掴んだ未来。桜の下での再会。 ②

 視点:スミレ

 ピアノの伴奏が鳴りやんだ。

 歌は終わり、薄暗いホールに、刹那の静寂が訪れる。

 この瞬間が、歌の世界に入り込んでいる最中よりも、ずっと、緊張を強いられる。

 日本の人々に、白狼族の歌という、完全な異国の文化である歌を、私達は伝えきれただろうか。


 最初の拍手が、客席から聞こえた。

 その拍手の音は、二つとなり、三つとなり…、やがては、ホール全体へと広がる。

 私達の耳に、鳴りやまない拍手の音が飛び込んでくる。

 客席に目を凝らせば、着物姿や、女学生らしいセーラー服姿の若い女性らが、目尻にハンケチを当てて、涙を拭う姿も多く見られた。

 歌で、あの人達の心を揺さぶり、感動させる事が出来たのだと分かった。

 この拍手の瞬間。感動の涙を浮かべてくれる、お客さん達の姿。

 そうした物に触れた時、積み重ねてきた頑張りが、全て報われた心地がする。


 『今一度、美月菫女史、美月ルナ女史。お二人に盛大な拍手喝采を!』

 司会を務めるタキシード姿の男が、舞台の端で口上を述べ、拍手の音に包まれながら、私とエルマは、舞台の幕の裏へと去って行く。

 去り際、同じ苗字で、「美月菫」「美月ルナ」と呼んでもらえた事。

 それに細やかな喜びも感じながら。

 

 控室としてあてがわれた部屋に戻る。

 扉を閉めると、緊張が解けた様子のルナが、私に、身を預けるように、抱き着いてきた。

 ルナが、私の肩に顎を乗せる。

 その、きめ細やかな、銀の髪が私の頬をくすぐる。

 「良かった…、日本のお客さん達に喜んでもらえて。感動してもらえて」

 私の耳元で、感慨深げに、ルナは言った。

 私も、生まれ育った日本の地で、かけがえのない家族となってくれたルナと一緒に歌い、そして、日本の人々にも、白狼族の歌の素晴らしさを伝える事が出来たという喜びに、感極まっていた。

 「…私、今日が、人生で一番、幸せな日の気がするわ。公演も、あれだけの人々の心に、歌を届ける事が出来て。」

 そんな、素直な気持ちを、ルナに伝える。

 「今日の、あたし達の歌…、届いたかな。エルマにも、スミレの妹の、ヤエさんにも…」

 「絶対、向こうの世界で聞いてくれてるわよ。今頃は、エルマも、それに、ヤエも、私達に拍手を送ってくれている筈だわ」

 控室の扉がノックされて、開く。そこには、マリコさんの姿があった。

 私達は、慌てて身を離し、マリコさんを出迎える。


 「スミレちゃん。ルナちゃん。二人共お疲れ様。今日の公演、お客さん達は大盛況ね…。今日の歌、今まで二人が歌ってきた中で、一番、素晴らしかったと思うわ。もう何度となく、二人の歌声は聞いてきた筈なのに、今日は一段と惹きこまれて、涙が出てしまったわ」

 凪いだ南国の穏やかな海を思わせる、青の瞳を、感涙に潤ませて、マリコさんはそう語った。

 年月の経過を感じさせず、私が、あの国の、あの街の日本人街に移住してきた時から、その姿は少しも老いていないように感じるのは、マリコさんの不思議なところだ。

 彼女の結われた金髪も、その輝きに色褪せる兆しさえなかった。

 今日の公演を聞く為に、彼女も来日して、会場であるこの東京のホテルまで訪ねてきてくれていた。

 彼女に、今日の晴れ舞台に立つ、私の姿を見せる事。

 それは、ヤエとの死別で、心の傷を負ったまま、あの日本人街に移住してきた頃から、私の事を知っているマリコさんに、立派に成長した姿を見せ、恩に報いる意味があった。

 もう、ヤエの死に囚われて、希望を失った瞳をしていた、あの国に移住したばかりの頃の私ではない。

 生きていく道を切り開き、更に、その道を共に、この先も隣でずっと歩いてくれる存在である、ルナとも巡り合えた。

 歌を諦めないように言ってくれた、マリコさんとの出会いが無ければ、ルナとの出会いも、そこからまた始まった、歌で生きていく旅路も無かったのだから。

 「マリコさんのおかげで、私は、ヤエを亡くした失意で歌までも捨ててしまわずに済みました。貴女に出会えていなければ、ルナとの出会いも、そして今日という日もなかった。本当に、ありがとうございます」

