間にか乗客全員が座れるほど空いていた。


 駅から徒歩20分。築30年の古びたアパートの階段を上がり、他人が住んでいる部屋の前を通ってから305号室で立ち止まる。コンビニで買ってきた弁当の入ったビニール袋を手首に引っ掛けて、鍵で家のドアを開けた。ギィギィ軋むドアを開けると、すぐ目の前にほとんど使っていない小ぶりのキッチンが現れる。扉を隔てた奥側の部屋には、テレビとベッド、随分前に買ったゲーム機が置いてあった。


 ジャケットをハンガーにかけると壁の微妙な出っ張りにそれを引っ掛け、脱いだズボンも同じようにした。それから申し訳程度にシャワーを浴びると、黒い髪の水分をタオルで拭き取ってから戻ってきた。それから弁当をレンジで温め、テレビの前に座った。部屋の隅に置いてあるゴミ箱からゴミが溢れそうになっていたが、何も見なかったふりをした。壁に画鋲で貼りつけられたゴミカレンダーによると、燃えるゴミは昨日だ。


 栄太は地べたに放ってあったテレビのリモコンを取り、電源をつけた。少し待っているとモニターがつき、栄太はチャンネルを変えていく。テレビ通販、知らないアーティストが進行役をしているバラエティ、ニュース。ニュースだけちょっと見てから、テレビの電源を落とした。


「最近のテレビってつまんないよな」


 誰にいうでもなく呟いた。もちろん返事が返ってくるわけもなく、少し温めすぎた弁当をかきこむと歯を磨いてベッドに潜り込む。スマートフォンでSNSをぼうっと見ているうちに、眠りに落ちた。


 翌朝。ふと目が覚めた栄太はスマートフォンを取り上げた。6:50。いつもより30分ほど早い起床だ。


「なんだよ、まだ寝れるじゃん」


 そう呟いた栄太の耳に、ゴロゴロ……と不穏な音が聞こえてきた。怪訝そうな顔をしてカーテンを開けると、黒い雨雲が空を覆っているのが見えた。時々空がピカッと光り、遠くで稲妻が走る。


「げぇ~。早めに行かないと電車混むじゃん……」


 両腕で持ち上げるようにして上体を起こすと、滑り落ちるような姿勢でベッドを降りた。はぁっと大きなため息をついて洗面所に行くと顔を洗って歯を磨き、暴れくるっている髪を手櫛で整えた。キッチンに戻ってケトルで湯を沸かし、コーヒーを1杯だけ飲むとスーツに着替えて家をでた。


 ちょうどアパートの階段を誰かが降りていくのが見え、わざとゆっくりと鍵を閉める。足音が遠ざかったのを確認してから自分も階段を降りていく。雷鳴はさっきよりも大きくなっており、薄暗い朝の空は何度もピカピカ光った。


 ぽつぽつと雨が降ってきたので家から持ってきていた傘をさすと、いつもと同じ通りを歩いた。駅に向かうまでに大きな自然公園があり、その中を突っ切っていくと近道になる。今日も何とはなしにその公園を通ることにした。


「ああ、仕事面倒くせぇ~」


 周囲に誰もいないのを良いことに、少し大きめの声でぼやいた。


――ワンワン!!


 公園の池を挟んだ向かい側、10メートル以上離れたところから犬がこっちに向かって吠えている。飼い主にたしなめられているようだが、それでも犬は吠え続けていた。


「うるさいなぁ」


 そう独り言を呟いたとき、頭皮にピリピリした違和感を感じた。なんだろうと思う間もなく空が激しく光り、周囲に聞いたこともないような轟音が響き渡った。栄太の全身を激しい衝撃が包んだ。


 何もわからないまま、栄太は気を失った。


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