第2話 擬い真う
目を覚ますと、そこは保健室だった。
確か瑠璃垣に呼び出されて、祭壇場で話してたはずだけど――なんで寝てるんだっけ。
誰が連れてきたのか知らないけど、丁寧に布団まで上にかけてある。
ベッドから降りると、室内には嗅ぎ慣れた血の臭いが充満していた。
原因は机の近くで倒れている死体だと思う。
養護教諭が刀のようなもので真っ二つにされて至っている。
それを至っていると認識すべきかは迷ったが、ホームルームで担任がああ言っていたのだから、そう解釈していいのだろう。
時計に目を向けるとろくろく時。
外は青い夕暮れ。
まだら模様の太陽の光を反射して、湾曲したビル群が昏く輝いている。
もうおうちに帰る時間だ。
一緒に帰る誰かは昨日死んだから、一人で校門へ向かう。
すると、まるでそうするのが当たり前とでも言わんばかりに、瑠璃垣が待っていた。
「おはよう」
「待ち伏せなんて何のつもり?」
「一緒に帰ろうと思って。一人だと寂しいでしょう」
頭が重い。怒鳴りつける元気もなかった。
あたしは無視をして通り過ぎていく。
すると瑠璃垣は隣に並んできた。
死ねばいいのに。
「体調はどう?」
「保健室に連れて行ったのはあんたね」
「目の前で急に倒れるからびっくりした、あのとき何を話したか覚えてる?」
「くだらなすぎて覚えてないわ」
それどころか、どうして意識を失ったのかもよく覚えていない。
「まさかあんたが何かしたの?」
「ううん、柱さんは急に倒れたの。貧血だと思う、保健室の先生もそう言ってた」
「至る前に?」
「うん」
「そう……」
別に今日は体調が優れてなかったわけじゃないけど、そういう日もあるだろう。
その後は、しばらく無言で歩き続けた。
あれだけうるさかった瑠璃垣が急に黙ったのが不気味だ。
いや、元は会話なんてする仲じゃなかった。
言葉を交わしていた今までが異常だったんだ。
もちろん、こうして一緒に帰っていることも。
「結局、どういうつもりなの」
「私が話しかけてくること?」
「助けたことも、一緒に帰ってることも含めて全部よ。さっきはどうして自分を嫌うのかって言ってたけど、それはこっちのセリフよ。瑠璃垣こそあたしのこと嫌いでしょう、とっとと離れなさいよ」
「そんなことないよ」
瑠璃垣は屈託のない笑みを浮かべ、そう言い切った。
心から気色が悪いと思った。
どうしてこうも、彼女はあたしの日常の中で“違和感”でいられるのだろう。
どれだけ紙を赤く塗りつぶしても、ただ一点だけが黒く汚れているような、そんな不快感がある。
「誰からも構われないよりいいと思わない?」
「本気で言ってんの? あんた、いじめられてるのよ」
「うん。私に興味を持たない誰かより、憎しみでもいいから私に感情を向けてくれる方が嬉しいから」
「本当に気持ち悪いんだけど」
「かもね」
その苦笑いは、どこか自嘲めいていて――けれど決して冗談だと茶化すようなものでもない。
本気なのだ。おぞましい。
「抵抗できる力だってあるくせに受け入れてるのは、それが理由ってわけ。変態マゾヒストじゃない」
「まあ、そんなところかな」
「わかったわ、だったら今度からは無視してあげる。そっちの方が辛いんでしょう?」
「放置プレイってやつだ」
「だからキモいつってんでしょ。次に言ったら本当に首を絞めて殺すから」
脅しが効いたのか、そこからまたしばらく瑠璃垣は黙っていた。
もっとも、あたしについてくるのを止めたりはしなかったけど。
「で、いつまでつきまとうつもり」
「連絡先」
「交換するわけないじゃない!」
「でも見てるよ」
「何がよッ!」
怒鳴りつけて、瑠璃垣の方を見ると――彼女は斜め前方を指さしていた。
そちらに視線を向ける。
擂るを食い殺した肉塊が、こちらをじっと見ていた。
「ひっ……」
「さっきからずっと後をつけてきてる」
「な、なんとかしなさいよっ!」
「でも襲ってこないし」
「一人になったら襲われるに決まってるじゃないッ!」
「じゃあ試しに一人になってみようか」
「は?」
瞬間、目の前から瑠璃垣の姿が消えた。
どこかに隠れたんだろうけど、目が追いつかなかった。
「いや、待ちなさいよ、本気でいなくなるの!? 嘘でしょ!? 出てきなさいよ、あたし殺されるじゃない、瑠璃垣ぃぃッ!」
我ながら情けない声だったと思う。
けど恥を捨ててそんな声を出してしまうほど、恐ろしかった。
なにせ本当にあの怪物が近づいてきてるんだから。