 私は、精一杯の感謝の思いを込めて、マリコさんにお礼を言う。

 「まだまだ、スミレちゃんとルナちゃん。二人の人生の旅は、始まったばかりじゃない。私にお礼を言うのは早いわよ。これから、どんどん、大きな舞台で花開く、二人の姿を、私にも見せて頂戴。それが、私にとって、何よりの幸せなんだから。それに、歌だけじゃなくて、恋人として、家族としても、二人が幸せになっていくのを見る事も、私の幸せよ」

 私達が、幸せになるところを見るのが、自分の幸せ‐。

 そう言ってくれる、マリコさんの言葉に、私は、心がじんわりと、温かくなる思いがした。

 「チハヤちゃんとも、さっき話してきたわ。明日汽車で立って、スミレちゃん、故郷の村に行くんでしょう。ルナちゃん、チハヤちゃんと一緒に。…辛くはないの?あの村は、ヤエちゃんと別れた、辛い思い出も残る場所でしょう」

 この公演が終わった後の、私達の予定も聞いたらしい。

 その心配が湧くのも、もっともである。

 母も、そして妹のヤエも…家族を失った、悲しい思い出ばかりが詰まっているように思えて、私と父は、あの村を一度は離れた。

 そして、遠い異国にまで移住した。

 だけど、今は、その悲しみに飲み込まれる事なく、私の原点である、あの場所に向き合えると思っている。

 そう思えるのは、今の私の隣には、新たな『家族』である、スミレがいるから。

 もう、家族を失うばかりの人生は、ルナと、終わりにすると誓ったから。


 「…大丈夫です。昔の私なら、きっと辛くて、とてもあの村にまた、行ってみようとは思わなかったでしょう。だけど、今は、新しい家族のルナがいる。もう、悲しみに飲み込まれはしません。故郷の、私も、ヤエも見ていた桜を、ルナにも見せて…、ヤエの墓前にも、新しい家族が出来た事、ちゃんと伝えに行きます」

 「それだけ、気持ちが固まっているのなら…、分かったわ。どうか、桜を見たがっていた、エルマちゃんにも、桜を見せてあげないとね」

 マリコさんの言葉に、今度は、ルナが頷いた。

 ルナは、小さな木箱を手に取る。

 その中で、また、カランと、エルマの犬歯が転がる、乾いた音がした。

 収入がある程度入るようになってから、日本人街の一角の家を借りて、私とルナは暮らすようになっていた。

 ‐建前上は、私が雇用主として、ルナを使用人として雇い入れる、という形で。

 本当は、こんな形でしかルナと同じ家で過ごす事も出来ないのは、嫌でたまらなかった。

 しかし、あの国では、当局に怪しまれる事なく、同じ家で白狼族と生活する為には、そのように取り繕う他はなかった。

 その家の、私とルナの寝室には、エルマが遺した4枚の絵が貼られている。

 3枚は、私達の歌をモチーフに描いた絵だった。

 残り1枚は、私から聞いた、桜の話を元にして、お花見をする、私、ルナ、エルマ、マリコさんの4人を描いたものだ。

 あの絵を見ながら、二人で、「必ず、エルマに、日本の桜を見せてあげよう」と、誓いを固くしたものだ。

 ルナが、エルマの犬歯が収まった木箱を、マリコさんに見せる。

 「エルマなら、ここにちゃんと、連れてきています…」

 そしてルナは、その木箱を固く、胸に抱いた。


 今回、来日したもう一つの目的である、私の郷里の桜を見る為に、翌日の早朝、私、ルナ、マリコさん、チハヤの4人は、レコード会社の方々に見送られながら、ホテルから、東京駅へと経った。


