Chapter II 不足の満たし方

◇N fr fqnaj.

 私はいつもの河原にいた。

 川は豊かな水で満たされ、空は綺麗に晴れ渡っていた。

 私は変わらず裸だった。そっと首に手を当てる。指を立て、肌の感触を探る。私の心臓のある辺りには大きな手術痕があった。


〈お前は誰だ〉


 子供の声が天上から聞こえた。

〈私はイサベラ。イサベラ・エラストヴナ・ソコロワ〉

 私は声をはりあげた。空はしばし沈黙した。


〈イサベラ、許可が出ました。渡りなさい〉

 今度は落ち着いた老人の声だった。


 私は促されるまま川面に素足をつける。右の足先が凍ってしまうのではないかと思うほど、冷たい、冷たい水だ。でも、一度浸かってしまえば案外大丈夫だった。私は左足も浅瀬に浸けた。甘美な痺れが土踏まずのあたりからじんわりと頭の上まで登ってくるのを感じた後、一歩、一歩とその川に身を沈めていく。


 川底の石は、整っていた。手のひらに乗るくらいの大きさの黒い石が、川底に敷き詰められている。私は石畳を歩く気分だった。冷たい廊下を、一人歩く。悲しい旅路だ。


 川の深さは腰のあたりまでのようで、川の流れは穏やかだ。それでも不意に足を取られそうになる急な流れというものはそこらにいくつかあった。私は不慣れな水中歩行によって、その先へただ進んでいく。


 ただひたすら、歩む。歩む。歩む。水に片足を取られそうになれば、もう片方で踏ん張り、両足を取られた時は、川に胸をつけ手を使い流されまいとした。

「向こう岸に、早く行かなくちゃ」

 無意識にそう呟いた。


 ふと、向こうから視線を感じて私はそれを見る。


 そこには、流木のように枯れくちた、黒い人影がいた。それは、手招きをしているように見えた。

「お前は……誰だ」


 私はこの侘しい人影に対して少し嫌悪感を抱いた。喉に何かがつっかえるような違和感がぬぐえない。ふと、私は何かを間違えているような、何とも言えない感覚に襲われる。

『早く、来い』


私は驚いた。人影が私に対して言葉を発したのだから。

「だからお前は……なんなんだ……」

『早く、来い。早く、来るんだ』


 私は弱った。しかし、私は向こうにいかなくてはならないということだけは事実だった。

「わかった……」


 私は一歩、歩みを進める。

 しかしその時驚くべきことが起こった。突如川底から白い腕が出現し、私の右足首をつかんだのだ。


「まだだめ!」

 どこかで聞き覚えのある女性の声だった。私は突然のことに驚き固まっていると、白い腕は異常な力で私を川底に引きずり込んだ。先ほどまで歩いていた石畳はもうなかった。無限に続くような奈落に、私は引きずりこまれているのだ。


「待って、やめて、私は――」


 髪の毛の先まで水に浸かった瞬間、私の体は失われ、魂だけとなる。私は何かを喋っていたのだろうか。それすらも満足に把握できない一瞬の間に私は確かに溺れ死んだ。




 そして、目を開ける――。




 見知った天井だ。月明かりが窓からそっと差し込んでいた。私は寝かされていたようだ。上半身を起こそうとしたが、力が入らず動かなかったので諦めた。ふと、私はこの部屋に私以外の人がいるのに気が付いた。


「イリーナ……」

 ベッドに車椅子を寄せて、イリーナは静かに眠っていた。すぅ、すぅと穏やかな寝息が微かに聞こえてくる。私は、なんでイリーナがここに、と思った。すると元から眠りが浅かったのか、私の声が思いのほか響いたからか、イリーナが目を覚ました。


「やっと目を、覚ましてくれましたね」


 一人で車椅子を動かし、私の枕元へ。イリーナからは優しいリンゴのような香りがした。


 私はそっと左手で自分の首に触れる。炭化してしまったはずの喉は、綺麗に元通りになっているようだった。私はイリーナに視線を戻す。


 イリーナ、年少にして士官候補生の中で最優の頭脳を持ち、誰よりも期待をかけられていた人。そして私の友人にして、私のせいで脚と……未来を失った人。


 彼女はひどく疲れているようで、その顔に生気はなく、月が瞳に反射して、青の瞳が金色に反射して見えている。その目で見つめられると、まるで月が二つあるみたいだ、などと逃避的な思考に走ってしまい、ばつの悪さから私はなんとなく目をそらしてしまう。


「目をそらさないで、イサベラ」

「そんな」

「私をちゃんと見て」


 芯のある声だと思う。彼女の声は、とても可愛らしいのに、強い。私は顔を動かしてイリーナを見る。透き通るように白い肌に、青い瞳。銀髪は腰まで伸ばしていた。深夜にこうして会う彼女はまるで月女神のようで、私はこの胸のちくちくとした痛みが強くなっていくのを感じていた。


「やっと、ちゃんと見てくれた」

 彼女はそう言って笑うと、車椅子を器用に操作してドアの方へ。まだ頭をうまく動かせない。私の視界からイリーナが外れた。


「そういえば、メリーは。いなくても平気なの」

 私はイリーナに尋ねる。


 メリー・ファン・デル・メールは西側出身の世話係だ。トリフェン山の事件以降、イリーナの父親であるイリヤ大尉が彼女に付け、以来彼女のそばにいる。

「あれ、イリーナ……」


 返事がなかったので、私が身じろぎをして扉のほうを何とか見ると、すでにイリーナはそこにいなかった……確かこの部屋のドアはうち開きで、しかも不親切な程に重い金属製の扉だったはず。

「イリーナ……」


 納得はいかなかったが、すぐに私は強烈な眠気を感じて目を閉じた。



 暗転する……。

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