第3話 暴く




 家に帰ると、台所からは包丁がまな板を叩く音が聞こえてきた。




「ただいま」


「おかえり」




 そんなありふれた、普通のやり取りを交わしてリビングに入る。


 台所には母、リビングには父。


 二人はあたしの姿を見て暖かく微笑む。


 これでいいと思う。


 これが正しいのだと。




「遅かったわね」




 母があたしにそう問いかけた。




「友達と話してたの」


「友達と言えば擂るちゃん、至ったんでしょう?」


「どこで聞いたのよ」


「伝ってきたわ。あの子とは別の友達と話していたの?」


「ああ、うん、そう」




 擂る以外に友達がいないと思ってるのかな。


 あたしは友達が多いのに。


 寂しくなんてないのに。


 誤解を解くべく、あたしは台所に近づきながら母に語りかける。




「あのさ、お母さん」


「どうしたの、天姫」




 微笑みながら、優しい声でそう返す母。


 そう、お母さんはいつだって優しかった。


 不気味な家の中で、まるであたしを守るように抱きしめて。


 一番、あの儀式からあたしを遠ざけたがっていたのも母だった。


 けどあの人は6年前に、あたしを捨てて――


 捨てて。


 いなくなって。




「あれ」




 足を止める。


 前方を見る。


 母が立っている。


 いや、待って。


 あたしに……お母さんなんていたっけ。




「あなた、誰?」




 そう問いかけても、母の表情は変わらない。


 あるいは、最初から表情などない。


 あたしがそれを笑顔だと認識していただけで。


 そこにあるのは、ぼかしのかかった、曖昧な、顔のような何かではないだろうか。




「何を言っているの天姫、誰かそこにいる?」




 そもそも、それは――人間なの?




「う、ううん。なんでもない」




 暴くのが怖くて、あたしは首を振って誤魔化した。


 そして後ずさりすると、リビングに置いたカバンを手に取り部屋を出る。


 その直前、父の顔を見た。


 不思議そうにこちらを見る彼は――父ではなかった。


 だってお父さんは行方不明になってない。


 ずっとあたしと一緒に暮らしてきた。


 柱尋祈ひろきという中年の男性。


 少なくとも彼は、こんな、モザイクがかかったような曖昧な姿はしていない――




「っ……!」




 あたしは急いで自分の部屋に飛び込んだ。


 勢いよく扉を閉めると、閉じた扉を背に床に座り込む。


 カバンをぎゅっと抱きしめて、さっき見た光景を思い出しながら。




「あの人、お母さんじゃ、ない」




 理解してしまった。


 何かと入れ替わったのではなく。


 ここ最近はずっと――そうだった。


 あたしはなぜか、母ではない誰かと同居していたのだ。




「お父さんも、違う。顔が。違う人だ」




 それを言えば父もだ。


 あたしの家族はここにはいない。


 あたしは、家族ではない“何か”を家族と思い込んで、生活していた。


 いつから?


 どこから?


 どうして?




「そもそもここ、どこ? あたしの家?」




 まずそこからおかしい。


 あたしは6年前に引っ越した。


 お母さんが行方不明になって少ししてから、母の思い出が残る家を捨てて、ほど近い祖母の家に住まいを移したのだ。


 前の家にも祭壇はあった。


 けれど祖母の家にあるそれは、前の家よりさらに大きくて、わざわざ部屋を一つ使っていたはずだ。




「ここには、祭壇なんて、ない。ていうか、もっと古い家だったんじゃないっけ。でもここ、あたしの家で。あたしの家じゃなくって……!」




 記憶が混濁している。


 そんな状態のまま、部屋を見回して、気づく。




「ここも、あたしの部屋じゃ、ない」




 何が起きているの。


 あたしの頭、おかしくなっちゃったの?


 お父さんはどこ? お祖母ちゃんは?


 そうだよ、あたしとお父さんとお祖母ちゃん、三人で暮らしてた。


 それなのにここには“両親”がいる。


 誰か知らない、作り物みたいな愛情が植え付けられた両親が。


 あれは、何?


 ぐるぐると、きっと答えなんて出しようのない疑問が頭の中を巡って。


 混乱して、膝を抱えて、ぶつぶつとあたしはつぶやき続けて――そして気づく。


 前方から降り注ぐ視線に。


 恐る恐る顔を上げた。


 窓の向こうから、擂るを殺した怪物が、あたしを見ている。




「ひ、いやぁぁぁああああっ!」




 引きつった叫び声をあげ、あたしは飛びつくように窓に近づいた。


 そして引きちぎるほどの勢いでカーテンを閉める。


 視界は塞いだ、しかし声は聞こえてくる。




「もどれた? もどれる? もどってきた?」


「やめて、喋らないで、何も言わないでッ!」




 ベッドの上から布団を剥ぎ取って、まるで盾にするように被る。


 そして部屋の隅で体を縮こまらせた。




「そうだ、瑠璃垣を呼べば――」




 ポケットからスマホを取り出し、震える手で瑠璃垣に連絡を取る。


 あいつを頼りにするのは嫌だけど、こういうとき助けてもらうためにその“嫌”を飲み込んだんだからっ!