 汽車に揺られ続け、乗降者の殆どいないような、地方の小さな駅に降り立つ。

 更に、駅前広場から車に乗せてもらい、山道をひた走っていく。

 「あそこが、私の生まれ育った村よ…」

 私が、車窓から指し示した先を、ルナはじっと、見入っていた。

 「あれが…、スミレの生まれた村…」


 廃村になったあの村に、行きたがる酔狂な人々も私達くらいなものだろう。

 しかし、他の人々には、何も残っていないように見える廃村でも、あの場所で生まれ育った私と、チハヤの二人には、細やかでも、幸せだった思い出もいくつも残る場所だ。

 チハヤもまた、久しぶりに見る、寂れた故郷の村にじっと、目を向けていた。

 途中、畑仕事中だったらしい、傘を被り、手拭いを巻いた農夫達が、顔を上げ、廃村へと向かう私達の車に、不思議そうに目線を送っていた。


 そんな光景を見ているうちに、忘れかけていた、故郷の村の日々が蘇る。

 不作を心配して、貧しく、苦労が絶えなかった日々。

 そうした中でも、苦しい生活に少しだけ添えられて、それ故に鮮烈に残る、細やかな幸せの時間。

 例えば、桜の木の下で、ヤエが舞い踊って、その姿に見惚れていたチハヤと、私が出会った、あの春の日。


 これ以上は車で入るのは難しいと運転手に言われ、村の入り口に立った。

 「お寺だけは今もやってるそうですが、他は、廃村になってから、誰も住んでないですよ」

 運転手も、このような場所に何故来たのか、不思議がっていた。


 耕す人もいなくなり、草が生い茂っている田畑を横目に、昔の農道を、私達は歩いた。

 

 「あれが、私とヤエが暮らしていた、昔の家よ」

 私は、ルナに指し示した。

 家と言っても、そこは既に、旺盛な生命力の蔦に一面覆われて、朽ち果て、自然に帰ろうとしていた。

 縁側もすっかり、名前も分からない野草に包まれ、家の中と外の境界線も分からない。

 

 「ここで、小さい頃のスミレは歌っていたんだ…」

 「そうよ。そこの、もうはっきりとは見えないけど、軒先に腰掛けてね、まだ生きていた頃のおじいちゃん、おばあちゃん、それにお母さんと歌ってた。そのうちに、『スミレは本当に歌が好きで、上手だねぇ』って、家族からも、他の家の人からも言われてね…。遊びに来た子とも、ここで一緒に歌った事もあったわ」

 

 チハヤも、今は、緑に埋もれてしまった縁側を見つめて、ヤエがいた頃の日々を、思い出しているようだった。

 「私も、スミレや…それにヤエとも、ここで歌って、遊んだ事も覚えてるわ。ヤエったら、いつもスミレお姉ちゃんってばかり言って、スミレにべったりで、あの頃の私、スミレに妬いていたのよ」

 彼女は、そう口にして、少々の苦みの混じった笑みを浮かべた。

 

 今はもう、この場所で、幼く、無邪気な歌声が響き渡る事は、二度とはない。

 その筈なのに、耳をすましていると、春の柔らかな風に揺らされ、草や木の葉が擦れ合う、微かな音と共に、今も、あの頃の私とヤエ、チハヤの歌声が聞こえてくるような気がする。


 私の胸中にあった、「ヤエとの死別の場所である、この家を訪ねたら、また悲しみが蘇るのではないか」という不安は、薄れていった。

 勿論、ヤエの最期を看取った時の事は、忘れる筈がない。

 しかし、今は、あの時の悲しみ以上に、この家で過ごした頃の、確かに幸せを感じられた時間の方を、沢山、思い出す事が出来る。

 

 マリコさんが、かつての家を前に、黙って佇んでいる私に、気遣わしげに尋ねてくる。

 「大丈夫、スミレちゃん?何か思い出して、苦しくなってきたようなら、無理をする事はないわ」

 黙っていた私を見て、気持ちが沈んでいるのではないかと、案じてくれたのだろう。

 しかし、私は首を横に振って、マリコさんに答える。

 「いえ、苦しくなったんじゃありません。確かに、もし昔のままの私だったら、この場所に来る事はとても出来なかった。ヤエと、死別した時の記憶がありありと蘇ってきて、苦し過ぎて…。でも、実際、ここに来てみたら、不思議なくらいに、気持ちは穏やかで。幸せだった時間も沢山、思い出すんです。ヤエとチハヤと共に歌っていた、幼い頃の時間を」

