それでも、光を目指して ③

 視点:スミレ

 薄暗い空から落ちる雪は、次第に勢いを増していった。

 虚ろな目で、雪を黒髪の上に被ったまま、ふらふらと歩く私を、道行く西洋人達は不審な目でジロジロ見ていたが、気にもならなかった。

 

 街灯にもいつの間にか灯がつき、空の色は夕暮れの紅から、濃紺へと変わりつつあった。もう夜が近い。

 家を出る時、着込んでこなかったので、寒気が骨にまで沁みてくるようだった。

 私はただ、ひたすらに、死に場所を探し求めていた。

 

 街の中央を流れる、大きな川に臨む通りに出た時。

 私は、足を止めた。

 川沿いの建物から零れ落ちる光を照り返して、その水面は煌めいていた。

 

 そこは、この街の市民には馴染みの川で、時折、船頭が舟に観光客を乗せて、街並みを案内しながらの川下りなどもしている場所だ。

 

 雪が降る今夜はさぞかし、川の水は凍てつく程に冷たい事だろう‐。

 

 それに思い至った時、私は、この川に入って死のうと考えた。

 私は、川下りの船が係留されている、船着き場へと続く階段を降りていく。

 船着き場の、木製のデッキの上へと降り立つ。

 昼間は、客で賑わっているのであろう、この場所も、夜を迎えたこの時間は、静まり返っていた。

 デッキが軋む音を聞きながら、私は、川の方に歩いていく。

 真っ暗な水面が私の方へと近づいてくる。

 

 ここで身を投げれば、川の水の冷たさが、忽ち私の体温を奪い去り、そして私の命をも奪っていくだろう。

 ‐しかし、私の足はそこで止まった。

 川面を目前にして、足は一向に動かない。

 誰も、私を止めてなどいないのに。

 

 ‐私の中で、「死にたくない」という声が鳴り響き出した。

  その声が、私の足を固まらせている正体だった。


 どうして止めるの。あの川面に身を投げれば、懐かしいヤエの元に行けるのに。

 現世と違って、もう永遠に苦しむ事も、悲しむ事もない世界で穏やかに、ヤエと共に暮らせるのに。

 何をためらう事があるの。 

 結局、私は今度もまた、救えなかったし、何も、役に立たなかったじゃない。


 「死にたくない」と言う、もう一人の私を沈黙させようと、私はそう言う。

 それでも、私の足は、まるで接着剤で、デッキの木材に貼りつけられたかのように、一歩も動かない。

 

 その時だった。

 「…ミレ…!スミレ…!!」

 私の名前を呼ぶ声が、遠くから、聞こえてくる。

 その声の主が誰か、聞き間違う筈もなかった。

 私は、はっとして、振り返る。

 「あの声は…、ルナ?」

 そして、私の名前を呼ぶ、彼女の声を聞いた瞬間、安堵が広がっていく。

 雪の降る街を彷徨い歩き、体と共に、冷え切っていた心に、熱が染み渡っていくのが分かった。


 その安堵を感じているのは、きっと「死にたくない」と言っている方の私だ。

 まだ、現世に私を引き留めようと、私の足を必死に止めて、私に抗っている、もう一人の私だ。


 「見つけた…!!」

 やがて、静かな船着き場に、大きな声が響く。

 どうやって、ここに私がいるのを知ったかは分からない。

 だが、確かにそこに、ルナはいた。

 「…どうして、ここが分かったの。ルナ?」

 「あたしは白狼族だよ、スミレ。人間より、嗅覚は遥かに冴えてる。スミレの匂いなら、もう記憶に刻み込まれてるから、匂いの痕を辿って、追ってきた」

 そう言いながら、ルナは、船着き場の、軋む木材の上に降り立って、私の方へと歩いてくる。

 「…それより、あたしの方が聞きたいよ。家を飛び出して、こんな場所に来て、スミレは一体、何をしようとしてたの…?」

 

 ルナとこうして、向き合って話すのは、エルマが死んだ日以来だった。

 私は口をつぐむ。

 答えない私に、ルナは歩を進めて、近づいて来る。

 「ここは寒いよ。スミレ。もう、日本人街に帰ろう。マリコさんや、スミレの親父さんも、皆、心配して、帰りを待ってるよ…。今は話したくないなら、帰ってからでも…」

 そうして、ルナが私に手を伸ばそうとした時-、ふと、足が自由になった。

 