不気味に体を収縮させながら、ずるずると、瞬く間にあたしの目の前にまで。
「っ……ひ、ぅ……っ」
生臭い空気が漂い、肌にべとりとまとわりつく。
その中には、昨日食われた友人の内臓の臭いが混ざっているような気がした。
ある程度近づくと、怪物は速度を落とす。
そしてじりじりと、ずるずると、あたしとの距離を詰めながら語りかけてくる。
「もどって……きた?」
「な、何が……よ……」
「もどって……もどって……」
怪物はあたしの目の鼻の先で止まると、そのぎょろりとした眼球をこちらに向ける。
生ぬるい体温すら感じられる近さだった。
「ひ、ぐ……っ」
食われる――そう覚悟して目をぎゅっと閉じていると、なぜか気配が離れていく。
目を開けば、怪物はあたしに背を向けて離れていた。
「なん、で……?」
「帰ったみたいだね」
背後で瑠璃垣がそうつぶやく。
予想だにしていなかったその声に、あたしは思わずのけぞった。
「うひゃああぁぁあっ!? 何よあんた、急に出てきたりしてッ!」
「ちょっと隠れてただけだよ」
「何がちょっとよ、死ぬところだったのよ!?」
「で、連絡先はどうするの?」
こいつ、あたしを脅すためにあんなことしたってこと……!?
絶対に許さないんだから。
無事に生き延びたら、そのあとは今まで以上に痛めつけてやる!
「く……わ、わかったわよ。交換したらいいんでしょ!」
あたしのスマホに、瑠璃垣の連絡先を記録するという汚点を刻んでしまった。
事が終わったらこれも買い替えなきゃ。
「ヤバいと思ったらすぐに呼ぶわよ、どこにいても飛んできなさいよねッ!」
「できる限りはやるよ」
偉そうに聞こえるそんなセリフを言って、あたしの前を歩き出す瑠璃垣。
あたしは小走りでその背中を追いかけ、横に並んだ。
「何であたしがあんたなんかを頼りにしなきゃなんないのよ……」
愚痴にも反応せずに、瑠璃垣はじっと自分のスマホを見つめていた。
なんとなく、口角が上がっているようにも見える。
もしかしてあたしの連絡先を見ながらニヤついてるの?
どこまで気持ち悪さを極めるつもりなのよ、こいつ。
見ているだけで不快なので、目をそらしながら歩く。
すると、ふいに瑠璃垣が立ち止まった。
「ちょっと、急に止まったらびっくりするじゃない!」
怒鳴りつけても反応はない。
今度は何? まさかまたあの怪物が現れたんじゃないでしょうね。
瑠璃垣の視線を目で追う。
すると、次に現れたのは――
「擂る!? 生きてたのっ!? あんた至ったって!」
昨日、怪物に食われたはずのあたしの友達だった。
すると、瑠璃垣は無言で刀を抜く。
あたしはとっさにその腕を掴んだ。
「待ちなさい、あれは擂るよ。刀なんて出して何をしようっていうの!?」
「さすがに気づかれるか。それとも連絡先の交換がトリガーだったのかな」
「ねえ、話を聞いてるの!? まさか擂るを殺すつもりじゃ――」
言葉を遮るように、瑠璃垣があたしを突き飛ばした。
直後、目の前を何かが高速で通り抜けていく。
「今のは、擂る……どうして!?」
空腕を伸ばしてあたしたちを攻撃してきたのだ。
直撃したら頭が弾けていたかもしれない。
虚腕ならたぶんそうなってた、危なかった。
死にはしないけど、あたしの場合は至るのに支障をきたす。
友達相手には絶対にやってはならないことだ。
先生も言っていた。
「柱さん、そこでしゃがんでて」
言われずとも、あたしは腰が抜けていて、尻もちをついたまま動けない。
すると瑠璃垣は、前方にいる擂るに一気に近づくと、刀を振るった。
刃が擂るの首を斬りつける。
しかし、強固な肉体が斬撃を受け止め、擂るは無傷だった。
「つれていく」
「させない、私が連れ戻す」
擂るはもう一方の空腕を突き出し、瑠璃垣の体を貫こうとした。
彼女はそれを体をひねって避け、片足で跳躍。
空中でくるりと回りながら後方に飛び上がり、擂るとの距離を取る。
すかさず擂るは空腕を伸ばして攻撃する。
しかし、腰を落とした瑠璃垣が動き出す方が早かった。
「影の破月」
瑠璃垣が何かを呟いたかと思うと、急加速する。
一瞬で擂るの懐まで飛び込み、そして刀で斬り上げる。
その斬撃の威力は、あたしから見ても前の一撃とは別物だった。
擂るの肉体を真っ二つに引き裂いて、さらには後方にあるアスファルトにすら大きな傷を刻む。
「つれていく……わたしたちの、娘」
「
そんなセリフを吐き捨てると、例のごとく付着した体液を振り払い、刀を消す。
てかさっき、“天姫ちゃん”って言った? あたしのことを?
