第4話 再会

 



 テントで目を覚ます。


 天井から視線をそらすと、瑠璃垣と目があった。


 どうやらずっと気絶したあたしのことを見ていたらしい。




「運んでくれたの?」




 自分でも予想していなかったくらい、弱々しい声が出た。


 甘えているみたいで、我ながら気持ち悪いと思った。




「あのまま寝かせておくわけにはいかないから」


「ん……あのさ」


「とりあえず、うがいだけでも済ます?」


「わかってるなら水もってきて」




 言おうとしていたことを先取りされて、ふてくされる。


 子供っぽい態度だ、嫌になる。


 上体を起こし、瑠璃垣の持ってきてくれたコップを受け取った。


 中には透き通った水が入っている。




「昨日はあたし……これを汚いと思ってたのよね」


「正常になってよかった」


「……あたしがおかしなこと言ってるって、わかってたの」


「見るからに、だったから」


「はっきり言えばよかったのに」


「刺激が強すぎると逆効果になると思ったの。何事も積み重ねが肝心だしね」




 あたし自身、自分の身に何が起きたかわかってない。


 だから瑠璃垣が言っていることが正しいのか、デタラメなのかもわからなかった。


 ひとまず水を口に含む。


 久しく口にしたまともな飲み物。


 甘さを感じるぐらい、おいしかった。


 とはいえ大事なのはまずうがいをすること。


 口を揺すった水を、瑠璃垣が用意してくれたバケツに吐き出すと、形容しがたい色で濁っていた。


 あたしは顔をしかめ、現実から目を背けるように、コップに溜まった水に視線を落とす。


 うっすらとあたしの顔が反射していた。


 そこに写っていたものは――到底、あたしだと思える姿ではなかった。


 コップを握る両手が震える。


 呼吸が乱れ、現実を直視するのが怖くなる。


 すると瑠璃垣は、無言で手鏡を持ってきて言った。




「一応、見ておく?」




 怖い。


 でも、そのまま放置するのが、もっと怖い。


 手を伸ばし、手鏡を受け取った。


 そして深呼吸を挟んで、反射する自分の姿を確認する。




「こ、こんな、化物みたいな……のが……あたし?」




 そこに写っていたのは、ゾンビだとか、鬼だとか、それをもっと醜くしたような、汚れ果てた自分の姿だった。


 髪は当然のようにボサボサ、肌もガサガサで、色なんて元の肌色が見えないぐらいで。


 あまりに醜くて、勝手に目から涙がこぼれてきた。




「やだぁ……こんなの、違う。こんなのあたしじゃない! あたしじゃないいぃぃ!」




 八つ当たりをするように、手鏡を壁に投げつけた。


 そんなヒステリックな叫びを聞いても、瑠璃垣は何も言わなかった。




「ううぅぅぅっ、何なのぉ! いい加減に説明してよぉ! どうなってるのよぉおおおっ!」




 自分で自分のことをみっともないと思った。


 こんなところで暴れ喚いたところで、何の意味もないってわかってるのに。


 むしろこんな汚い女に暴れられたら、瑠璃垣だって迷惑なはずなのに。


 しばらくして、あたしの感情の波が落ち着いたところで、瑠璃垣は優しく語りかけた。




「まずはうがいを終わらせよう、ね? その間に、体を洗う準備をしておくから。清められるように色々持ってきたんだ」




 身勝手なあたしと違って、彼女はずっと他者を助けようとしている。


 その対比が、余計にあたしをみじめにさせる。


 しかもその相手が、よりによってあの瑠璃垣なんだもん。


 自分のクズさが、嫌になる。




 ◇◇◇




 うがいを終えると、テントの外に出て体を洗う。


