第5話 保護犬である、その子を引き取る手続き

「この子を引き取りたいです」

そう言った私に母は

「本当にこの子でいいの?

命なんだからね?

取り返しはつかないんだからね?」


と、繰り返し言いました。


私はうん、わかってるとまた返しました。


スタッフさんはとても嬉しそうでした


そして

「今日連れて帰りられますか?」


と、言ったのです。


その言葉に違和感がありました。


私の拙い認識の中で、保護犬や保護猫というものは

いろいろ面談を重ねたり

家にちゃんとペットが飼える環境なのか、保護団体が見に来たり

トライアルをしたり


とにかく、ペットショップで買ってくるのと違って

いろいろと、面倒な、だが、必要不可欠のやりとりがあるという

知識があったからです


トライアルはないんですか?


私が何気なく聞くと


うちの団体では、終生飼育を目標としてますので、トライアルはないんです。


……という、答えになっているような

なってないようなそんな返答が返ってきました


しかし、まさか、昨日の今日で引き取ると思ってはいなかったので


キャリーも何も持ってきていないし、

大体、ここにはバスで母と二人きりで来たのです


「一旦帰宅して、父を連れて、数時間後に迎えに行きます」


私たちは、そう告げていったんその場を去ろうとしました


「ちょっと待ってください! その前にお手続きをお願いします」


スタッフさんは目に見えて焦っていました


もしこのまま私たちが帰ってしまって

結局、契約が成立しなければ、ペナルティーでも、あるのだろうかと、そう想像するくらいには。


「ご連絡先と、あと審査があるので、このタブレットに基本事項を記入していただければと思います」


私と母は渡されたタブレットを手に、互いに顔を見合わせましたが


「本当にいいのね」


母がもう一度最後の念押しを私にして。


私は


「うん」


と、覚悟をもってうなずきました。


母がタブレットの操作に慣れていないので

私が操作しながら母と一緒に基本事項を記入していきました


私たちの氏名住所、世帯主である父の年収、年齢

何の仕事をしているか

家族は何人か

ペット可住宅か


あとは一度犬を引き取ったら

返還することは基本的にはできないこと


保護団体が指定する保険に入ってもらうこと


そういったことへの同意事項をチェックボックスで確認していきました。


そうして一旦、私たちの情報を送信すると


5分か10分もしないうちに


「審査が無事通りました!」


と言われてファンファーレのような音が鳴りひびきました。


世帯主である父が65歳を過ぎているので

心配ではあったのですが

父の収入の多さと

まだ若い私の存在が

審査を通したのだろうか

その時は、そんなふうに呑気に考えていました


そしてその場で私たちは、父にスマホで連絡し


新しい子を迎えると決めたこと

キャリーケースを持って車で迎えに来て欲しいことを告げました


拍手に包まれる中、引き取ることになる、新しい子の首に

スタッフさんが目印になる黄色いリボンを結びました


その瞬間。


私は今でも覚えています


さっきまで混沌としていた、闇と表現するほかない

その漆黒の目に 


黄色いリボンが首に結ばれた瞬間に


ぱっと光がともったのです


さっきまで目を合わせなかったのに

嘘のように、食い入るように、その子は私たちを見つめ始めました


わかるのです

わかっているのです。この子たちは。


自分たちがどのようなところから来て

今どのような場所にいて

そして

これから先、どういう運命をたどるのか


リボンを結ばれた子は幸せになる

結ばれなかった子は……


そう。

結ばれなかった子はどうなるのでしょう


たくさんいる。可愛い子。

マロンに似た子。

できればみんな引き取りたい


でも、そんなことは不可能です


みんなにリボンを結んであげたい。


でも、私たちに伸ばせる手の先にあるのは

たった一匹だけなのです。


そうして30分ぐらいすると父が、やってきました


すべての手続きが進んでないと言うと


なら、俺はここら辺をぶらぶら見てくるから手続きが終わったら呼んで

と言って、持ってきたキャリーケースを置いて行ってしまいました


その保護団体は


まず、その子を引き取るにあたって


接種したワクチン代

狂犬病予防接種代

マイクロチップ代


などを求めてきました


そして、プラスして


活動を続けていくために

寄付をいただいていると言いました


最低でも、6万7千円


それ以上の寄付も可能です


と言われました。


保険は年間

約3万円


引き取るにあたって

それだけで、私たちは

10万円以上支払うことになるのです


マロンは、ペットショップの売れ残りですが、8ヶ月ほどの年齢で同じ位の値段でした

母は、だからでしょうか?

成犬なのにずいぶんお高いんですね


と口を尖らせました


でも。


これからも保護活動するにあたって、お金が必要なんです。

ご理解ください。


と、言われれば、黙るほかありませんでした


何にせよ、お金を支払わなければ

目の前にいる、つぶらな瞳をした命を

家に迎えることにはできない


選択肢はありませんでした


この子は出産経験はあるんですか?


母が聞くと、


元繁殖犬で6回出産しています


スタッフさんが答えます


私は驚きました


子犬のような、こんなに小さな体で


6回も出産している?


トイレトレーニングはされてません


と言う説明も受けました


この子は一体どういう生活をしてきたのだろう


そして


カルテに書かれている

識別番号あり 

と言う文言が引っかかって


「識別番号ありってなんですか?」


と、聞くと


「元繁殖犬で、ブリーダーさんのところで、識別番号を耳に入れられているのです」


と、スタッフさんが無機質に答えます


耳?


私がその子の耳をひっくり返すと


ピンク色の地肌にPS-0105

という刻印が刺青で刻まれていました


人間は他者に対してどこまで残酷になれるのだろうか


そう思った瞬間でした

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