そんな呼び方される間柄になったつもりはないんですけど、連絡先交換しただけで友達面ってわけ?
「危なかったね」
「今のって……」
「柱さんの友達じゃないよ。その形をしただけの化物」
あたしに敵意を向けてきた時点で、そんな気はしていた。
安堵すると同時に、擂るはやはり至ってしまったのだと実感して、気持ちが落ち込む。
「どうしてあたしが狙われるの。どうして急にこんなことが起きてるのよ!」
「さあ」
「誤魔化してんじゃないわよ、どうせあんた何か知ってるんでしょう!? 答えなさいよ、瑠璃垣ッ!」
胸ぐらを掴んで凄んでみても、瑠璃垣は答えない。
「そのうちわかるよ、嫌でもね」
彼女はあたしの腕を引き剥がすと、背を向けて歩き出した。
◇◇◇
なおも帰路を並んで歩いていると、ふいに瑠璃垣が口を開いた。
「普通、ああいうやり取りの後って別れるものだと思ってた」
どうやら、擂るの偽物を倒したあとは一人で帰るつもりだったらしい。
瑠璃垣のくせに、そんな身勝手が許されると思ってるの?
「意味深なことを言ってあたしを追い払うつもり? 疑問を放置して帰れるわけないじゃない、説明してもらえるまでついていくわ」
「実は私に興味があるとか」
「キモい」
できればあたしだって瑠璃垣とは長時間一緒にいたくない。
とっとと知ってることを吐き出させて家に帰りたいのに。
すると、瑠璃垣はあたしの家からほど近い公園に足を踏み入れた。
「まさか寄り道しようってんじゃないでしょうね」
「ここで寝泊まりしてるから」
「はぁ!?」
「ほら、あそこにテントがあるでしょう」
瑠璃垣が指さした先には、比較的大きめのテントと、なぜか軽トラックが置かれていた。
軽トラックの荷台には、タンクや荷物の詰まった袋が置かれている。
「このトラックとかどうしたのよ」
「持ってきたの」
「親戚に頼んだとか?」
「ううん、自分で運転して」
「犯罪じゃない!」
「必要だったから」
「頭おかしいんじゃないの!? っていうかお風呂とかどうしてんのよ」
瑠璃垣は軽トラックに載せられたタンクに近づくと、側面に付けられたレバーをひねった。
すると蛇口のように突き出した部分が、じょぼじょぼと水が出てくる。
「水ならこの中に入ってる」
「うえぇ……きったなぁ」
透明で透き通っていて、腐っているとしか思えなかった。
「正気じゃないわよ。やっぱりあんたおかしいわ!」
「喉乾いてない? これ飲む?」
「いらないッ!」
ただ、喉が渇いているのは事実だった。
もちろん飲むのは持参したペットボトルの中身だ。
「見ての通り、まともな飲み物を持ってるから!」
濁ったそれを見せつけると、あたしは蓋を開いて一気に飲み込む。
途端に、強烈な腐敗臭が流れ込んできて――
「う、ぷっ……うええぇぇっ」
思わずその場で吐き出す。
それでも不快感は収まらず、あたしはよろよろとテントの裏側に回ると、木の幹の前で膝をついた。
嘔吐する。
びちゃびちゃと、鬼虫が大量に溢れ出した。
外気に触れた鬼虫たちはうねうねと、大量に、絡み合うように土の上でのたうち回っている。
「うえ……ひっ、あぅ……ぐ……っ」
「あーあ、こんなにいっぱい虫を吐いて」
いつの間にか背後に瑠璃垣が立っていた。
あたしは反射的に反論する。
「虫なんて吐いてないッ!」
そうだ、何も落ちていない。
あたしが吐き出したのはただの液体だから。
「ほら、見なさいよ。何も無いじゃない。ただの幻覚! 気のせい!」
「……そうだね」
どこか悲しげに、瑠璃垣は目を伏せた。
何よその態度、なんでこいつごときに呆れられなきゃなんないわけ!?