 歯磨きセットも持ってきてるとかで、後で使わせてくれるらしい。


 至れり尽くせりだ。


 今だって、タンクに溜まった水を大量に使って、瑠璃垣は体を洗うのを手伝ってくれてる。




「あんた……よく、こんな姿のあたしと話せてたわね」


「柱さんは柱さんでしょ」


「醜いし、汚いじゃない……」


「まあすっごく臭かったけど」


「……でしょうね」




 当たり前だと思いつつも、いざ言われると結構ショックだ。


 すると、瑠璃垣はシャンプーボトルのポンプ部分を外して、大きめの穴から中身を直に取り出しはじめた。




「シャンプーそんな風に使うの初めて見たわ」


「一本まるまる使うかもしれない」


「そこまでして洗わないと取れないのね。死んだほうがマシかも」


「柱さんが生きてるのが一番大事だよ」




 反吐が出るほど綺麗事だ。


 けれど本当に命が懸かっている場面で言うと、すごく重い言葉に感じられる。




「もしかしてさ、前はもっとひどかったの?」


「最初に見た時は、なんていうか……グロテスクなイソギンチャクみたいだった」


「人の姿ですらないの!?」


「人の形に戻った姿を見たのが今朝が初めてかな」


「今の姿でもマシな方とか嘘でしょ……」




 鏡を見ただけであれだけ衝撃を受けたのに、それ以上だったなんて信じられない。


 何より、それが正常だと感じてたことも。


 自分のことが信用できなくなりそうだ。




「ねえ……ここ、どこなの」


「きさらぎ市」


「そう、ね。あたしもそう呼んでたけど。きさらぎ市なんて……知らないのよ、そんな場所」




 その点に関しても、あたしの認識が歪んでいた。


 きさらぎ市なんて聞いたことがない。


 あたしたちの住んでいた町は――




「元は叫川さけびかわ市だからね」




 そう、そこで暮らして、そして通っていた高校も叫川高校だった。


 何かが起きて、あたしはこのきさらぎ市に連れてこられたんだ。




「今から3日前、柱さんの家を中心に半径100メートルぐらいの空間が消失するっていう霊災が起きたの」


「霊災って、たまにニュースとかで見かけるけど。それに巻き込まれたってこと?」


「巻き込まれたというか……そのあたりは後で説明するけど。多くの人は空間が消失したことにすら気づかなかった」


「あんたは気づけたっていうの」


「私も消えたことがあるから」


「はっ? いるじゃないここに」


「言ったでしょう、6年前に怪異に襲われたことがあるって。それが存在を喰らうタイプの怪異だったの。泡を流すね」




 バケツに入った水で頭の泡が流される。


 それでもまだ汚れは取れなくて、再び瑠璃垣は大量のシャンプーを泡だて、あたしの頭を洗いだした。


 一方であたしは、ひたすら泡のついたタオルで自分の体をこすっている。




「私の記憶は人々の中から消え去った。両親も親戚も友達も、一時は私のことを認識することすらできなくなっていた」


「そんなことがあったなんて、初耳だわ」


「性質上、ニュースにすらならなかったから。最終的には真恋さんが怪異を倒してくれて、再び他人が私を認識できるようにはなったんだけど、みんなの記憶は戻らなかった」




 初めて瑠璃垣を心の底からかわいそうだと思った瞬間だった。


 みんなから忘れられるなんて、あたしなら耐えられない。


 たぶん、世界で起きるどんな悲劇よりも、一番恐ろしいことだ。




「ゼロからのスタートって言えば聞こえはいいけど、実際は違った。両親も私という娘がいることを認識しながら、他人のように扱う。親しかった相手も同じように、私を初対面の相手として扱った。好きな人から他人扱いされるのって、ゼロから始めるよりずっと辛かったの」