 私は、くるりと、川面の方を向いて、走り出していた。

 夜の闇に黒く染まった川面から「早くこちらに来れば、楽になれるよ」という、暗く、甘い誘いが聞こえてくるようで、その声に誘われて…。

 しかし、川面まで、あと1、2メートルというところで、私は後ろから、ルナにお腹を羽交い絞めにされて、そのまま、二人もつれ合うようにして、木材の上に倒れ込んだ。

 顔やお腹、足を冷え切った木材に打ち付け、口の中に血の味がした。

 日頃の暮らしでは、あまり感じていなかったが、目にもとまらぬ速さの、彼女の動きに、やはり彼女は人間より身体能力はずっと優れた、白狼族なのだと実感した。


 「バカっ!!スミレ、何やってるの!!」

 ルナは、倒れ込んでいる私の体を抱えあげると、私の顔を、自分の方へと向かせる。

 「やっぱり…。こんな時間に、川の傍で、一人、水面を見つめてるの、見つけた時から、嫌な予感がしてたんだ…。スミレ。正直に答えて。ここで、死のうとしてたでしょう」

 私の前に駆け付けた時から、ルナはもう、私が何を望んで、ここに立っていたのか、分かって、身構えていたのだ。

 私の沈黙を、ルナは、肯定と受け取ったようだ。

 私の体を、膝と、胴の間で挟んで、抱え込むようにして、ルナは、見た事もない表情で、私を見下ろしていた。

 

 死のうとした私にてっきり、怒っているのかと思っていた。

 しかし、私を見るルナの表情は、怒りよりも、悲しみが強かった。

 「なんで…、なんでスミレが、死のうなんてするんだよ…?あたしには、分からない…!」

 「…私なんて、やっぱり、このまま生きていたって、誰も救えないし、誰の、何の役にも立てないんだって、分かってしまったから。自分に価値はないって。だから、もう、苦しまなくて済む、ヤエのいる世界に行きたいって、そう願ってしまったの」

 私は、そう答えた。

 この数日あまり、私の心を満たして、離れなかった虚無感、無力感の全てを、洗いざらい、ルナに打ち明ける。


 「スミレは、もう、自分には、生きてても価値はないなんて、本気で言ってるのか…?」

 その声に、死のうとしていた私を責める響きは、やはり感じ取れなかった。

 ルナの声は、怒りや非難の気持ち以上に、私がした事で、ルナが傷つき、痛みを感じている事が伝わる、そんな響きだった。

 ルナの苦しそうな表情を見せられ、悲痛な声を聞かされる事が、私には、𠮟りつけられるよりも、ずっと、胸が痛くなった。

 ルナは、私の隣を、自分が歌う、居場所にしたいと言ってくれた人。

 そんな人に、このような顔や声をさせてしまい、私は、何てことをしてしまったのだろうと、激しい後悔に襲われた。

 

 しかし、一度、口に出した言葉は、都合よく引っ込める事は出来ない。

 私の先程の言葉は、ルナの心に深く、刺さってしまった。


 雪の粒が溶けたものとは違う、熱いものが、私の頬に落ちるのが分かった。

 それは、私を見下ろすルナの目尻から、零れ落ちたものだった。

 「ねえ…、スミレ。お願いだよ…。あたしの前で、もう、さっきみたいな言葉、金輪際、二度と口にしないで。スミレが誰も救えないとか、役に立たないとか…。あたしの事、十分過ぎるくらい、救ってくれたじゃない。スミレと出会えてなかったら、きっとあたしは、あの集落の、狭い世界で腐ってた。歌も、希望も皆失って…エルマと路頭に迷うしかなかったよ。でも、スミレがあたし達に居場所をくれたし、あたしは、スミレの隣で、初めて、『ああ、今までずっと片耳のせいで、疎まれてきた私でも、胸を張って歌っていいんだ』って思えたんだよ?」

 ルナの声は、話すうちにどんどん、涙声に変わっていく。

 その涙を流させたのは、私が、自暴自棄に、後先考えずに、口に出した言葉だ。

 私の言葉が矢尻となって、ルナの心を刺して、涙という血を流させてしまった。


 後悔と、自責の念が、やがて、私の瞳にも、熱いものを込み上げさせる。

 「ごめん…。さっきは、あんな事を言って…。ルナは、そんなに私の事を大事に思ってくれてたのに、私は、すっかり投げやりになって…、何て事を、言ってしまったんだろう」

 ごめんなさいと、何度も繰り返して、私は、ルナの腕をぎゅっと掴む。

 「でも…、私はもう、これ以上、大切な存在を失う、悲しみを味わうのは耐えられないって、思ってしまったの。ヤエも、そして、エルマちゃんも、私を残して、死んでしまった…。また、失うんじゃないか、置いていかれるんじゃないかって、私は怖い…!」

 私は、ルナの腕を掴んだまま、そう叫ぶ。

 そんな私を、落ち着かせるように、ルナは、私の髪に指を通して、撫でてくれた。

 

