第5話 忘却




 お母さんの手が、あたしの背中をずっと撫でている。


 しばらく抱き合っていると、匂いとか感触とかは気にならなくなってた。


 すると、黙ってその様子を見てた瑠璃垣が急に語りだす。




「6年前、姫奈さんはまだ未完成だった異界に落ちたんだろうね」


「行方不明になったのは、あたしたち家族に嫌気が差したからじゃなかったんだ」




 お母さんがいなくなる前日、お父さんと喧嘩をしていたのを知っている。


 祭壇の前で口論していたから、あたしは嫌になって布団をかぶって寝たのだ。


 するとその翌朝、すでにお母さんの姿はなかった。


 お父さんは平然とした様子で『少しお出かけしてるんだよ』と言っていた。


 あのとき本当は――お父さんは原因を知っていたんだろう。




「柱さんの家族がそれを故意に行ったかはわからない。でも姫奈さんはこの閉じられた異常な空間の中で、未完成の状態で長期間放置された結果、半端な存在になり果ててしまった」


「故意とか計画的とかどーでもいいよ。お父さんが殺したようなもんじゃん!」




 あたしがそう叫ぶと、お母さんの視線がこちらに向けられた。


 何かを言いたそうだ。


 けれど言葉にならないのだろう。


 少なくとも、あたしの言葉を否定するようなものではないことはわかった。


 お母さんだって、自分をこんな目に合わせたお父さんのこと、恨んでるはずだから。




「どうせあの二人も家にいるんでしょ」


「邪魔してくると思う」


「もう人間の形はしてなさそう」


「望んでこの空間を生み出した人たちだから、おそらくは……」


「中身と一緒でさぞ醜い姿をしてるんでしょうね」


「辛くない?」




 瑠璃垣の言葉には実感がこもっていた。


 彼女は両親の命こそ失っていないものの、実質的に親を無くしたようなものだ。


 単純な同情ではなく、心からあたしを心配して出た言葉だろう。


 対するあたしはこう答えた。




「今は怒りで頭がいっぱいよ」




 それは強がりではない。


 実際、今は母をこんな目に合わせ、あたしや他人を巻き込んだ二人のバカに怒りしか湧いてこない。




「後で泣くかもしれないけど、それは今じゃない」




 口数は多くないけど、穏やかなお父さんではあった。


 たまに不気味だったけど、優しいお祖母ちゃんではあった。


 毎日接する中で、嫌悪するような人間ではない。


 むしろ、人並みに家族愛だってあったし、急にあれが失われるとなったら悲しくて仕方ない。


 今は怒りのおかげで、目をそらせているだけだ。


 だけど、今はそれが都合のいいことだと思う。


 決意が揺らぐで苦しむぐらいなら、後先のことなんて考えずに、早く終わらせたい。


 そんなあたしの気持ちを汲んでくれたのか――お母さんはあたしから体を放すと、公園の外へ移動しはじめた。




「お母さん、どこ行くの?」




 不安になって、瑠璃垣にも視線を送る。


 彼女は言った。




「付いていこう。姫奈さんなら、柱さんの家の場所を知ってるかもしれない」




 お母さんは6年間もこの空間を彷徨った。


 誰よりも地理に詳しいということだろう。


 あたしは瑠璃垣と一緒に、お母さんを追いかける。


 その最中、ずっと抱いていた疑問を瑠璃垣にぶつけることにした。




「ねえ瑠璃垣、さっきから思ってたんだけど、何でお母さんのことを姫奈さんって呼んでんの。知り合い?」


「……」




 瑠璃垣は無言で、あたしと目を合わせようともしなかった。


 露骨に隠し事をしている。




「今さら言えないことなんてあるわけ?」


「言ったって無駄なことだから」


「その言い方、めちゃくちゃムカつくんだけど」


「……言ったらもっとムカつくと思う」


「何それ」




 あたしと瑠璃垣が少し険悪になると、お母さんが急に動きを止める。




「ここが家……じゃないみたいだけど」




 案内が終わったわけではないらしい。


 さらにお母さんはこちらを振り返ると――今度は、瑠璃垣の方を見て言った。




「しおん……ちゃん」




 瑠璃垣に触手を伸ばして、握手を求めるように腕に絡みつく。




「しおんちゃん」


「しおん? こいつは瑠璃垣ナナだよ。お母さん、誰と勘違いしてるの?」


「かわいそうに。たべられた……しおんちゃん……」




 食べられたって――そういや瑠璃垣、6年前に襲われたって言ってたよね。


 そのこと言ってる?