「……あんたがいつも教室の隅で静かにしてたのって」


「また失うと思うと怖くて」


「……」




 あたしはそれを虐げた。


 そして瑠璃垣は、それが嬉しかったと言った。


 誰からも忘れられた彼女にとって、他人から自分の意志で接触されることは喜びだった。


 それがどんな形であっても。


 嬉しい。


 瑠璃垣の言っていたその言葉の重さが、今は痛いほどわかる。




「ごめん、話が逸れたね」


「興味深い話だったわ」


「じゃあ今度また詳しく話すね。とにかく、そういう経験があったから、存在を食われるっていう事象に耐性があったんだろうね」


「だからあたしたちが消えたのに気づけたってわけ」


「あたしは真恋さんに報告して、たぶん真恋さんから政府にも報告が行ってると思う」


「政府まで動いてるの?」


「霊災は専門の部隊が動く決まりになってるから」


「じゃあ瑠璃垣は、その人たちと一緒に入ってきたのね」


「ううん、私は一人。真恋さんたちは少し遅れて来るんじゃないかな。それを待ってたら手遅れになると思ったから」




 再びバケツの水がかけられる。


 しかし冷や水をかけられても、あたしの思考は凍らなかった。


 つまり瑠璃垣は、特定の誰かを助けるために、単独でこんな危険な場所にやってきたのだ。


 そしてその誰かっていうのは――




「瑠璃垣、あんた……あたしを助けるためにここに来たの?」


「そうだけど」


「ばっかじゃないの!?」




 思わず怒鳴りつけてしまった。


 けど間違いなくバカだ。


 救いようのないバカだ。




「あたし、あんたのこといじめてたのよ!? そのまま死んだほうが嬉しいはずよ!」


「言ったでしょう、無視されるより構ってくれる方が嬉しいって。みんな私のことを忘れてしまったから……」


「それでもっ!」




 あたしは瑠璃垣に掴みかかると、自分が汚れてることも忘れて声を荒らげた。




「命を賭けるような価値なんて、あたしには無いわッ!」




 ここまで話を聞いてきてよーくわかった。


 瑠璃垣みたいな人間が、あたしなんかのために命を賭けるべきじゃない。


 すぐさま関わりを断ち切って、存在しなかったかのように振る舞うべきだ。


 むしろあたしが消えたことを喜ぶべきだった。


 そうすれば、きっと――瑠璃垣は、やり直せる。


 たとえゼロからだったとしても、また誰かと結びついて、まともな人間関係を作れる。


 なのに彼女は笑っている。


 迷いなく。


 その行為に正しさを見出して。




「賭けるかどうか決めるのは私だよ、それだけの価値があったの」


「ありえないわ。昨日、あんた言ってたじゃない。あたしは母親がいなくなった寂しさから、そのはけ口を探してた。瑠璃垣はそのために都合の良い存在だった、って。そのとおりよ! あたしは他人を、自分の寂しさを埋める道具として扱ったッ! なのにっ!」




 それだけ問い詰めても、瑠璃垣は笑うばかりだ。


 あたしの言葉程度では、彼女の決意は揺るがない。


 彼女は強いんだ。


 そんな姿を見るほどに、ますます思う。


 やっぱり、あたしなんかのために命を賭けるべきじゃないって。


 でもあたしなんかが何を言ったって、その心が動くことはない。


 うつむいて、掴んでた腕をだらんと垂らして、諦めるしかなかった。




「ほら、だいぶ髪も綺麗になってきたよ。今度は背中を手伝おっかな」




 強引に体の向きを変えられて、瑠璃垣はあたしの背中をこすり始めた。




「……ねえ」


「まだ聞きたいことがあるの? 嬉しいなあ、興味を持ってくれて」


「下らない話よ。あのトラック、運転してきたって言ってたけど、警察とか大丈夫なのかと思って」


「あとで真恋さんがもみ消してくれるって」


「瑠璃垣の師匠はそういうの許容する人なのね」


「ううん、すっごい怒られた」


「……師匠は常識があるみたいでよかったわ。というかここって、トラックなんかで入ってこれる場所なわけ?」


「きさらぎって言うと、ネット怪談のきさらぎ駅が有名なんだけどさ」


「何よそれ」


「電車に乗ってたら、存在しない駅にたどり着いてしまう怪談話」


「怖い話ね」


「そのきさらぎって文字、漢字で書くと“鬼”になるんだ」


「一文字なの? 一月の睦月とか、二月の如月みたいな書き方じゃなくって」


「それに由来する当て字みたいだけど、とにかく鬼らしいの。一方で、私たちの住む叫川市の名前の由来は、人食い鬼が現れた際に、川に沈めて倒したことに由来する。川に鬼の叫び声が響き渡ったから叫川」


「叫川神社で鬼の人形を沈めるお祭りがあってたわね」


「それもこの逸話が由来だね。要するに、きさらぎと叫川には繋がりがある」


「きさらぎ駅、って怪談の由来があたしたちの町ってこと?」


「それは違うかな。ここで重要なのは、叫川と鬼の関連性ってとこだけ」


「関連してるとどうにかなるわけ?」


「繋げやすくなる。叫川の伝承と、ネットで広まる異界にまつわるフォークロアが」


「どういう理屈なのよ」


「叫川は鬼殺しの地、一方できさらぎは鬼の本拠地みたいな解釈ができる。だったら鬼にが死んだ地である叫川を逆走したら、きさらぎにたどり着けるんじゃないかって考えたの」


「……?」


「存在消失の怪異と無縁ではない私が、軽トラで線路を逆走して、叫川駅に向かう。こうすることで、きさらぎ駅に到着することができるんじゃないかって話」


「……???」




 聞いても意味がまったくわからない。


 ただ、相当な無茶をしたことだけは伝わってきた。


 本当にもみ消せるんだろうか。




「それって、要するにこじつけじゃない?」


「そうだよ、全部こじつけ。でも叫川の一部が消失して、きさらぎ市という“異界”に再構成されたのもこじつけの結果。だったら私のこじつけで、きさらぎ市の内部への侵入に成功することだってできる」


