◇1930/7/24 営内自室 イサベラ・エラストヴナ少尉
記憶がない、というのは人生でも数えるほどしか経験がない。
まず一つ目は子供のころの記憶。実は八歳までの記憶を無くしている。どこで生まれ、どのように育ったのか……生みの親の記憶は残っていない。
そして二つ目はトリフェン山の事件のこと。アレクセイがイリーナを連れて首都へ行った所までは完璧に覚えている……しかし、それ以降の記憶がない。
ただこれは自然なことだと思う。記憶が脳の働きによるものなのであれば、それは物理的な衝撃に一体どれほど耐えられるものなのだろうか。
そして他にも軽微な記憶の損傷があるのは自覚している。私は記憶学者の言うような『完璧』とはほど遠いのだ。頭が揺れれば、記憶もこぼれていく。しかしそれでも、この国ではただ一人の「完全記憶能力者」であるということは、それだけ火人狩りとしての期待がかけられているということでもある。
「しかし、このざまだもんなぁ」
私は未だにベッドから起き上がることができずにいた。
最初は何度かアレクセイ君が見舞いに来てくれたけれども、変化のない私を見て安心したのか退屈したのか、数日で来なくなった。薄情な奴め。
イリーナが来たこともある。しかしそれもたったの二回で、何やらメジャーで腕を測ったり、彼女持参の錠剤を数種類飲むように言ってきたりなどと、友人としてというより医者か研究者か何かのようであったから——実際そうなのだが——私は非常にこの寝たきりの生活というものに嫌気がさしてきた。
「恋の悩みや嫉妬はすべて退屈のなせるわざなのだ。ねぇ……はあ」
本の一節を読み、思わず大きなため息が口をついて出る。地下室の男の手記には同意できる部分も同意できない部分もあったが、これは後者だ。
恋の悩みなどこれまでしたこともない。嫉妬もそうだ……どちらかといえばされるほうだった。
今の私は死ぬほど退屈しているが、無意味な恋に悩まされたり、愚かな嫉妬心に駆られるほど暇ではないということだろうか。私は読んでいた小説を左脇のテーブルに置く。
右腕がないというのは思っていたよりもずっと不便だった。というか、普通に考えて右腕失ったら兵士として終わりだろうに、私は「今後の話」をされている。
どうやらこの国は片腕の女を駆り出さねばならないほど人手不足らしい――もちろんわかっている、自分の価値くらい。そして、自分の狩らねばならない相手もはっきりしている。
ノア……トリフェン山事件の首謀者であり、どうやってか火人を従える怪物であり、私の怨敵だ。
私はノアと戦い敗北した。この身を焼かれた……はずだった。これが私の三つ目の大きな記憶の欠落だ。ノアと戦闘した際の記憶があいまいなのだ。私は喉を切られて絶命したのか、腕を吹き飛ばされて絶命したのか……そしてそのどれでもないのか。私はわからずにいる。
しかしただ言えるのは、私は奇跡的に生き延びていて、腕を失っていて、そしてしばらくベッドに横になっていたせいで筋肉が著しく落ちているという事実のみだ。
今は腕や脚を持ち上げたり動かしたり、姿勢を少し変化させることで精いっぱいだ。昨日やっと人に手伝ってもらって体を起こしたばかりだったが、すぐに目が回って吐いてしまった。
吐くのは、久しぶりだった。士官候補生となり初めての格闘訓練で、私と同じ金髪の女子の拳がみぞおちに当たり、皆の前で吐いた。
彼女はなんだか微妙な顔で私を見下ろしていた。
周囲の目も痛かった。
私は自分が情けなくてしょうがなかった。
喉のひりつくような不快感と同時に、私は頬がかっと熱くなるのを感じた。
それと同時に私は恥じる自分をさらに恥じた。もうぐちゃぐちゃだ。
それ以来私は衆目の元で嘔吐することに軽い恐怖を抱えている。吐くと強い無力感を感じるのだ。
ああ、私はただの吐瀉物を撒き散らす事しか能が無いのだなという気持ちになる。
ベッドにたいして中身のないモノを吐き、それを急いで片付けてくれる看護師達を思い出してその夜は一人で泣いていた。
そして私は、私をこのようにしたノアを憎んだ。
つまらないと思われるかもしれないが、私は大義のためではなく、個人的な恨みでノアと戦うことを決意した。
「ノア……我々は今後『魔人ノア』と呼称するが、奴は君を空中で撃破してからは一度たりともその姿をみせていない」
昨日正式な情報交換の為に自室へ訪れたゲオルギー少佐は続ける。
「彼は本当に少尉を撃破するためだけにシグザールへ現れたのか、それとも少尉と同様に深い手傷を負ったのか……少尉の記録を見るにおそらく後者だろう。彼には何かしらの『計画』がある。少尉はそれを『邪魔している』と言った、そうだな?」
私はベッドに横たわりながら首を縦に振った。
「故にだ少尉。我々はこの正体不明の賊を必ずうち滅ぼさなければならない。無辜の民が恐怖という毒を吸い込まないように」
「はい、少佐」
「そこで、だ。通常であれば聖グリゴリー十字勲章を授与された上に、傷痍軍人として一線を退く程の大けがを負った少尉には、速やかな任務への復帰を願いたい」