 「失うのが、怖い気持ちは、あたしだって、スミレと同じだよ。両親を、早くに亡くして、片耳病の為に住む場所も追われて…、やっと、手にした、エルマとの細やかな幸せも失って。でも、失うのがどんなに怖くても、あたし達は、また、新しい繋がりを手にして、生きていくしかないんだよ」

 彼女は語りかけてくる。

 私は黙って、涙を零し続けながら、ルナの言葉に、耳を傾け続ける。

 「あたしね…、エルマが亡くなってから、考えてたんだ。スミレと、自分の、関係の事。あたし、今まで、スミレに貰ってばかりで、すっかり依存してた。今日だって、スミレが来るのを、受け身で待ってたんだ。だけど、このままじゃ、駄目だって思った。エルマは、あたし達にずっと二人一緒で、笑っていてほしいと言ったけど、きっとそれは、今のあたし達みたいな関係とは、違うって思ったから」

 

 そして、ルナは、一呼吸置くと、私にこう言った。

 「考えてみれば、今まで気づいていなかったのが不思議なくらい、簡単な事だった。あたしが、スミレとなりたい関係っていうのは…、恋人だ。そして、あたしは恋人から、その先の関係も、スミレと結びたいって思ってるよ…」


 恋人。

 音もなく、降り続ける雪の中。

 ルナの声で、その単語が、私の耳を通して、頭の中に届いた時。

 彼女の言葉は、私の心へ、すっと、自然に溶け込んでいた。

 『ああ、そうだ。ルナの言う通りだ…。私も、何で今まで気付けなかったんだろう。出会ってから、今日までの、私達の関係に名前をつけるなら、それはもう、ただ一つ、恋人しかなかったのに…』

 自分とルナは、恋人だというのは、今の関係だ。

 ルナは、更にその先に続いていく、彼女と、私の関係についての話をしている。


 私は、ルナに、話の続きを促す。

 「恋人の、その先の関係って…?」

 「もう、大切なもの…家族を失うばかりの人生は、今日でお仕舞いにしよう。これからは、あたしとスミレの二人で、これからの人生をずっと、一緒に過ごす家族になる。そして、ここから、新たな人生を、二人、絶対に離れる事なく歩いていくんだ。もう、あたしは、家族を失いたくない」

 ルナの言葉に、私の心臓が、大きな、一拍を打ち鳴らす。

 これからは、ルナが私の、私がルナの、家族となって、ここから、新たな人生を生きていく。

 それは、きっと、エルマが息を引き取る直前。

 私とルナが見た、あの、花びらが降りしきる、不思議な光景の中で、彼女が私達に遺してくれた最期の言葉。

 『二人には、笑って、ずっと一緒にいてほしい』という、あの言葉に対して、ルナが辿り着いた答でもあるのだろうと、私は思った。

 

 そして、ルナと、本当の家族のような関係になりたい、という気持ちは、私もかねてより、胸に抱いてきた気持ちだった。

 前に、お店に私を訪ねてきた、チハヤと話した時。

 その気持ちについて、私ははっきりと自覚した事を覚えている。

 私が思い描いたものと、ルナも、同じ未来を望んでくれているという事実が、凍てついていた私の心を溶かしていく。


 ‐あの時とは違って、私達の元に、もう一人の家族として、一緒に歩いてほしかった、エルマはもういないけれど…。

 今は、エルマがいなくなった世界で、再び、私達が前を向いていく為に。

 今日までの、私とルナの人生の在り方に、一度、終止符を打って、今、ここから、新たな人生へと歩み出す為に。

 「スミレは、どう思う…?あたしと、家族になる事は嫌…?」

 様々な思いが去来していき、口を閉ざしていた私に、ルナが少し、心配そうに尋ねる。

 私の返事は、決まっていた。

 「…嫌な筈、ないでしょう…?私も、ルナと家族になりたい。エルマちゃんが、最期に、あの白昼夢の中で、願ってくれたように、ずっとルナと、お互いに隣にいて、笑顔で生きていけるような繋がりを、私は願ってる。だからルナの誘い、喜んで受け入れるわ。私達は、新たな家族になろう」


 私の返事を聞いたルナは、彼女の膝の上に横になった私を、見下ろしたまま、しばらく、言葉を発さない。

 すっかり夜の闇は深まり、この船着き場には、灯もない為、ルナの表情は、簡単には見えない。

 ただ、ルナの肩が、小さく震え始めた事は、夜陰の中でも分かった。

 しばらく止んでいた温かい雫の雨が、私の顔に、二、三滴、再び零れ落ちた。

 「ルナ、また泣いてる…」

 「はは、ごめん…、今日はなんだか、子供みたいに泣いてばかりで。その言葉聞けたら、あたし、嬉しくてさ…。スミレも、あたしと同じ気持ちになってくれた事。家族になってくれる事が…」

