◇1930/7/22 参謀本部 ゲオルギー・コンドラートヴィチ・ジュコフスキー少佐
少尉が目覚めたというのはとても喜ばしいことだった。
少尉はこの帝国にとって貴重な人材だ。士官候補生の中でも上位十パーセントに入る魔力量に、各学問への正確な理解、比較的小さい体躯から繰り出される木刀の一撃は、彼女を舐めてかかった尉官の若造に全治一週間の怪我を負わせたというのだから大したものだ。
それに加えて射撃の腕も、同期のアレクセイ中尉が秀でているせいで目立ってはいないが、動く目標に対しての射撃の腕は彼女らの代の中で一番なのではないだろうか。
「ゲオルギー・コンドラートヴィチ少佐、先日お話のあった少尉の訓練について、よろしいでしょうか」
ケイルゴッドにおいて参謀本部といえばあこがれの対象であった。紺の制服を着こなし、大きなデスクに地図を広げ、優秀な頭脳を持つ面々が日夜作戦の討論をしている。そんなイメージをこの国の首都に住まう人間は誰でも持っている。もちろん、若い軍人もそうだ。
しかしそれは一昔前のイメージである。先の世界大戦で西側のシュバーベン王国に華々しく勝利をおさめた我が国は、戦勝国としてシグザール講和会議の議場に立った。
海を挟んだ大国、新自由合衆国が孤立主義に立ち条約に不参加の状況下で、我が国はシュバーベン王国に対して領土の割譲に莫大な賠償金の支払い要求など、条約に書かれた全てを飲ませることに成功したのだ。
それが1919年のことであり、それからしばらくの時が経過した1930年の現在ではケイルゴッドは非常に安定した時代を迎えている。
元々魔術産業に明るかったこの国だが、戦後は重工業分野の発展も目覚ましく……つまりは平和になったこの国の参謀本部はかつての名将たちの議場から、軍の年金に訓練計画までなんでも仕上げる「お役所」へと変貌を遂げたという話だ。
そして私のデスクに一人の若い局員がやってきた。内容は覚醒した少尉の訓練についてだ。
「コリン君か、聞こう」
私は古い哲学書にしおりを挟んで閉じる。今は十六時五十分だ。新たに仕事を始めるには遅い時間だが、昨日の仕事であれば片づけるにふさわしい時間だ。
「はい。先ほど主治医のニコライ医師から戦闘訓練の許可が出ました。これがそれの意見書になります」
「ほう。あのニコライ医師が」
若干の驚きがあった。正直なところ、しばらく寝たきりだった軍人……それも特別に体力の優位性がない女性に『戦闘』訓練の許可を出すのは、医者であればためらうものだと思っていた。私は部下からニコライ医師のしたためた意見書を受け取り、中身を確認する。
「……なるほど。理解した」
ケイルゴッド軍の研究棟の中に、新興の分野を研究している研究所がある。従来の火人研究と最先端の重魔法工学を掛け合わせた通称「ヤーデルノイ工房」だ。正式名称は空軍第九研究所だが、軍人の間では「ヤーデルノイ工房」という名で通っている。革新的な魔導兵器を生み出しているからだ。
さて、そんな優秀な頭脳が集まる研究所において、若年にして研究主任となったのがいるという報告は当初から聞いていた。
イリーナ・イリイーニシュナ・プーシキナ……イサベラ少尉の同期だ。それを聞いた当時は珍しいなという感想だったが、所長のお気に入りだという話もあったので、まあ若者に挑戦的なポストを与えたのだなぐらいにしか考えていなかった。
しかし、今回改めて彼女のことを調べてみると面白いことが分かった。彼女は火人の生態に関する研究で、ここ数年の議論を根底からひっくり返す研究成果を既に発表していたのだ。
いうまでもなく、火人現象は帝国内でのみ確認されている。
帝国は諸外国に対して経済的にも軍事的にも優れているが、内部には癌ともいえる存在が跋扈していたのだ。
これは帝国の明確な弱点だった。これを知られてはならない。外部に知られる前に、何とかしなければならない。
我々は顔を隠して精神科に行く旧世代の貴族どもと同じなのだ。そんな中で火人の研究を数年分は押し進めたというのは素晴らしい成果であり、若いにも関わらずある程度権限のある研究管理職へ昇進するのは当然のことだったのだ。
そして、今回彼女から提出された訓練計画は一言でいうと常識外れだった。当然だ。兵士の訓練計画の立案は参謀本部の仕事であり、ノウハウはこちらにある。
しかし、彼女はそれを十分わかった上で「少尉の単独戦闘訓練」を立案してきた。期間は一か月。ひと月の間、少尉には帝国軍人の中で最も過酷な訓練を経験してもらう。それがイリーナ研究主任の立案だった。無論、個人の戦闘能力よりも集団での能力を重視する参謀本部の面々は難色を示した。こんな訓練では軍隊としての力が発揮できないと。
「ええ、しかしそれがどうしたというのですか?」
イリーナ研究主任がそう言い放った時の議場の雰囲気は、まあ心臓に悪かった。