 すると瑠璃垣は観念したようにこう言った。




「あなたは覚えてるんですね、姫奈さん」




 ……やっぱ知り合いなんじゃん。




「お母さんのこと知ってるならそう言えばいいのに。で、シオンって何なわけ」


「おともだち」




 お母さんがそう告げる。


 お母さんと瑠璃垣が友達? と首を傾げようとした直前、さらに言葉が加えられた。




「あきの、だいじな、おともだち」




 あき。


 あきって……天姫? あたし?




「ごめんなさい」




 いや、なんでお母さんが瑠璃垣に謝ってんの?




「姫奈さんが謝ることなんて」


「わたし、たちの、せい。ごめんなさい」




 お母さんたちのせい? 瑠璃垣の、何が? 襲われたこと?


 ああ、またわけわかんない話になってきた!




「ちょっと説明しなさいよ。あんたとあたしが友達って、どういうこと!?」




 あたしが瑠璃垣に詰め寄ると、それを諌めるように、お母さんの触手が伸びてきた。




「あき。なかよく。しおんちゃんと、なか、よく」


「知らない。あたしと瑠璃垣は仲良くなんてないっ! だってあたし――」




 同意を求めるように瑠璃垣の方を見る。


 けれど彼女は否定しない。


 まるでそれが事実であるかのように、どこか苦しげにうつむいていた。




「本当に……そう、なの?」


「……」


「瑠璃垣、知ってるんでしょう!? 答えなさいよ!」


「答えたところで」


「あたしの疑問は解けるわ!」




 瑠璃垣は顔を上げ、あたしを真っ直ぐに見つめながら言った。




「消えたものは、戻ってこないよ」




 それは――あたしが、何年もかけて証明してきたことだった。


 たぶんあたしと瑠璃垣は幼馴染で、母親が認識してるくらい仲良しで。


 けど今は、あたしが一方的に瑠璃垣を虐げる関係。


 そのどこに原型があるのだろう。


 全てを失った絶望の中で、一番の友達だったあたしが与えたものがその痛みで、苦しみで。


 瑠璃垣はそれすらも嬉しいと言った。


 乾いた砂漠を彷徨った末に、一滴の水にすがるような気持ちだったんだろう。


 何も言えない。


 瑠璃垣に、あたしは、何かを言う資格なんてない。




「あのとき、私を襲った怪異を差し向けたのが、天姫ちゃん・・・・・の身内だったことには驚いたけど。姫奈さんが謝るってことは、そういうことなんですね」




 まるで頷くように、お母さんの体がぐにゃりとうねった。




「この空間の特性を考えれば、無関係という方が不自然か」


「天姫ちゃんって……その呼び方は」


「昔はこう呼んでた」


「あたしはあんたのこと、何て言ってたの」


思音しおんだよ」




 たぶんそれは、瑠璃垣の本当の名前なんだろう。




「ナナは……名無しの、ナナって言ってたわよね」


「存在を食べられたときに名前も持っていかれたんだ。戸籍や名簿を書くとき、名前を書いても認識できなくなった。この空間に侵入するときもそれを利用したの。学校の教師役、私の名前を認識できてなかったでしょう? あれで個人を特定できなくして、時間を稼いだの」




 そんなやり取りがあった気がするけど、今はまともに思い出せない。




「面白いよ、初対面の人は絶対に読めないんだ。そして私が“ナナです”って声に出してデタラメな自己紹介をすると、それが事実だってことになる。本当は思音って書いてあるのにね。誰も私の本当の名前に気付けないの」




 何が面白いの。


 自分の名前すら、この世界から消えてるっていうのに。


 どうしてそれで笑えるの。




「ナナはさしずめ、私のまがい名ってところかな。そしてちかい名が思音」


「名前を変える理由なんてないじゃない」


「何も無いまっ白なゼロから始めるより、元からあった関係性を失って、また最初から始める方が辛い」




 そんなの現実逃避でしかない。




「だから私は名前を捨てて、思音ではなくナナという別人になった……つもりだった」




 ほら、やっぱり。


 その顔、結局は辛かったんだ。苦しかったんだ。




「気休めだよ。そうでもしないと、耐えられなかったから。死んじゃいたい、消えちゃいたい、どうして生き残ったのか――そんなことばっかり考えて」




 天を仰いで、きっと過去を思い出している。


 幸せだった頃を。


 あたしと違って、二度と戻れないものに、手を伸ばしている。




「優しかったお父さんやお母さん。大好きだった天姫ちゃん。みーんな、私のことを他人みたいに見てくるものだから」




 お母さんと再会したときと、違う意味で涙が溢れてきた。


 きっとその涙は、あたしが飲んできた汚水みたいに穢れてる。




「つまりあたしは、大切な幼馴染をずっといじめてきたってわけだ。この世で一番辛い思いをしてる人を、自分の身勝手だけで!」


「嬉しかったよ」


「とんでもないクズじゃない! よっぽど、あたしの方が死ぬべきよッ!」


「本当に、嬉しかったの」




 お願いだから笑わないでよ。


 責められるより、ずっと辛いの。




「少しでも天姫ちゃんの中に私が残ってることが。そして天姫ちゃんの声を聞いて、触れ合えることが」




 それが罵倒だったとしても?