少佐はその灰色の目を細めて言った。私はこれが本題か、と思った。
「もちろんです少佐。私にできることであれば」
私はできるだけにこやかに答える。元々断られても頼み込むつもりだった。私は後方の勤務よりも前線で空を飛んでいるほうが性に合っていて、そのまま魔人ノアを殺さねばならないからだ。故にこの時ばかりはすらすらと社交辞令が口をついて出る。
「偉大なる祖ロドリク様に誓い、必ずやかの賊を狩ってやりましょうとも」
「ほうそれはそれは、そこまでのやる気があるのであれば安心したよ」
少佐は私のリップサービスじみた口上を聞き、にやりと笑う。私は猛烈に嫌な予感がした。
「君の同期のイリーナ研究主任が提案した戦闘訓練を、早速八月から始めさせてもらうとしようか。思ったよりも元気そうで安心したよ、まったくね」
「は、はは……それは何よりです」
正直口を滑らしてしまった、気がした。
ゲオルギー少佐は参謀本部に勤めている佐官……つまりこれまでの私のコミュニティから考えるととんでもなく偉い人なのだ。そんな人が直々に私の様子を見に来るなんて考えてもいなかった。
つまり何が言いたいかというと、「戦闘訓練」なるモノを不用意に引き寄せてしまった気がしてならないのだ。しかもイリーナの提案した戦闘訓練とのことだ。
私は少し混乱したが、後に話を聞くところによると、私は戦闘訓練と称して新型の兵器の実験を手伝う事になったらしい、との事だった。
二十一日の時点では、イリーナの下で補佐を行うとしか言われていなかったので、私はてっきり通常のリハビリテーションを経てから戦線に復帰するものだと思い込んでいた。
しかし実際はもう少し、いやもうかなり過酷なスケジュールが私の知らないところで組まれており、先ほどの少佐の訪問はその意思確認の場だったようだ。それに気が付かずに口だけは達者だなぁと思ったり。
もちろん嘘はついていないのだが。
そしてその日から本格的なリハビリを行うことになった。これまで生きてきて不健康だったことはほとんどなかったので、目が覚めてから数日は自分の体の変化がとてもショックだった。
今もそうだ。やっと体を起こすことに慣れてきたものの、それでもまだ足にうまく力が入らない状態が続いていた。
そして昨日の嘔吐もあり、食べ物など正直口にする気分ではなかったが、食べなければ筋肉がどんどん減るばかりだと言われて軽いものから口にすることにした。
おかげでここ数日の胃の不快感が少しはましになった気がしなくもない……こんなことになる前の食事が恋しい自分がいる。
この国は大陸の中でも屈指の農業国であり、特に西部地方に広がっている肥沃な平野では一面小麦畑が広がり、上空から眺めるそれは風により波立つ黄金の海であった。北部の冷涼な地域では畜産が盛んで、現地のチーズはちょっとしたブランドものである。
私にとって酒といえばウォッカだが、アレクセイなんかは西側のワインをどっかから手に入れてはしまい込んでいるらしい。
「ああ、酒が飲みたい」
「だめですよ。少尉はもうちょっと元気になってからでないと飲んではだめです」
私は自室で介助をしてくれているメリーに愚痴をこぼしたが、彼女がとても生真面目な性格だったことをすぐに思い出した。メリーは鞄から瓶に入った白い粉薬を取り出すと、棚からコップを出して水差しの水を注ぎ入れ、私のそばへ。
「はい、本日のお薬です」
「ありがとう。いつも本当に」
私は意を決して口を開け、粉薬を舌にのせる。独特の甘い苦味だった。私はすぐに水でそれを胃の中に流し込む。
わかりきったことだがこういう時左腕しかないのは不便だ。両腕あれば薬を口に放り込んだらすぐに水を飲める。しかし片腕だと作業効率は半分以下に落ちるのではないだろうか。意外と人間両腕を器用に使いながら生きているのだ。
「だいぶ、日常生活にも慣れてきたみたいですね」
「そうかな」
「そうですよ」
開放されている窓からは夏の香りがそよ風と共にやってくる。私はなんとなく黙ってしまって、無意識に右腕をさする。
「義手、早く完成すると良いですね」
かの有名なヤーデルノイ工房にて、新型の魔導義手を開発しているという話をメリーから聞いていた。
今までの義手といえば、基本的に装飾的なものであり指を動かしたり等は出来なかった。しかし、新たな軍用義手は魔力を動力源に細かな指の動作が出来るという事らしかった。
そのプロトタイプが実戦に耐えうるものなのか、それを確かめるためにも来月から訓練が始まるという事だ。
「そうだね」
私は軽く伸びをするとベッドに上半身をゆだねる。
「あ、こんな調子だと苦労しますよ」
「ははは」
だいぶメリーとも打ち解けてきた。私はそれもそうかと体を起こして読みかけの本を開く。
「ドストエフスキーですか」
「数冊あるから好きなの持ってきなよ」
メリーは、「ええ、それもいいかもしれません」と言って笑う。
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