 

 その理由が何かは、もう、十分に分かっている。

 「新しい家族」となってくれたルナが隣にいて。

 「ヤエに恥じない自分として、これからは、スミレ達の仕事を支えて、生きていきたい」と、前を向いて、私達と生きる事を決めてくれたチハヤがいて。

 ヤエの死による、心の傷で、私が塞ぎ込んでいた頃から、私に手を差し伸べて、大好きな歌を私に、諦めさせないでいてくれた、マリコさんがいて。

 ‐それに、今はもう、この世にはいないけれど、私とルナに、共に、歌い続けてほしい。

 そして、一生を二人で共に歩んでほしいと、願いを託してくれた、エルマの存在があって。

 

 その全てのおかげで、ヤエと生きた時間と、向き合う勇気を私は手に入れられた。

 ヤエと生きた時間を思い出す事は、あの子との死別という、生涯で一番辛い記憶へと結びついてしまうから、私はずっと、心の何処かで、直視する事への恐れを抱いていた。

 でも、今は違う。

 死別という記憶に囚われるあまり、私は、ヤエと生きた時間の中で、確かにあった、細やかで幸せな時間さえも、思い返す事が出来なくなっていた。

 その為に、向こうの世界にいるヤエに、どれ程、寂しい思いをさせてしまった事だろう。

 ヤエがくれた幸せまでも、私は振り返らず、長く、放置してしまったのだから。


「皆、ありがとう…。ルナ、チハヤ、マリコさん。この出会いがなければ、私は、ヤエとの悲惨な別れにばかり囚われて、確かにあった、あの子との、幸せな時間。あの子がくれた幸せさえも、記憶の彼方に追いやってしまうところだったわ。けど、私に、向き合う力を皆がくれたから…、ヤエとの幸せだった時間を、ちゃんと振り返る事が出来そうよ」

 ルナ、チハヤ、マリコさん。三人の顔を順々に見ながら、私は、そう、感謝を伝えた。


 それから、私達は、この村で唯一の寺に足を運んだ。

 あの忌まわしい地方病に多くの村人が倒れた時も、この寺は、丁重に亡骸を弔ってくれた。

 そして、人々の墓が苔むして、草に埋もれてしまわぬように、大事に管理してくれていた。

 「ここに、ヤエさんが眠っているんだね」

 寺の門を潜って、寺院の建物へ歩いていく途中、ルナが尋ねてきた。

 私は頷く。


 徳の深そうな、柔和な表情を浮かべた、初老の住職が、私達を案内してくれた。

 「貴女は、あの地方病の後に、この村から、異国に移住されたのですね…。集団離村となってからは、墓参りに来られる方も中々少ないもので、仏様も寂しい思いをしていると思います。貴女も、お久しぶりに来られたでしょう。どうか、大事なお人に会ってあげてください。心待ちにしておられると思います」

 その住職から、そんな案内を受けて、寺の敷地内を、墓地に向けて歩いていると、私達の足元に、淡い桃色の花びらが何枚か、舞い落ちてきた。

 あの日。

 私が、泣きながら、父と共に、荷車にヤエの亡骸を乗せて、この寺まで運んだ時も、この寺の桜は咲いていたのを思い出す。


 「見て…。あれが、日本の桜…」

 私は、ルナに、桜の木を指し示して、教える。

 この場所で、人々の多くの悲しみだとか、喜びだとか、そうした物をずっと見つめながらも、そうした人間の感情などに左右される事はないとでもいうような、超然とした空気を感じる佇まいで、桜は、薄桃色の小さな雲を、その梢の上に戴いていた。