「もしもしッ!」


『どうしたの柱さん』


「あいつよ! 擂るを殺した怪物が部屋のすぐそこにいるの!」


『ああ……うん、ここからも見える』


「見えるところにいるならすぐに来て! あいつを殺して!」




 すると瑠璃垣は少し間を置いてから、こう言った。




『その化物は、柱さんを殺そうとしてるの?』


「殺しはしないけど……ずっと戻るとか、戻ってきたとか、わけわかんないこと言ってんのよ! 早く助けなさいよぉ!」


『窓ガラスぐらい割ろうと思えば割れるはず』


「はぁ!?」


『大丈夫、そいつに危険性はないよ』


「何言ってんの、友達が殺されてんのよ!? は? ちょ、嘘でしょ!? 切った? 瑠璃垣っ! ふざけないでよ瑠璃垣ぃぃッ!」




 スマホに向かって叫ぶ。


 そして再び連絡を取ろうとするも、瑠璃垣はすぐに切ってしまった。


 クソが、クソが、クソが、助けが来るかもって期待させておいてこれ!?


 ふざけんなゴミが殺してやるあの害虫がああぁぁぁああッ!




「もどれすそう? もどれる? あーき、もど、る?」


「う、ううぅぅぅ……」




 布団を被っても音は聞こえてくる。


 ずっと、ずっと、夜が青く更けても、朝が緑く明けても。




「気持ち、悪い……ッ」




 あたしは眠れないまま、一晩を過ごした。




 ◇◇◇




 翌朝、気づくとあの怪物の姿はなくなっていた。


 あたしはふらふらとした足取りで部屋を出て、両親の待つリビングへ向かう。




「おはよう、天姫」




 笑顔のような何かを顔に貼り付けてあたしを迎える、母のようななにか。




「お、おは……よ、う……」




 あたしはもうそれを母として――それどころか、人として認識することができない。


 それは父も同様だった。


 彼はあたしを心配するような素振りを見せる。




「どうしたんだ、様子がおかしいぞ天姫」


「な、なんでもない」


「この子、たまに朝が弱い日があるのよ。ご飯を食べれば落ち着くわ」


「そうだな、いただきます」




 お前たちは両親じゃない。


 そう叫んでしまいたかった。


 けれど、一歩間違えると何か取り返しのつかないことが起きてしまいそうで。


 あたしは娘を装って、いつものように朝食を摂るしかなかった。


 椅子に座り、手を合わせて、目の前にある朝食のメニューを確かめる。




「いただきま――ひっ……う、な、なに……これ……っ」




 並んでいるのは、およそ食事と呼べるようなものではなかった。


 昨日、あたしが幻で見た虫のようにも見えた。


 あるいは人の腸が生きているようにも見える。


 例えば脳みそを引きずり出して、それに足を生やしたとか。


 例えば血管を束ねて、そこに命を吹き込んだとか。


 赤、黒、茶、紫、黄、緑――そういうものが並んでいた。




「何って、天姫の大好きな鬼蟲じゃない」


「そうだぞ、お前の大好きな鬼蟲だ」




 何を言っているの。


 そう思う一方で、あたしはその言葉に聞き覚えがあった。


 というより、あたしも当たり前にそう言っていて、それを食していたのではないだろうか。


 昨日までは。


 それを、当たり前だと認識していただけで。




「ああ、そういえばこの前、近所の人から素敵な化粧水をもらったのよ」




 母が胸部の切れ込みに手を差し込むと、そこから腸詰めになった液体を取り出した。




「普段は聖体の空口分泌物を使っているでしょう? 今度は幻腕から滴る原罪みたいでね」




 それを握りつぶし、液体を撒き散らす。


 彼女はどろりとしたその汚らしい液体を、肌に塗り込んだ。




「ほら見て、物質が泳いでる。よく効きそうだと思わない?」




 当たり前のように。


 思えばあたしも、同じことをしていなかったか。


 お風呂場で。


 寝る前に。


 いわゆるルーティンというやつとして。




「どうした、食べないのか天姫」


「まだまだ子供ねえ。食べさせてほしいのかしら?」




 母が朝食を手で掴んだ。


 嫌な予感がして立ち上がろうとすると、すかさず父が伸びた触手で背後からあたしを拘束する。




「な……やめて、近づけないで……ッ」


「はい、あーん」




 ぐねぐねと蠢く塊が、あたしの顔に押し付けられる。




「いやあっ、む、んぐうぅぅぅううううッ!」




 必死に口を閉じる。


 手から逃げ出した何かが肌を這いずり回って気持ち悪い。


 鼻や耳、目からもそいつらはあたしの中に入ってこようとする。


 こみ上げる吐き気。


 けど吐いたら口が開いちゃう、やだ、食べたくない、こんなの食べたくない!