「あんたが滅茶苦茶なことやるバカだってことはわかったわ」


「私にもそんなことやれる気力が残ってたんだな、とは思った」




 何よ、結局傷ついてはいたんじゃない。


 そうよね、あれだけのことをあたしにされて……痛かったでしょうし、苦しかったでしょう。


 それは誰とも繋がれないより“マシ”ってだけで、地獄ではあったんだ。




「……その、さ」


「なにかな」


「ありがとう」




 クズなりに何か償えないかと考えた結果、出てきたのがそんなありふれた言葉だった。


 一円の価値だってない、無意味な言葉。


 自己満足にすらなれていないと思った。


 それでも瑠璃垣は、すごく嬉しそうな声で、




「どういたしまして」




 と言った。


 続けてごめんなさいと言うべきだと思った。


 けれどありがとうの無価値さを痛感したあたしは、その言葉を口にすることができなくて。


 いや、言わないより言った方がマシだ。


 その上で、それが何の償いにもならないと認識すべきだ。


 けれど一度機を逃すと、言えないままで。


 鬼よりもずっと鬼だ。


 あたしは来るべくして、ここに連れてこられたに違いない。


 罰、みたいなものなんだろう。




「さっき、あたしは巻き込まれたわけじゃない、みたいなこと言ってたわよね」


「うん」


「それって、あたしが瑠璃垣のこといじめたり、悪いことしてたからって意味?」


「ふふっ、それは違うよ」




 笑って否定されてしまう。


 少しがっかりした。


 罪に対する罰であってほしいと願ってしまった。




「この霊災は柱さんの家を中心に発生してるから」


「原因はうちにあるってこと?」


「心当たりあるんじゃないかな。家で行われてた儀式とか」


「確かに……お父さんとお祖母ちゃん、変な祭壇を作ってたけど」


「へその緒とか捧げてたやつだ」


「何で知ってるのよ」


「学校にあったから」


「あっ……」




 あの異常な空間と化していた学校。


 いや、そもそも学校と呼べる建物だったかも怪しい。


 通う生徒は人ではなく、教室だって床すら平面じゃなかった。


 あそこで正気のまま一日を過ごせた瑠璃垣は、素直にすごいと思う。




「この世界を作るときの中心になるもの、だったのかな。だから学校に複製されてた」


「だからって何で増えてるのよ」


「カモフラージュ? 本物を見つけられたくなかったとか。たぶん、学校以外の場所にも至るところに設置されてるんだと思う」


「つまり本物を壊せば戻れるの?」




 こくりと頷く瑠璃垣。


 本物は――あたしの住んでいた、お祖母ちゃんの家にあるはずだ。




「あたしの家……どこにあるんだろ」


「きさらぎ市、意外と広いよね。元は100メートル四方だったはずなのに、中は10倍以上はあるのかな」


「でも探せば見つかるわよね」


「たどり着けないように細工されてる可能性が高いよ。この空間の規模を見るに、真恋さんならともかく、力を持たない私や柱さんが正攻法でたどり着くのは……」


「難しいの?」


「無理とは言わない、けどまずは情報を集めないと。さっきの話の続きだけど、儀式をやってた理由とか家族から聞いてない?」


「あたしを神の国まで押し上げて、みんなで幸せになるって言ってた」


「柱さんの家を調べるときに神の国って単語は何度か目にしたけど、結局それが何を意味するのかはわからなかったな」


「あたしもわかんないわ。それに、儀式自体はかなり昔からやってたみたいだし。今さらどうしてこんなことになったのか……」


「最大の原因は、10年前の光乃宮大霊災だと思う」


「世界で怪異が増えたきっかけってやつ?」


「今までは何も起こらなかったとは言え、その儀式にも霊的な意味はあったんだろうね。そして大霊災で異界との境界が緩んだ結果、同じ儀式でも違う効果が出てしまった」


「それだけで……こんな大きな空間を作れるものなの?」


「そこに、さっきのこじつけの話が関わってくる。きさらぎ駅っていう有名な怪談話に便乗したんだよ。人の意識が与える影響は、それを認識している人間が増えるほどに効果を増していくから。儀式の実行者――おそらく柱さんのお父さんかお婆さんが、代々伝わる儀式を、きさらぎ駅と繋がりのあるものとして解釈した。知名度の高いフォークロアは異界と繋がり、そしてその繋がった異界がさらに柱家の儀式と融合する」