 「白狼族の伝説に、そして、エルマが好きだった、あの歌にも出てくる花に、本当にそっくりだ…」

 ルナは、足を止めて、花を散らす、その桜の木に見入っていた。

 「この寺の桜もね、昔、村が元気だった頃は、春の訪れの度に、咲き誇って、見物によく、村の皆が来ていたわ。このお寺の風物詩として。勿論、私達の家もね」

 私は、ルナにそう、教えてあげる。

 辛い記憶の残る場所でしかなくなっていた、この寺の桜も、今はこんなに、穏やかな心で見る事が出来る。


 花を見物に来た時、父に肩車されて、桜の花びらに触れていた、ヤエの姿を思い出して、懐かしい気持ちに浸る。


 「美月ヤエさん、でしたな。こちらになります」

 住職に案内されて、墓碑の前に私達は立った。


 「美月ヤエ 大正〇年〇月〇日没 享年10歳」と、刻み込まれている。

 住職である、あの僧侶が、本当に心を配って、ここの墓地を守ってくれている事が分かった。

 廃村となって年月が過ぎたのに、野草が絡まったり、苔むしたりする事もなく、綺麗に、墓碑は保たれていた。

 何年ぶりに、ヤエが眠る場所に立つ事が出来ただろう。

 離村以来、この村に戻った事は一度もないのだから。

 

 彼女の墓碑を前にして、私は込み上げるものを、抑えきれなかった。

 「ただいま、ヤエ…。長い間、ここに来られなくって、寂しい思いをさせて、本当にごめんね…。ずっと、恰好悪い姿の私を見て、きっと心配もかけたわよね。でも、今は、ようやく、私はヤエに、私はもう大丈夫だからと言えるようになった。私は、歌を歌って、前だけを向いて生きていくから…。異国の地で出来た、新しい、大切な、家族と一緒にね。ヤエの元に届けるつもりで、これからも歌うから…、どうか聞いていてね」

 一筋の線香の煙が、春の、薄っすらと霞んだ青空に立ち昇っていく。


 静寂が占める墓地には、私と、一緒にここに来てくれている、ルナ、チハヤ、マリコさんの皆がすすり泣く声以外、聞こえる音はなかった。

 鼻がつんと熱くなり、目尻にも雫が溜まっていくのを感じて、私は思わず目を閉じる。

 

 横に、すっと、誰かがしゃがみ込む気配がした。

 薄目を開いて、隣に視線を送ると‐ルナが座って、私の見様見真似で、ヤエの墓碑に向かい、手を合わせていた。

 そして、彼女は、すっかり使いこなすようになった日本語で、ヤエに語りかけるようにいった。

 「あたしは、白狼族の、ルナって言います…。スミレの、新しい家族になりました。ヤエさんには、ちゃんと、挨拶に来ないとって思って、今日は、ここに来ました。まだまだ、スミレを支え切れてる自信は持ててはいないけど…、絶対に、スミレに寂しい思いはさせないから。どうか、ヤエさんも、向こうの世界で、あたしとスミレの事、見守っていてください」

 そう言って、深々と、ヤエの墓碑に、頭を下げる。


 チハヤも、墓碑に向かって手を合わせたのち、こう語った。

 「こうして、貴女と話せるのは、いつぶりかしら…。貴女のお姉さん、スミレには、沢山、酷い事を言ってしまって、本当にごめんなさい。貴女の、誰よりも慕っていた、ただ一人のお姉さんに…。ヤエはよく、『親友として』私の事を好きだって、言ってくれたけど、私は、貴女に、恋心を抱いていた。それを、貴女に直接、打ち明けるのは、永遠に叶わなくなって、その後悔が消える事はないけれど…、私はこれからも、『貴女が好きと言ってくれた私』として、貴女に恥ずかしくないように、生きていくから」

 

 チハヤにとっても、この場所に来る事は、ヤエとの記憶や、彼女への感情に、折り合いをつける意味で必要だったのだろう。


 この村にいられる時間は、そう長くはない。

 墓地を出て、寺から出た後、私は、絶対に、皆を連れていきたい場所がもう一つだけあった。

 それは、この村の、桜並木の通りだった。

 「チハヤも、覚えているでしょう。私が歌って、ヤエがはしゃいで、飛んだり跳ねたり、舞い遊んでいた日の事を。桜の花びらも、何枚も髪につけて。まるで、花の妖精みたいに」

 

 春霞の青空を背に、花の雲海が埋め尽くす、頭上の光景を眺めながら、チハヤは頷く。

 「ええ。私がヤエと出会って…、花の妖精みたいだった、あの子に、初めて恋に落ちた日だもの。忘れる訳がないでしょう?『一緒に歌わない?』って、スミレが声をかけてくれたわね」