最悪の気分だわ。
しかも、お腹もぐちゅぐちゅして気持ち悪いし……。
木を支えに立ち上がると、あたしは瑠璃垣を睨みつけながら彼女に迫った。
そして胸ぐらを掴もうとしたけど――よろめいて、胸に飛び込むような形になってしまう。
我ながら気持ち悪い。ああ、気持ち悪い。
でも仕方ない、頭が痛いから。じんじんと、脳内を何かが這いずり回ってる感覚がある。
おかしいな、前まではこれを気持ち悪いと思うことなんてなかったのに。
「気分悪いから、少し休ませなさい」
「水いる?」
「いらない!」
不本意ながら瑠璃垣の肩を借り、テントの中に移動する。
意外と広いけど、思った通りとても整頓されていて汚い。
「中にあるもの触らないでね、今の柱さんには危ないから」
「そんなものに自分から触るわけないでしょう」
悪態をつきつつ、横になる。
目を閉じると、少し楽になった。
しばしの沈黙の後、ぼそりと瑠璃垣が言う。
「食事までは確認してなかったけど、あんなものを食べさせてるんだね。ヨモツヘグイの真似事かな」
「よもつ……? 何よそれ」
「色んなフォークロアがごちゃまぜになってる、神の国に至るために手段を選ばなかった結果だよ」
「自己満足はいいから、あたしにわかるように話しなさいよ!」
「さっきの言葉はわかるんじゃない? 神の国に至る。元は柱さんの家の人間が使ってた言葉だと思うけど」
「至る……」
心当たりは、ある。
お父さんやおばあちゃんがよく言っていた。
「そう、ね。擂るも至ったんだし、保険の先生も至ってた。あたしもいつかは至る」
そのために生まれてきて、そのためにここにいる。
「……」
けど――そんなもの、あたしは望んでいたんだっけ。
「ねえ、瑠璃垣」
「どうしたの」
「至るって、何?」
そもそもの話。
あたしは、その言葉の意味を知らなかった。
なのになぜか、その言葉に納得していた。
違和感の一つも覚えずに。
「私も詳しいことまでは知らない。あの世に行けるとか、解脱とか、そういうのと近い言葉なのかな。詳しくは柱さんの家族に聞けばわかるんじゃない」
「家族……」
「誰と誰がいるんだっけ」
「お父さんと、おばあちゃん」
「お母さんとお祖父ちゃんは?」
「母親は……あんただって知ってるでしょう? 6年前に行方不明になったって自分で言ってたじゃない」
「そうだったね」
「お祖父ちゃんも、あたしが生まれる前に死んだって聞いたわ」
ここで、あたしは昨日の瑠璃垣との会話を一部思い出す。
そうだ、こいつあたしのお母さんの行方不明のこと知ってたんだ。
さっきはマゾだって言ってたし、もしかしてあたしに暴力を振るわれて喜んでるストーカー気質の変態女なのかもしれない。
「瑠璃垣、何であたしの母親のこと知ってるの?」
「騒ぎになったからよく覚えてるよ。私、生まれも育ちも
「叫川……? きさらぎでしょう」
「うん、そうだね」
「考えてみれば、瑠璃垣とあたしの家って幼稚園の頃から割と近いのよね」
「うん、幼稚園も小学校も、中学も高校も一緒だった」
「あたしがあんたを認識したのは小学校の高学年頃からよ。よっぽど存在感がなかったんでしょう」
「ふふ、だからだよ。誰かから認識されるのが嬉しいのは」
子供の頃から無視されて育ってきたってわけ。
かわいそうな子。
でもまあ、自業自得よね――存在自体が異物で違和感。
気持ち悪いのがいけないのよ。
「私がとある霊能力者と知り合いになったのもその頃」
「急に話が胡散臭くなったわね」
「聞きたがってたでしょう、この刀が何なのかって」
瑠璃垣はどこからともなく刀を取り出した。
確かにそれに関しては気になっている。
「6年前、怪異に襲われたところをある人に助けてもらったの。それがきっかけで、その人に色々と教えてもらうことになって」
「その刀も、教えてもらったから出せるわけ?」
「師匠の力を一部貸してもらってる」
「器用なことできるのね」
「あの人はすごいから。どんな怪我や病気も手をかざせば治せるとか、本気を出せば死者を蘇らせることもできるなんて噂もあるぐらい」
「絶対にそれは嘘でしょ……」
「最近は少しずつ有名にもなってるらしくて、忙しいのは嫌だって愚痴ってた」
「どんな名前の人なの」
「この人だよ」
そう言って、瑠璃垣はあたしにスマホの画面を見せてきた。
そこにはとあるSNSのアカウントが表示されている。