「少尉は完全記憶能力があります。この力は、単独もしくは少数での戦闘に際して最大級の効果を発揮するだろうということは、既に明らかになっている通りだと思います」
手元の資料に目を落とす。確かに少尉の能力は特異だ。火人が単なる狩りの対象ではないことが発覚した現在、少尉の単独での突破力は貴重だ。
「新設された対火人戦闘小隊において、少尉は副官として実力をつけなくてはなりません。本格的な冬が訪れる前に、少尉一人が寝たきりの状態から実戦で使える存在に仕上げる必要があるということです」
議場の雰囲気を支配する彼女の瞳は、酷く冷酷だった……私だけがそう思っているのだろうか。少尉をまるで実験動物か何かのように見ている気がして、私は手を挙げた。
「ゲオルギー少佐、質問を許可する」
私は議長の言葉に立ち上がった。
「少尉という存在を最大限に生かせる方法が、この訓練にあることは理解いたしました。しかし、この訓練により……少尉が亡くなるという可能性は、どのように考えているのでしょうか」
場の雰囲気が静まり返った。この訓練に乗り気な者も、苦い顔をしていた者も、皆同じことを考えていた。これは通常の訓練ではない。少尉が死亡するケースも想定されるのだ。一同皆リスクとリターンを脳内のそろばんで弾いている最中といったところか。
「イリーナ研究主任、回答を」
私としてはリスクを低減させる事ができるのであれば、それが良い。まだ若い将校……しかも女性をそこまで急がせることがあるだろうか。
「はい。安全措置については少尉のバックアップを編成することで解決します。もっとも、帝国軍人としてこの程度の訓練で倒れるようであれば、最初から戦力として数えることなどできないということでしょうが……」
しかし彼女はそう断言した。参謀本部の本部長を兼任する准将以下全員が参加するこの会議でだ。
議場がどよめいた。彼女は安全性の保障をしながらも、参謀本部に集う血気盛んな将校に対しての強烈なアピールも成功させたのだ。
「ふむ、気に入った! 俺はこの計画を支持する」
案の定、ウラジーミル准将が計画に賛意を示した。私はいかにも彼好みの計画だと思った。何しろ准将自身が戦場において立身出世を成し遂げた、いわば叩き上げの将なのだ。
そして准将が賛成するのであれば、と他の面々もそれに追随する姿勢を見せる。
「アンドレイ中佐、質問を許可する」
しかしそれに待ったをかけたのは、ウラジーミル准将の右腕であるアンドレイ中佐である。
彼はつるつるの頭を撫でながら言う。
「バックアップ、というのはどれくらいの規模を考えているのですかな。いくら我らが帝国軍といえども、少尉という戦力一人に割ける力はそこまで多くはない。正直言って、非効率なのではないかと考えているところだ」
ウラジーミル准将は「確かに」とあごひげに手をそえる。しかしそれに対しての答えも想定していたのか、議長に指名されたイリーナ研究主任はすらすらと答えて見せる。
「はい。ご指摘はもっともだと思います。バックアップについて最低限の人員として、まずは安全性の観点から軍医を一人、そして本訓練は新兵器の研究開発の一環でもありますので、こちらの兵器開発の研究員を二人。そして、本訓練の監督役としてこちらの参謀本部からお一人……計四人でのバックアップを考えております」
「ふむ、それならば試す価値もあるか……准将殿はどう思われますかな?」
アンドレイ中佐がウラジーミル准将に話を振る。
「そうだな。そのサポート役にはゲオルギー少佐を付けようか。貴殿も佐官としての経験を積みたい頃だろう」
この議場のすべての視線が私の方を向いた。私は思わず、
「わ、私ですか」
などと間抜けな事を言ってしまう。
「そうだ。少佐よ、先ほど少尉の身を案じていたな」
「はい」
「指揮官として良い心がけではないか。故に、少佐に任せようと思う。自らの手で少尉の訓練を指揮監督し、必ずや成果を上げるのだ」
私は思わぬ展開に困惑したが、准将の発言は至極もっともな事であり、その日私は規格外な計画に参加する事が決まったのである。
さてそのような成り行きがあって、少尉の主治医であるニコライ医師にも意見を求めていた所であった。その返答は、
「軍医を一人少尉に付ける事を条件として本訓練の実施を認めるところである……か」
イリーナ研究主任の計画通りだった。私は意見書を持ってきてくれたコリンに感謝を伝えて戻らせる。
主治医の許可が取れれば、後は少尉と……しばらく首都から出なければならないから家族にも早めに伝えておかなければならない。
十七時の鐘がなり、日が沈み始める。私はデスクを片付けると本部をあとにした。
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