「意外と融通が効くのね、霊災って」


「らしいね。でも、柱さんが無事な限りは儀式は完成しないはずだから」


「儀式の中心は祭壇じゃなかったの?」


「その祭壇に捧げられてるのは柱さんの一部。つまり儀式の主体は、祭壇と柱さん自身。どちらかが欠ければ完成しない……たぶん」


「だったら、必死になってあたしを追いかけそうなものだけど」


「追いかけてこないのは、この空間にいる時点で私たちの方がかなり不利だからじゃないかな」




 そう言って、瑠璃垣はスカートをめくり上げた。


 太ももから、ミミズのような紫の物体が這い出ている。




「その足……っ!」




 彼女は顔をしかめながらそれをぶちっと引きちぎると、ミミズを流水に当てた。


 そいつは「キィィィィ」という苦悶の声をあげながら溶けていく。




「清めの水ってやつ」


「どうして瑠璃垣まで……」


「ここは柱さんの家族が“神”と定義した怪異のための空間。人間も長居するだけで肉体が変質していく」


「じゃあ……あたし以外にも、見た目は怪物だけど、元は人間だったって人がいるの?」


「そうだね、普通の人間と、元から異形だった存在が混ざりあってる。柱さんが“擂る”って呼んでたあいつは元から異形かな」


「保健の先生は?」


「元人間」




 あたしは息を呑んだ。


 だって、あの人はたぶん、瑠璃垣が――




「手遅れだったけどね」




 そう言って、彼女は自分の手のひらを見つめた。


 手遅れだったとしても、人を殺した。


 その罪悪感が心に突き刺さっているんだろう。




「軽蔑する?」


「できるわけないわ。あたしだって、あれが人間に戻れるとは思えないから。むしろ、よくあたしのことを諦めなかったわね。グロテスクなイソギンチャクだったんでしょう?」


「進行度合いは九割ってところかな。発見が遅れてたら間に合わなかったかも」




 さらっと恐ろしいことを言う。


 もしそうなっていたら、瑠璃垣だって無駄死にすることになっただろうに。




「それで瑠璃垣、これからどうするの?」


「とにかく柱さんの家を探すしかないね。足で」


「まどろっこしいわね……」




 そんな話をしていると、がさりと公園の茂みが動いた。


 音に反応して二人でそちらを見ると――ぎょろりとした眼が、あたしを見ていた。




「あっ、あいつだ」


「ひいぃぃいっ!」




 あたしは体をかばうように抱きしめながら、へたり込む。


 擂る――とかいう化物を食い殺した、あの怪物だ。


 スライムみたいにうねって、表面に巨大な顔を貼り付け、ずるずるとこちらに迫ってくる。




「こ、殺しなさいよっ! さすがにこれは攻撃するしかないでしょう、瑠璃垣っ!」


「平気だよ」


「ここには窓だって無いのよ!?」




 怪物はさらにあたしに近づいて、その肉塊の一部をぬるりと触手のように伸ばしてきた。




「もどった……もどれた……」


「な、何を言ってるのよ……うひっ、触手が伸びてるぅっ、近づいてきてるうぅぅぅっ! 瑠璃垣いぃぃぃっ!」




 そしてぺたぺたと、頬を触ってくる。




「ひぅっ、うぐぅぅ……っ、こ、殺さないでぇ……!」


「だから平気だって。彼女・・が柱さんを殺すわけない、そうですよね」


「ああぁ……もどった……あき、もどった……」




 今こいつ、あき、って言った?




「あたしの名前を、知ってる……?」


「あき……あきぃ……」




 そしてまるで愛おしむように、慈しむように、べたついた触手で頬を撫でる。


 到底そこに敵意があるとは思えなかった。


 それにあたしは――その触れ方に、覚えがある。


 しかもさっき瑠璃垣から聞いたばっかりだ。


 この空間にいる怪物は、人間の成れの果てだって。


 嘘だ。


 フラッシュバックする記憶に拒絶を突きつける。


 けれど肉体はその感覚を覚えているから、記憶の呼び出しを止めない。




「ねえ、瑠璃垣」




 あたしは壊れかけのおもちゃみたいに、ゆっくりと瑠璃垣の方を見た。


 そして震える声で問う。




「嘘、よね」




 彼女は首を横に振った。


 それでも認められない。


 だからあたしは、さらに踏み込むことにした。




「お母さん……なの?」




 瑠璃垣は少し目を細めて、悲しげに口を開く。




「おそらくは」




 言葉を失った。


 一方で、怪物――いや、お母さんの口数は増える。


 さらに増えた触手で、まるであたしを抱きしめるように絡め取る。




「あきぃ……あいた、かった……あきいぃぃ……」




 ああ、そっか。


 お母さんは……戻したかったんだ。


 怪物になってたあたしのことを、人間に。


 生臭い。


 べたべたして気持ち悪い。


 けれどそこには、間違いなく母親のぬくもりがあって。


 あたしは葛藤の中、その怪物に抱きついた。




「お母さん」




 そう呼ぶと――大きな目から、雫がこぼれ落ちた。




「あぁぁぁきぃぃぃぃ……」




 気づけばあたしも泣いていた。



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