 さらに母はあたしの口を強引に開こうとして――




「天姫ちゃんっ!」




 窓ガラスが割れ、女の子の声が聞こえた。


 両親の視線がそちらに向き、一時的に“朝食”があたしから離れる。


 飛び散る破片の向こうから現れたのは、




「瑠璃垣ぃっ!」




 昨日あたしを助けなかった薄情者だ。


 彼女は近くにいた父の顔面に片手で刀を突き刺すと、ぐるりと手をひねり、頭部をえぐる。


 そのまま横に振り払い、刃を引き抜いた後、すぐさま飛び上がって母を頭上から強襲した。


 脳天から串刺しにして、着地。


 レバーを引き寄せるように柄を引き、頭部と胴の前面を切り開く。


 瞬く間に二人は殺され、床に倒れ伏す。




「っ……お母さん、お父さん……」




 それを見た瞬間、あたしの胸に悲しみがこみ上げる。


 けれどすぐ首を振り、感傷を捨てた。




「いや、違う。あたしにあんな両親なんていない……!」




 こんなものは偽物の感情だ。


 そう思うと、両親への愛情が途端に気持ち悪いものに思えてきた。


 そんなあたしに、血まみれの瑠璃垣が声をかける。




「怪我はない?」


「無いわ、ありがとう。けどね――どの面さげて言ってんのよ、助けを呼んだのに無視しといて!」




 お礼は言うけど、昨日のことは絶対に許さない。




「すぐ来るって言ったじゃないのよ! 約束破るなんて最低よ、最低っ!」


「別に危険じゃないと思ったから」


「あいつは擂るを殺したの! 危険に決まってる!」


「擂るって誰?」


「は?」




 そんなの決まってるわ、あたしの友達よ。


 擂るは、昔からずっと――いや、待って。


 擂るって、何。




「変な名前だよね。意味はわかってる?」


「それは……」


「その子、本当に友達?」




 思い返せば――擂るも――人じゃなかったような。


 瑠璃垣の言うとおりだ。


 名前からしておかしい。


 体も、形も、使っていた言葉も。


 記憶をたどるほどに……あれが人ではなかった証拠ばかりが集まっていく。


 気づけば体から力が抜けていて、あたしは膝から崩れ落ちた。




「なんなの……これ……あたし、どうなってるの……!?」




 両手で顔を覆う。


 押し付けられた虫のせいで顔がべたべたして気持ち悪い。


 ……いや、違う。


 手もおかしくない? あたしの手、こんなに、汚れてる。


 なんで? 綺麗だった、はず。


 そう思ってた、はずなのに。




「ううぅ、臭い……汚いぃ……っ。何なのぉっ、あたしの体、どうなってるのぉ!」




 涙声で頭をぐしゃぐしゃとかき乱していると、瑠璃垣があたしの手首を握った。


 そしてぐっと引き上げられて、半ば強引に立たされる。




「とりあえず、私のテントに行こっか」


「ま、待って、まずうがいだけでもさせてっ! 気持ち悪いもの食べさせられて、吐きそうなのっ!」


「やめたほうが」




 止める瑠璃垣を振り払い、洗面所へ向かう。


 そして蛇口をひねる。




「きゃああぁぁあああっ!」




 直後、あたしは叫んだ。


 そして慌てて瑠璃垣の元に戻って来る。




「だから言ったのに」




 彼女はそうなることがわかっていたかのように言った。




「じゃ、蛇口っ! 蛇口から髪の毛と虫がいっぱいっ!」


「前からそうだったよ」


「はぁ!? だったらあたしが今まで飲んできたのは何だったっていうのよ!」


「だからアレ」


「あれって、あれ?」


「そう、あれ」


「嘘、でしょ?」


「本当だよ」




 あたしは、認識してなかったんだ。


 あれを当たり前だと思って。


 そして毎日――口にしていた。




「う、ぷっ……」




 こみ上げる吐き気。


 急いで台所に行ってシンクに中身をぶちまける。


 吐き出されたそれは、まだ生きていた・・・・・




「いやああぁぁあああああっ!」




 あたしは声が涸れるほど全力で叫んで――そしてぷつりと、意識を失った。



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