「美少女霊能力者MARIN……日本一の美少女霊能力者MARINがあなたのお悩みマリッと解決☆……」
読み進めるうちに、自然とあたしの顔は引きつっていった。
見るからに痛々しいアカウントだったからだ。
「これもうちょっとなんとかならなかったの? しかも25歳って、少女って年齢じゃないでしょ」
「わざと痛々しいアカウントにしてるんだって。胡散臭くないと、みんなに頼りにされちゃうから」
「仕事を減らすためとはいえ、もっと方法あるでしょうに……そもそもアカウント作らなければいいじゃない」
「困ってる人は助けたいんだって」
「難儀な人ね……」
「実際、それで私は助けられてるから」
良く言えば、願望を叶えるためにプライドを犠牲にしている――といったところだろうか。
いや、でも絶対にもっといい方法があると思うんだけどな。
「まあ、そんな刀を作れるぐらいだから、本当にすごいんでしょうね」
「うん……あの人がいなかったら、とっくに私は死んでたと思う」
穏やかな表情でそう語る瑠璃垣。
初めて見る気持ち悪くない、人間らしい表情だった。
「ところでこのMARINって偽名なんでしょう? 本当の名前は何ていうのよ」
「
「意外と軽い名前なのね」
「本人はお堅い人だけど」
「そんなものよね、名前なんて親が勝手に付けるもの。一致するかどうかなんてわからない。その点、あんたはぴったりね。存在感がないからナナなんじゃないの」
「そうだよ、名無しだからナナ」
「自分で認めるんじゃつまんないわ」
「柱さんはどうなの? 自分の名前、合ってると思う?」
「姫なんてガラじゃないって言いたいわけ?」
「そんなんじゃないよ。ただの好奇心。名前の由来とか何なのかなと思って」
名前の由来――知ってることは知ってる。
ここでも出てくるのはお父さんとお祖母ちゃんだけど。
「……神の国に至るために、ふさわしい名前だって」
「名前もそういうやつなんだ」
「13代目は特別とかどうとか言ってた」
「天の姫って確かに特別な雰囲気はあるね」
「お母さんの名前は姫奈だったからそこから取ったのかと思ってたけど、関係なかったんだって。ああ、でも……あたしにはもう一つ名前があるのよね」
「海外で使う用の名前みたいな?」
「そんなんじゃないわよ。なんていうか、儀式的な……」
「柱家のしきたり」
「そうそう。
「それでいいの?」
「子供に知らせるものじゃないんだって。家の中に祭壇を作ったりして、昔から変わってるなとは思ってたし、そういうもんだって割り切ってる」
かと言って、あたしの生活に何か変化があるわけじゃない。
たまーに儀式に付き合って、それ以外は無視。
お父さん、お祖母ちゃんも、それで問題ないって言ってた。
「文字、書ける?」
「めんどくさいわ」
「お願い」
瑠璃垣がやけに真剣な眼差しで頼み込んでくる。
あたしはため息をつきつつも、紙とペンを受け取ると、そこに文字を記す。
“禱贽”。
それがあたしの真い名だった。
「とう……にえ……?」
「読めないでしょう」
「うん、なんだろうねこれ」
「さあ。戸籍上も天姫で通ってるから、必要ないものなんじゃないかしら」
「しきたりは形式上残ってるだけってことかな」
「あたしはそう思ってる」
普通に答えちゃってたけど……何で瑠璃垣なんかにこんな話をしてるんだか。
気分も良くなってきたし、そろそろこんな嫌な場所からは出ていかないと。
「そろそろ帰るわ。ここにいると臭いが移っちゃいそう」
「何かあったら連絡してね」
「わかってるわよ」
テントから出ると、瑠璃垣は手を振ってニコニコと笑いながら私を見送った。
わからない。
何が起きているのかもそうだし、瑠璃垣のことも。
思えば一度だって彼女という人間と向き合ったことはなかった。
ただの道具だったから。
あたしの何かを埋めるための。
あちらから向けられる感情に意味などなく、その必要もなかったから。
でも今でも知る必要性は感じていない。
だって、少し踏み込んだだけであんなに不気味なんだもん。
知ったところで、後悔するだけに決まってる。
少し歩いたところで、ふとテントの方を振り返る。
瑠璃垣は変わらぬ表情であたしに向かって手を振っていた。
「やっぱり気持ち悪い」
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