トリフェン山の事件(中)

「一度曹長どのの指示を仰ぐべきです」


 イリーナは言った。新兵以下の私たちにはそれが一番正しく思えた。しかし私は同時にこうも考えた。


「いや、ここは古いとはいえ軍の施設なのだから、指示があるなら既に放送されているはず……まずい事態が起きているかもしれない」


 そして速やかに方針は決定された。


 私は私たちを含め五人を外へ誘導した。これは結果としていい判断だった。もっとも部屋を出た瞬間『5莠コ縺?◆莠コ髢薙′縺?▽縺ョ髢薙↓縺?莠コ縺ォ貂帙▲縺ヲ縺?k莠』を除けばの話だが。


「あれ……?」


 先に部屋を出た二人の候補生に続いて小会議室を出た時、イリーナはあたりを見回した。

「何が……どうした」

 アレクセイは眉間に深い皺を作り、頭を左右に振った。

「行こう」


 私はそっと二人の背中を押した。

「私が殿を務める。倉庫の方に行こう」


 ――先に部屋を出た二人の男子の目の前に火人が現れて、イリーナが驚いて目をつぶっている瞬間に、『二人が捕食されたこと』と、『目をつぶったイリーナがそれを完全に忘却したこと』は今も私とアレクセイだけの秘密だ。


 私たちは倉庫へと走った。木造の古臭く寒い廊下を転びそうになりながらも走り、既に開かれていた倉庫の入り口の前まで来た。ここには武器なり魔導具なりが保管されているはずなのだ。窓がないため真っ暗な倉庫の中を慎重に覗く。


「きゃっ」


 隣にいたイリーナが悲鳴とともに腰を抜かした。がくがくと全身を異常に痙攣させるイリーナが指さす一点に全員の視線が集中する。


 ああああああ、この感覚は暫く慣れることはないだろう。正常な世界を映した網膜がすべて張り替えられるような感覚であり、右脳と左脳が入れ替わる感覚でもあり、体中の血液が逆循環を始める感覚でもあり……ともかくとてつもない違和感と苦痛が全身をむしばむのだ。


 そう、これが火人を目にした人間の正常な反応である。特にイリーナは初めてまともに見たのだろう。アレクセイは不快感に耐えながら、イリーナを支えている。私も胸に手を当てながら、呼吸を整える。その間も絶対に火人からは目を離してはいけない。そんな恐怖が場を支配していた。


 つるつるとした貍?サ偵?陦ィ逧ョの人型の存在。炎のように突如現れては消える不可視の天敵。そして、忌むべき『諠??ア轣ス螳ウ』そのものである『火人』。


「絶対に火人から目を離すな!」


 私は皆にそう指示をし、素早く視線を部屋中に巡らせる。どうやら部屋の中にはヤツ一匹だけらしい。だが、一匹だけであるという事実に喜んでいられる状況ではない。丁寧に整頓されているこの倉庫では対火人戦闘において役に立ちそうな武器があるのは奥の部屋。


しかしそれはあの火人の真横を通り抜けなければならないという事でもある。


 現在お互いの距離は十分離れている。火人の攻撃手段はその両腕を使っての近接戦。素手では倒すことはできないものの、抑えることはできるか!


「アレクセイとイリーナは奥の部屋へ」


「そんなダメです! 火人と戦うときは必ず二人以上じゃないと」

 私の指示を聞いてイリーナは教科書通りの答えをする。さすがは模範生だ。


 「火人と戦うときは戦闘する者とは別に一人以上の『観測手』が必要である」、というのは士官学校に学ぶ者ならば全員知っている事だ。でも、


「イリーナ、イサベラは特別だ。一人で観測手と戦闘者の二役をこなすことができる」


 アレクセイの言葉に私の口角が上がる。


「まあ、ね。だから早く武器がほしいなぁお願いだから」

 強がっているようで私の言葉はきっと悲痛さを帯びていた。


「わ、わかりました」


 イリーナは何とか現実性ショックから立ち直れたか。火人と目を合わせたまま返事をする。


 私は右の棚から訓練用の木刀を抜き出して構える。さっきから強気な態度を崩さずに、いかにもこういう戦闘に慣れていますよ感を演出している私だが、訓練でなく実戦で火人と戦うのは初めてのことだった。正直目をそらしてしまいたい。手汗で木刀が滑る。でもそんなことに構っていられない。