 今はもう、春風が吹き抜ける度に、梢を揺らして、花びらの雪をいくら、桜が降らしても、その下で舞い遊ぶ子供達はいない。

 ルナが、私の隣に立つ。

 「夢みたいな景色だ…。エルマに、この景色を見せてあげられないのだけは、心残りだよ…」

 ルナは、惹きこまれたように、桜の花に目を向けていた。

 

 「春の訪れを、花の下で喜ぶ、花の妖精に身をやつした、白狼の子供達…。あたしとスミレが、何度も歌ってきたあの歌も、これだけの景色を見たら、本当に、花の妖精が、舞い降りてきそうな気がするね。この、日本の、桜の木の下なら」

 その、彼女の言葉を聞いた時、私の脳裏に‐、もう一つの忘れられない「別れ」。 エルマの最期の時に、夢かうつつか分からない、花びらが降りしきる景色の中、エルマが言った言葉が、急に浮かび上がってきた。

 

「春が来て、花が咲く季節に、きっとまた会えるよ。約束だから」

 確か、そのように、エルマは言い残してくれた筈だ。

 「エルマが…、最期に言い残してくれた言葉、覚えてる?ルナ」

 「忘れた日なんて、1日もないよ…。春が来て、花が咲く頃に、きっとまた、会えるって…」

 「この、桜の景色の下で、二人で、あの歌を歌ったら…、エルマが、本当に、花の妖精になって、帰ってきてくれるんじゃないかって。夢みたいな話をしてると思うかもしれないけど、急に、そう感じたの」

 私は、ルナに、自分の脳裏に浮かんだ、この考えを伝えた。

 

 それは、冷静になれば、あまりにも荒唐無稽が過ぎる考えだったかもしれない。

 そもそも、エルマとの別れの間際、私とルナが見た、あの、花が降りしきる中で、エルマが語りかけてくれた光景は、今でも、夢か現実か分からない。

 そんな、蜃気楼のように朧気で、不確かなものだと言うのに。

 歌っても、何も起こらない可能性の方がずっと高いのに。


 それでも、「何かが起きる」可能性を信じてみたいと、私は思った。

 この、眼前に広がる、桜の花びらが降りしきる景色は、エルマが最期の言葉をくれた、あの幻想の空間に、あまりにも酷似していたから。

 私の瞳を見て、ルナは、私が気の迷いで物を言っている訳ではなく、奇跡が起きると本気で信じているのを悟ったようだ。


 「…そうだね。この、桜並木の景色程、私達の、あの歌が似合う場所はない。歌ってみよう。エルマの約束を信じて」

 ルナは頷く。


 私とルナは、桜並木の道の、中央に立ち、呼吸を整える。

 そして、ルナが、準備は出来たという目配せをくれる。

 私は歌い始める。

 春の訪れを喜ぶ、白狼族のあの歌を。

 東京の公演の時は、ホールを埋め尽くす程のお客さんが、私達を見ていたが、今、私達の歌を聞いているのは、チハヤと、マリコさんだけだ。

 ルナの歌声もすぐに重なり、静かな桜並木の道に、二人の歌声が広がっていく。


 その時だった。


 桜並木の道に、吹雪のように、降り続ける花びらの、その向こう。

 拙い足取りだが、一生懸命に、こちらへと駆けてくる、誰かの姿が、私の目に映った。

 その姿は、夏の盛りに出る、蜃気楼のように朧気で、輪郭もぼやけていたが、辛うじて、背丈からは子供と分かった。

 最初は、自分の目が信じられなかった。

 この村は、廃村となって、誰も済む者はもういない。

 子供が駆けてくる事などあり得ないのに。

 驚きに、一瞬、歌声が乱れそうになるが、それを懸命に抑えて、歌い続ける。

 隣に視線を送ると、ルナの目も、驚きに見開かれている。

 あれは。私だけが見ている幻ではないのは、明らかだった。

 

 子供の背丈の、その蜃気楼は、次第に不明瞭だった輪郭をはっきりとさせていく。

 そして、その顔も、私達に見えるようになっていく…。

 

