PROLOGUE

 この先に行ってはいけない。そう思った。私はゆらゆらと水のない川の岸辺に立ち、その向こうに思いをはせた。空は暖炉の灰をひっくり返したような色で、私はかれこれ一時間はその空に踊る白波を全身の肌で受け止めていた。


「お前は誰だ」


 ひどく無機質で、暴力的な言葉で声をかけられる。しかしその声色は溌剌で屈託のない子供のものだ。そう、それはまるで希望を安穏という包み紙でくるんだプレゼントを丁寧に開けていく子供のような声だった。


「お前はどこからきた」

〈私は、この川の向こうから来た〉

「……」


 黙り込む天上の主に、〈また沈黙か、〉とは言わなかった。

 懲りずにこの問答を繰り返してこれで三四七一回になる。ひんやりと湿った空気が頬をなでる。生命の存在しないこの川辺も私はどこか文明的に感じていた。見渡す限り湿った黒色火薬のような砂が広がり、唯一の川も水がない。無限に現れる雲だけが生命を感じさせるこの場所こそ、私にふさわしい。私の文明だ。


 私は胸に手をあてる。冷たい手が素肌にすっと浸み込む。私は水のない川面にうつりこむ自分の姿を確認する。しっとりと濡れた金髪が私の白い肌に張り付き、小ぶりな胸までくすんだ黄金の筋が伸びているようだった。これではまるで卵のヒビだ。私の中から新たな命が出たがっているのだろうか。私という殻を押し破り、一体何が生まれるのだろうか――。


「……」

 私は十二年ぶりの視線を感じて顔を上げる。

「……」

 向こう岸に侘しく枯れ果てた黒い人影がいた。それは私に向かって両手を伸ばしている。それは何を意味しているのだろうか。

「……」

 一体無言のまま私に何を伝えようとしているのだろう。


〈お前は、誰だ〉

 私が口を開いた瞬間、轟と鳴る水音が耳元に迫ってきた。強い風が水のない川面をゆらし、私はソーマを失いプシュケーだけとなった。すると急に心細くなった。途端に私のプシュケーふゆの冷気に包まれた。


〈ああ、もう起きる時間か〉


 崩れ落ちるようにドボンと川へ落ちた。そして、私はいつも通りベッドの上で目覚めた。



 窓から差し込む朝日を見て、私はため息をつく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る