「さっさと来いよこのクソ詰め野郎がよお!」


 耳も目もないはずなのに、私が叫んだ瞬間にヤツは突進してきた。相手の姿勢が低かったので蹴りで対応。ぐにゃり、という背筋の凍る感触と共に勢いが止まる火人。しかしダメージはない。水風船に対して格闘をしているようなものだ。頑丈なサンドバッグ以上に質が悪い。


 勢いが止まったヤツは腕で私の足を抱きかかえる。このままでは投げ飛ばされるか捕食されるかの二択だ、が……。


「みすみす、殺されて、たまるか」


 私は冷静に手に持った木刀でヤツの体を上から勢いよく押さえつける。ぐじゅ、という湿った死体袋を床に押し付けたような音が鳴り、焦げ臭い匂いが鼻についた。


 私は火人から目をそらさずに叫ぶ。

「今のうちに奥から手ごろなのを!」

「十秒耐えてくれ!」

 アレクセイの声が頼もしかった。


 倉庫の奥へと走る二人。一方私は、そのまま喰われないように足を抜いて後ろに下がる。そして少し息が上がってしまったので整える。


「……」


 獲物に逃げられたと思ったのか、ヤツは一瞬アレクセイ達の方を見た……といっても頭も完全な球体で顔もなければ鳴き声も上げないのだが……意識をそらした火人に近くの椅子を投げて制圧を図る。


 しかし案の定、隣国の工業製品が一瞬で原材料へと戻る瞬間を見ることになってしまった。だが、私の必死の抵抗に対して反撃は来なかった。


 一瞬の沈黙が場を支配した。火人は動かない……それどころかヤツは気を付けのポーズをとった後そのまま腕を上に伸ばして静止した。


「イサベラ!」


 奥の部屋から一振りのブレードを持ったアレクセイが出てきた。彼は鞘に納まったそれを私の方へ投げ、私はそれをキャッチして刃を解き放ち、魔力を込めて火人を一刀両断した。


 黒い液体が私と倉庫の床を汚した。火人は静かに跡形もなく消えてしまった。

「よし、まずは一体」


 アレクセイは額の汗をぬぐいながら満足そうに言った。

「アレクセイさん、イサベラさん。追加の武器と飛行用の魔導具です」


 それに対して私が何か言う前に、イリーナが大きな箱を抱えてこちらへ歩いてきているのが見えた。


 ライフルとブレードは問題なく使えるだろう。まずは一度三人で上空へ飛び状況を見なくてはならない。先ほどからやけに静かで気味が悪い。


 私は棚に寄りかかり思考に没頭する。


 火人は人類の天敵だ。だが、見えない天敵だ。なぜ見えない天敵なのか。目をそらしてはいけないのか。それは『火人』が『諠??ア轣ス螳ウ』であるからだ。


 火人の一番の恐ろしさは、忘却してしまうことにあるのだ。火人は人々の記憶からすり抜けていく。そして、火人に喰われた人も、人々の記憶から失われていく。


 まず失われるのは名前だ。火人に喰われた時点で、周囲のその人を知っている人の脳から、名前が消える。誰だったかが思い出せなくなる。次に、人生の焼却が始まる。喰われた日を起点として、その人生をさかのぼるようにして、焼かれていくのだ。


 意識の外から現れて、大切なものをすべて消してしまう。

 それに悲しむ人がいない、というのは果たして救いになるのだろうか。


 しかし火人のこの特性も完全ではない。対処法は二つある。一つ目は視認すること。誰かが火人を視認し続けている限り、火人のその特性も……!


「イリーナ!!」


 ――この瞬間を、今でも良く思い出す。決して消えない匂い立つものが、私の記憶の中で永遠に燻っている。


 こんな戦時中に考えに耽っていた私が愚かだった。


 イリーナを強く突き飛ばすアレクセイ。ぽかんとした顔のまま壁に打ち付けられるイリーナ。宙を舞う炭化した人体の一部。そして、


私は最大のミスを犯した。私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ。私が周囲を見なくてどうする!


 アレクセイは役立たずの私の手からブレードを奪い取ると、イリーナの脚を喰った火人を斬った。

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