◇1930/7/21 営内自室 イサベラ・エラストヴナ少尉

「おはようございます、少尉。ご気分はいかがですか」

 目を開けた。医者が私を起こしに来たようだ。彼は聴診器を私の胸に当てる。ひやりと冷たいそれが、私に去年の健康診断の記憶を思い出させるには十分だった。


「おはよう。喉がかわいた」

「直ぐに、飲ませます。このシグザールとはいえ、段々夏を実感出来る頃ですから」

「すまないが、食事については何かきいているかな」


 白髪の医者は私の容態をカルテに書き込むと、笑顔を浮かべて言った。

「もちろんです。ただ、いきなり固形物を食べるのは内臓に負担でしょうな。何しろ、およそ十ヶ月の間眠っておられたのですから」


 驚くべきことだった。私は思わず左手を首元にやる。顔が石化したかのように硬くこわばる。そんな私の戸惑いと驚愕を見て、ほっそりとした老人の医者は慌てて説明を加える。


「少尉、そのように息をお止めにならないでください。確かに期間こそあまりにも長く、ある種の植物状態ではありましたが、お体の切り傷、銃創はすべて、致命傷を避けていたのです。これは奇跡的な事でした。高所からの落下の衝撃も魔導具の安全装置のおかげで致命的な物とはならず……心臓の鼓動が再開し、外傷が治癒できた時点で後は少尉の意識が戻るのを待つだけだったのです」


 私は思いがけない方向性の説明に衝撃を受け呆然とした。何故なら、この医者の言葉には私の記憶との齟齬がいくつもある。


 まずは外傷について。私がノアの片腕を切り落とした時、爆破術式の起動よりもコンマ数秒速くヤツのリボルバーが火を噴いた。


 今思い返すとそのリボルバーは、回転弾倉の中央部に散弾を仕込むことができたのだろう。一つの銃で二種類の射撃が行える……そしてまさかのグレープショットだ。旧時代のマスケットじゃないか。


 そしておかげで私の首と胸――肺は明らかに傷ついていた――を含む体全体に散弾が命中した。あの状況で私を仕留めるのには完璧だった。私は敵の腕を捉えた時点で勝ったと思い込んでしまったのだ。しかしそれは完全な過ちで、敵は己の利き腕を犠牲にしてまでも私の命を奪いに来て、そしてそれは成功した。ノアが最後に私の首を締め上げた時、私は他の火人犠牲者と同じ運命をたどることが決定づけられた。ひどく残酷に哀しかった。私は、私に関する情報が己の肉体と同時に焼失していく様を文字通り肌で感じていたのだ。そしてなによりこのプロセスは不可逆なものであるはずだった。


「それは……私の記憶とは異なる。私は確かに水中で焼失したはずだ」


 私は彫りの深い医者の顔を見ていった。しかし彼は、ありえないと首を横に振る。

「私はその日、アレクセイ中尉が少尉を病棟へ運び入れてきた時の事を覚えています。少なくとも、その時は心臓は止まっていましたが、焼失だなんてとんでもない。記憶違いではないですか? 混乱状態だったのでは」


 アレクセイが? 私を? まさか、ありえない。

「ニコライ・ペトローヴィチ・バドマエフ殿」


 ニコライ医師は、私が名前を呼んだことに対して目を大きく開いて見せた。

 初対面の人の本名を看過するという行為――もちろんこれは過去に人事資料をパラパラと流し読みしていた時に覚えていたからである――は、相手にプレッシャーをかける事に役立つ技術だ。元々ケイルゴッドの人間は姓を名乗ることは少ないのもある。


 私はニコライ医師の説明に隠された真実がないかを慎重に見極めるために、彼の黒い目を覗き込むようにして見る。


「運び込まれてきた時、私の喉は、首はどのようになっていましたか」

 ニコライ医師を観察する。彼は最初はこの初歩的な質問に対して簡単だとでもいうように口を開きかけたが、すぐに口を閉じる。目線が泳ぐ。彼は目を閉じ、右手人差し指をこめかみに当て、考え込む。やはりか、と私は彼をつぶさに観察するのをやめる。