 「あれは、エルマちゃん…⁉」

 マリコさんが、そう、声を上げて、両手で口を押さえる。

 元気だった頃の姿のままで、エルマが、花吹雪の向こうに立っていた。

 長い銀髪、見覚えのある、右耳しかない狼の耳。

 彼女は、花吹雪の中で、手を、足を、宙に投げ出し、回り、飛び、跳ねて。‐楽しそうに、舞い遊んでいた。

 歌の中に出てくる、白狼の子供達の姿、そのままに。

 

 ルナの横顔を、一筋の雫が伝い落ちるのが見えた。

 それでも、彼女は歌う事をやめなかった。

 私も同じく、歌い続けた。

 何度も、歌声に涙が絡んで、声が詰まりそうになるのを、乗り越えながら。

 歌うのを止めてしまったら…、また、エルマは、あの花吹雪の向こう。私達の手に届かない世界へ還ってしまう気がしたから。

 

 私は、そっと、右手を差し出して、左隣に立つルナの、左手を掴んだ。

 すぐさま、私の手を握り返す、強い力が感じられる。

 

 『エルマちゃん…。約束を果たしてくれたんだ』

 しかし、驚きはまだ、これで終わりではなかった。

 エルマの後を追うように、もう一人、子供の背丈の、蜃気楼が、桜並木の道の向こう側から、私達へと、真っ直ぐに走って来る。

 その輪郭がはっきりとして、顔も分かるようになった時…、私は、思わず、歌を止めかけた。

 

 今度は、チハヤが声をあげる。

 「嘘…。そこにいるのは、ヤエ…⁉貴女、ヤエでしょう?」

 そう、涙声で何度も、チハヤが呼びかけている。

 

 エルマと二人で、仲良く、花吹雪の中で舞っているのは、生前と寸分違わぬ姿のヤエだった。

 

 『そうか…。ヤエもまた、春の花の妖精に生まれ変わったんだ…。そして、私の前に、帰ってきてくれたのね』

 ヤエが、駆け寄っていけばすぐに触れられる距離で、舞っているのだ。

 

 私とルナの、歌が呼んだ奇跡としか言いようがなかった。

 一頻り、舞い遊んだ後、ヤエと、エルマの二人は私達と向き合うように、立ち並んだ。

 唇は動いていないのに、頭の中に直接語りかけるように、二人の声が、順番に、私の中に届いた。

 

 『スミレお姉ちゃん…。新しい家族が出来て、本当に、おめでとう。ルナさん、お姉ちゃんの事、どうか、隣で支えてあげてください。チハヤちゃん。私は、ずっと、チハヤちゃんの事も見守っているからね。親友として…、そして、私の大好きな女の子として』


 『スミレお姉ちゃん、ルナお姉ちゃん。二人で、支え合って、これからもどうか、生きてね。お姉ちゃん達に寂しい思いだけは、してほしくないから。二人のお歌、ずっと私は聞いているから。チハヤさん、マリコさん。お姉ちゃん達の事を、どうか、よろしくお願いします』


 そして、最後にヤエと、エルマは手を取り合って、私とルナの二人へ、こう語りかけた。

 『大好きなお姉ちゃん達が、私達の事を思って、歌ってくれる時。私達はいつでも、お姉ちゃん達の傍にいるよ。二人が、歌い続ける限り、こうして、また会えるよ。そう、この先も何度も…』


 ‐そして、視界は、桜色に包まれた。

 一筋の強い風が吹き抜け、それに乗って、無数の花びらが、私の目の前を埋め尽くしたのだ。


 それが、ヤエと、エルマ。二人との、刹那の再会の終わりを告げる知らせのようだった。

 吹き付けた花びらに瞼を閉ざし…、次に目を開けた時、もう、そこには、ヤエの姿も、エルマの姿もなかった。

 

 私は、服が汚れるのも構わず、並木道の土の上に膝をついて、涙を零した。地面に二つ、三つと、しみが出来ていく。

 「そうね…、二人を思って歌う時、ヤエも、エルマちゃんも、そこにいるのね…。お別れだけど、お別れじゃない。歌によって、二人の魂と、私達は繋がってる…この先もずっと」

