◇1930/7/21 営内医務室 ニコライ・ペトローヴィチ・バドマエフ医師
主に第三航空救助隊の隊員たちは不測の事態に備え、シグザール北東部にある中規模の基地の内部にて生活をしている。航空救助隊本部と名づけられたその場所は、彼らの寮(尉官以上は個室が与えられている)に加えて、救助者、被救助者問わず治療を施すための施設が設置されている。
私はイサベラ少尉を診察した後、自らの医務室にて彼女のカルテを書いていた。
さて、彼女の容体を一言で言うと、異常であった。少尉の復活という喜ばしい出来事も、自身の経験からすれば予想外のことであり、奇跡に近いものだった。大けがをして運ばれてくるまではまだよい。航空魔導士の治療はこれまで何度も経験してきた。そしてそのどれもが凄惨なものだった。
彼らは近現代の戦争においては縦横無尽の大活躍であったが、それはとても多くの危険と隣り合わせであることを意味する。
まず航空機と航空魔導士の最大の違いは装甲の有無だ。魔導士は小回りが利くが、航空機のような頑丈な装甲は持ち合わせていない。また、遮蔽のない空を飛び、雷が如き魔術で敵を鏖殺するその在り方は、敵兵からもっとも憎まれる役割でもある。
航空魔導士の教本には、敵に捕まるよりも早く自害する方法が書かれていると聞いたことがある……先の大戦の後、航空魔導士に対する拷問が禁止されたが、その記述は残されているとのことだった。過酷な戦場だ。私は彼らを看取ることのほうが多かったような気がしている。
今回もそうだ。私は運ばれてきた少尉を一目見て、これは助からないと思った。少尉にはああ説明したが、傷はすべて致命傷であると言って差し支えなかった。全身大やけどに加えて、銃創、切創、軽度な擦過傷、そして目を疑ったのが、右腕の欠損。この驚きをなんと形容するべきだろうか。
少尉は発見されるまで、誰にも知られずに死んでいてもおかしくなかった。
しかし、少尉は復活した。昨日までの白くて重い陶器のような体に血が通い、その青い目で天井を見つめ、そして私と会話をした。
さらに驚くことに少尉は重い掛け布団を押しのけて右腕を上方へ持ってきて見せた。
『運び込まれていた時には、切断されていたのですか?』
そうだ。と即答するべきだった。私は運び込まれてきた時の少尉の姿をしっかりと覚えている。しかし、私は迷ってしまった。少尉の特殊な能力の下では、私の記憶など誤りかもしれない。あの時はそう思ってしまった。
少尉の完全記憶能力……記憶研究者たちが再現を試みているも未だ成功していない少尉の異能はこの国にとって貴重な財産だ。それを失わなかったのは大きい。
「失礼します」
医務室の扉をノックする音とともに、若い女性の声が聞こえた。私は書き終えた少尉のカルテを机の脇に置き、返事をした。
「どうぞ」
入ってきたのは車椅子の女性――雰囲気はまだ幼い少女のようでもあった――とそれを押している赤髪の女性だった。確か名前は、
「イリーナ殿に、メリー殿。ご無沙汰しております」
イリーナはお辞儀をした。長い銀髪に白い肌。存在感の希薄な彼女はにこりと笑い、
「ニコライ先生はさすがですね。まさかメリーの事も覚えておいでだったとは」
イリーナはメリーと目を合わせて微笑む。メリー・ファン・デル・メール。不幸な事件により両足を失ってしまったイリーナの世話係として大尉から付けられている西側出身の女性だ。
「恐縮です」
メリーは少し固い、まじめな声でかしこまる。
「それで、イリーナ殿がわざわざ私を訪ねてくるとは珍しい事もあるものですな」
かつて彼女の治療に携わったことがあるため全く知らない間柄ではないものの、やはり珍しかった。イリーナが口を開く。
「実は、イサベラ少尉のことでお聞きしたいことがありまして」
「ああ、なるほど……後ほどカルテは報告書としてまとめるつもりでしたが、それ以外に何かありましたかな?」
「ええ、実は……」
イリーナは一瞬考えるそぶりを見せる。
「来週からの少尉の戦闘訓練について、ニコライ先生のご意見を伺っておこうと思いまして」
にこりと笑う彼女に、特に驚くそぶりを見せないメリー。私は聞き間違いかと思ったがどうやらそうでもないようだった。
「戦闘訓練……ですか。正直に申し上げるのであれば、どのような代物かによります」
私はカルテをイリーナに渡す。
「御覧の通り少尉の怪我は完治しております。そのためベッドから起き上がること、食事を摂ることは問題ないでしょう。しかし、長期間寝たきりだった少尉の体は、基礎的なリハビリテーションから行わなくてはなりません。歩けるようになるまでどれくらいの期間がかかるかは、リハビリの具合によるでしょう」
イリーナはこくりと頷きメリーのほうを見る。メリーは手に持っていた荷物から一冊のファイルを取り出して私に差し出した。私は、いよいよこれが本題だなという気がした。
「拝見いたします」
ファイルの中身は彼女の研究内容がまとめられている資料だった。私は一枚一枚に丁寧に目を通す。なるほどと思った。さすがは若年にして主任研究員となっただけはある。
紙をめくる音だけが静かな医務室に響く。
ファイルの前半部分は火人の生態についての研究だった。これはこの国においては主要な研究テーマであり、そこから派生して人の記憶について探求する学問である「記憶学」が誕生した。
イリーナの研究室ではケイルゴッドの一部地方でみられる古代魔術との関連性を探る研究が行われているらしく、素人の私から見ても非常に面白いものであった。しかし今回一番目を引いたのはそれではなく、
「新型魔道具での身体強化による、航空魔導士の継続戦闘能力向上について……ほう。なかなか斬新なアイデアですね。これを少尉で試したいとのことですかな」
この研究の最終目標は、航空魔導士の消耗をできるだけ減らすこと。そのために、飛行用の装備とは別に「着る魔道具」を開発し、魔道具が筋肉のアシストをすることにより姿勢の安定制御から、通常の最大3倍程度の倍力まで、個人の身体能力のブーストを実現させる。
「ええ、その通りです。試作機は既に出来ています。もっとも、少尉が動かせるか否か……つまり実戦において役に立つかという課題はまだ残っています。しかし……」
イリーナは微笑む。
「彼女は火人に愛されています。これこそが、わが軍の『不足の満たし方』なのです。先生」
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