「覚えていない……ということか」


「まさか、そんな、ありえない。少尉の喉は何度も確認しているはずだ。心臓が止まっていたのです。なのに……」


「いいや、すまない。もう一つ質問がある」


 私は半ば何か正体不明な事実を確信しながらニコライ医師にもう一つ重大な事を投げかける。

「私のこの右腕は」


 私は右腕を毛布から抜き、空中へ伸ばす。病衣の袖口は肘から四インチほどのところから柳の葉のようにだらりと垂れ下がっている。

「運び込まれていた時には、切断されていたのですか?」

「それは……」


 ドン、と勢いよく扉の開く音が部屋に響いた。ニコライ医師と私は素早く入り口を振り返る。


「失礼、ニコライ・ペトローヴィチ殿。少尉の意識が戻ったと聞いて駆け付けた」

 見ればアレクセイ中尉だった。


「おお、中尉。待っておりましたぞ。ささ、こちらへ」


 ニコライ医師は立ち上がり、中尉を私の枕もとの椅子に案内し、そのまま荷物を持って部屋の外へ。私の視界に丸眼鏡の青年が映る。

「あ……」


 眠りこけていたとはいえ、十ヶ月ぶりのアレクセイの姿に私はうまく涙が流せないなりに泣いてしまった。我慢しようとするも何故か両目からは熱涙がほろほろと零れ落ちる。アレクセイはそっとハンカチを当ててくれた。


「アレクセイ……中尉。お元気なようで何よりです」

 アレクセイは椅子から身を乗り出すと、私の上半身を強く抱きしめた。

「馬鹿、お前はお前のことだけを気にかけろ。それに今はかしこまらなくていい」


 戦友としての抱擁だった。温かい。私は両腕を彼の背中に回してそれに応えた。アレクセイはそのままの姿勢で私に話しかける。


「イサベラ、いろいろ伝えなきゃいけないことも、聞きたいことも、相談して決めなくてはならないことも山ほどある。だが、時間はある。まずはその眠っていた体を何とかしなくてはならない。魔術や科学に頼らなくても、軍人として自立できるレベルまでだ」


「うん、分かっている」

 アレクセイは私から離れる。温かみのある体が遠ざかる事に、私は若干の寂しさを覚える。


「当面の危機は無い、と考えている。故にイサベラ・エラストヴナ少尉へ軍本部から命令が下っている」


 彼は一枚の紙を取り出し、それを事務的に一瞥した後、私と目を合わせて命令を伝える。


「まずは先ほど述べた通り、体の調節を行い、合間に君が覚えている限りの情報を伝えてもらう」


 私も望んでいることだった。私は頷く。アレクセイ中尉は続ける。

「そして、具体的にいつまでと決まっているわけではないが、目安としては彁ふゆのはじめまで君は、研究部の方へ出向してもらう。具体的には、イリーナ・イリイーニシュナ研究主任の下についてその補佐を行ってほしい」


 二つ目は私にとって意外なものだった。確かに屋内の業務であれば体への負担を抑えながらできるが……。

「それは、私に勤まるのでしょうか」


 イリーナがいつの間にか研究主任という立場になっている事も驚いたが、それ以上にその心配の方が大きかった。何しろ私はずっと航空救助隊としての役割しかこなしたことはない上に、イリーナのように魔力を平均以上に扱える研究者というものは特殊な研究に従事していることが多く、当然イリーナはそういったことを扱っていたはずだ。


 中尉は、それは問題ないだろう、と言った。

「新型の装備について、最前線で戦う軍人としての意見が欲しいとの事らしい。」

「は、了解いたしました」


 納得がいった。同時に腹が鳴った。ニコライ医師はいつの間にかどこかへ行っていた。アレクセイは笑う。

「早速体は元の生活に戻りたがっているみたいだな。さすがはイサベラだ」

「む」


 私は否定も肯定もせず天井を眺める。


 とりあえず、生きている。


 その証拠に人々は私を覚えていてくれたし、腹もすく。私はその実感をかみしめていた。

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