 そう言った、私の肩に、ルナが軽く、手を置いてくれた。

 「あの歌、この場所で歌ってみて良かったよ…。こんな奇跡が起きるなんて。ちゃんと…、あの約束の通りに、エルマは来てくれたんだな。花開く季節に…。そして、向こうの世界で、ヤエさんとエルマ。私達の妹同士も、友達になれたみたいで、本当、良かった」

 そう話すルナの頬も、すっかり濡れていた。

 

 日頃、仕事一筋で、感情に振り回されないというような顔をしていたチハヤも、今日ばかりは幾度も、ハンケチを目元に当てて、涙を堪えていた。

 「ヤエの声…、幻なんかじゃなく、確かに私にも聞こえた。私の気持ちは、ヤエにもちゃんと届いてたんだ…」

 そのような独り言を口にしながら、私達の帰りを待つ、車へと歩いていく。

 

 村からの帰り際、車に戻る途中、彼女は、私に言った。

 「さっき、ヤエは、エルマさんと一緒に言ってたよね。ヤエの事を思って歌う時、私は、そこにいるって。私も…、ヤエがいつでも、傍で見ていると思いながら、これからは生きていくようにするわ。向こうの世界に逝った時、ヤエと結ばれるのに、相応しい女である為に」

 マリコさんも、私に

 「今日ほど、スミレちゃんが歌を捨ててしまわないで良かったと、思えた日はないわ。歌の力で、スミレちゃん、それにルナちゃんも、大事な家族と、この先もずっと、繋がっていられるんだから」

 と、幾度も、目頭を押さえて、そう言ってくれた。

 運転手に、涙の痕を気付かれないようにするのに往生した。

 

 車の座席に腰を下ろして、程なくして、ガタガタと車体は揺れ始め、車は、村から離れ、来た道を引き返し始めた。

 先程の奇跡を、この4人以外に話したところで、誰も信じてくれはしないだろう。

 しかし、あの時、私の頭の中に届いた声。そして、その声を聞いた事で、今も、私の胸を満たしている、切なくも温かい気持ち。

 それが、先程の、ヤエ、エルマとの、刹那の再会が、春が見せた幻などではなかった事を証明してくれている。

 車の中で、揺られながら、遠ざかっていく、故郷の村を見ていた。

 

 日本公演も終わり、もうすぐ、私達は、あの国へ戻らなければいけない。

 私達を家族として、一つ屋根の下で暮らす事も、認めてはくれない、あの国へ。

 

 ヤエと、エルマが望んでくれた幸せを、私達は、あの国での生活の先で、手に出来るだろうか。

 私は、そう考えていた。

 

 この国‐日本であれば、異なる種族であるからと、共に暮らす事や、家族となる事を禁じてなどいない。

 日本で暮らすとなれば、その外見故に、きっと、奇異の目にルナが晒される事もあるだろう。

 それでも、日本には、私達の歌を認めて、ルナの事も、「人外の種族」としてではなく、人に感動を与える、歌手として、認めてくれている、多くの人々がいる。

 片耳病であるが故に、彼女を忌み嫌う白狼族も、この国にはいない。

 私は、ある考えを固めつつあった。

 

 「ねえ、ルナ…。貴女が良ければ、なのだけど、日本で、暮らさない?あの国を離れて、私は再び日本に帰る。そして、ルナも、私の『家族』として、この国で、堂々と胸を張って暮らすの」

 日本で暮らす。

 その提案を聞いた時、ルナは驚いていた。

 

 しかし…、思いのほかに、彼女は迷う事はなかった。

 「それも、いいかもしれないなって思った。日本には、片耳病だからって、あたしを追い出そうとしてくるような、白狼族の奴らもいないし、この国だったら、あたしとスミレは家族だって名乗っても、引き離されるような事もない。ずっと、何も心配する事なく、あたし達は、家族として、一緒にいられる…」

 「生まれた国を離れる事に、迷いはない?」

 「今のあたしは、スミレの隣に、家族としていられる場所なら、何処へでも行くよ。あの国にいても、ヤエさんや、エルマが願ってくれた幸せは手に入りそうにない。それなら…、あたしは、スミレといられる、日本に住みたいって思う」

 ルナは、私の手を握って、こう言った。

 

 「あの雪の日に、お互い、もう、人生を託した関係でしょう。あたしはスミレについていくよ」

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