 それがハサミやカッターの刃だったとしても?


 たとえ死を願われても、拳や脚で蹴られても、それでも――それでもあなたは――




「嘘なんてない、心の底から幸せだったんだ。殺されてもいいって思うぐらいに」




 嫌でも理解してしまう。


 瑠璃垣に比べて、あたしは――なんと薄っぺらいことか。


 存在価値なんて皆無に等しい。


 だって、結局、瑠璃垣がこうなったのってあたしと仲良くなったせいじゃん。


 あたしは、あたしなんて、あたしなんかがいたからッ!




「そんなこと言われても……あたしは、自分のことがクズだとしか思えない……頭に少しだけ残った瑠璃垣の思い出を、目障りだって言って……それで、暴力振るったりしてさ」


「覚えててくれた」


「忘れたからこうなってんのよッ! 残りカスしか残せなかった恩知らずなのあたしはッ!」




 もう誰に怒ってるのかもわからない。


 自分自身に? でも自分に怒ったところでどうしろっていうの?




「何なのもう……ッ! わかんない! あたし、どうしたらいいのよおおぉっ!」




 あたしの声が、異様な色をした空に響き渡った。


 お母さんの触手が伸びて、あたしの背中をさする。




「あき……げんき、だして」


「天姫ちゃん、私は本当に恨んだりしてないから」


「その呼び方も原因だってわかってんの……?」


「ごめんね、ずっと呼びたかったんだ」




 そんなこと言われたら、もう何も言えない。


 名前を呼びたいという些細な願いにすら苛立つあたしが終わってるだけだから。


 ああ終わってる。


 消えたい。死にたい。誰かあたしも消してほしい。


 でもそうしたら瑠璃垣が悲しむ。お母さんも悲しむ。


 お父さんやおばあちゃんに頼んでも怪物に変えられるだけ。


 どうしろって。


 どうしろっていうの。


 たぶんあたしこそが、本当に空っぽな人間なんだ。


 あたしの中には元々瑠璃垣がいっぱいいて、それが失われたから、こんな皮だけみたいな人間ができあがったんだ。


 残ったのは何かな。


 柱家の血?


 ああ、じゃあこうなるのも仕方ないね。


 クズの家に生まれたクズ女にクズの要素しか残ってないんだもん!


 こんなあたしに、“何か”できるって思うことが思い上がりなんだ。


 あたしに変えられるものは何も無い。


 お母さんや瑠璃垣の決意に、ついていくことしかできない。




「一つ、教えて」




 それでもなお、一つだけ確かめたいことがあった。




「保健の先生は、手遅れだから殺したって言ってたよね。もし祭壇を壊して、叫川に戻れたとして……“手遅れ”の人って具体的にどうなるの?」




 この空間で殺されたら終わりなのは理解できる。


 じゃあこの空間が消えた場合、どういう形で決着が付くのか。


 それを確かめて起きたかったんだ。


 お母さんが、目の前にいるから。




「変異した部分は消滅すると思う。私が天姫ちゃんと接触したのは、“こちら側”に引き戻すことでその影響を減らすためだった」




 要するにあたしが例のグロテスクなイソギンチャクのままだったら、死んでたってことだ。


 それを人の形に戻すために、瑠璃垣は接触してきたんだろうし。




「じゃあ、お母さんは? 助ける方法はないの?」




 答えをためらう瑠璃垣。


 代わりに、お母さん本人が答えた。




「きえる」




 簡潔に、結果だけをまず告げる。


 たった一言が、ずしりと心に重くのしかかる。




「あき、たすけたら。きえていい」




 そう言って、お母さんの口元が歪む。


 それは笑っているような形に見えた。


 続けて、お母さんは言った。




「もう、しなせて」




 たぶんそれが、一番の願いなんだろう。


 あたしは何も言えなかった。


 お母さんにも瑠璃垣にも、結局あたしは何もできないんだから。


 権利も資格も力もない。


 何もない。


 空っぽのクズ。


 うつむいて、唇を噛んでると、またお母さんは優しく抱きしめてくれる。


 たぶん、母娘で触れ合えるのはこれが最後だ。


 そんな予感がした。



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