 その、私の顔を、頬を濡らした熱い雫が、今度は、悲哀の感情によるものではなかった事に、私は、安堵する。

 かく言う私も、歓喜の涙を流していた。

 ルナと、気持ちを通じ合えた事に。

 二人でしばらく、幼子に戻ったように泣いていた。

 ここには、見ている人もいないのだから、涙も、すすり泣く声も、憚る必要もなかった。


 しばらくして、やっとお互い、泣き止んだところで。

 私は、手を伸ばして、暗い中、ルナの頬に、手探りで触れる。

 そして指先で、その涙を拭っていく。

 その間、ルナは、じっと動かず、私にされるがままであった。

 ルナと、新たな家族として、生きていく事に、迷いはない。

 ただ、その前に、ここで、彼女に誓ってほしい事があった。


 「ねえ、ルナ。私達、今日、この場所から、家族となって、新たな人生へ歩き出すんだよね。失う悲しみに、支配されてきた人生を終わりにして」

 「うん」

 「どうか、その新たな人生の始まりであるここで、ルナには、私に約束してほしいの…。もう、家族を失う人生は、終わりにするっていう事なら…、私は、この人生の先で、ルナを失う悲しみをまた味わうのは、嫌だから、私より先には、絶対死なないで。別れの時は、必ず来るけれど、その時は、ルナが私を看取ってほしい」

 我がまま過ぎる、約束を求めている事くらい、分かっている。

 それでも、人間だろうと白狼族だろうと、命火は必ずいつかは消え、別れの時が訪れる。

 まだ見ぬ未来で、ルナの死を、もしも見送る側になってしまったら、私はまた、失う悲しみを味わう事になる。

 

 その時が来たら、自分がどうなってしまうのかは、想像するだけでも恐ろしかった。

 正気を保てる自信もない、と言っても、過言ではないように思える。

 もう、家族を失う悲しみは終わりにしようと言って、新たな、明るい人生へと、私を、引っ張り上げて、救ってくれたルナ。

 そのルナが、私に、再び「失う悲しみ」を与える事など、耐えられない。

 

 ルナは、私の言葉を聞くと、彼女の頬に残る涙を拭っていた、私の手を、優しい触れ方で、両手で包んでくれた。

 冬の空気に触れ続けて、冷えていた私の手に、ルナの体温が沁み込む。

 「…この人生の先で、あたしの為にまた、スミレに失う悲しみを与えるなんて事、あたしだって絶対に嫌だ。でも…、それだと、スミレは悲しまなくて済むけど、あたしが残されてしまうね…。スミレが去って…また、家族がいなくなった。一人の日々に、未来のあたしは耐えられるか、自信はないよ。きっと、色んな拍子に、こんな風にスミレに触れたくなって、『ああ、スミレはもういないんだったな』っていう事実に、打ちのめされる」

 そうだ…。

 私の望みを叶えるなら、今度はルナが一人になってしまう。

 ルナだって、私がいなくなった後は、悲しみ、傷つく。

 先程の私の望みは、自分だけは悲しまずに済みたいという、身勝手なものだ。

 私もルナも、お互いがいなくなった後に、明るく、残りの生涯を生きていく自分の姿を、想像も出来ないのは同じようだった。

 

 「それなら…、もしも、現世にお別れする時が来たら、私達二人、同じ時に、一緒に向こうの世界に行けたらいいわね。それが出来たら、ルナも私も、寂しくならないでしょう?」

 そんな言葉を、私は口にしてみる。

 突拍子もなく、現実味も全くない解決策なのは分かっている。

 だけど、二人の、これからの人生における最大の恐怖を鎮めるには、そんな約束を交わす以外になかった。

 

 ルナは、私の手を、自分の頬に押し付け、両手で包んだまま、答えた。

 「ああ…、そりゃ、確かにいい提案だね。それが出来たら、あたしの方も寂しくならないし、スミレを置いていってしまう罪悪感も、感じずに済む。もしも、寿命が尽きて死ぬ時が来たら、同じ時に、向こうの世界に行けますようにって、神様に、お祈りしよう」

 私の提案を、ルナも受け入れてくれた。

 

 そろそろ、私達は、日本人街に戻らなくてはいけない。今からは、家族として、新たな人生を生きていく為に。

 船着き場から、階段を上り、歩道へと戻る。薄く雪が積もった石畳の上を、日本人街の区画へと歩いていく。

 雪は次第に弱まって、止んでいた。

 街路樹の梢や、道の石畳を、洋菓子にまぶす粉砂糖のように白く染めていた。

 「いつの間にか、雪、止んだね…。星が見えてきた。雪雲も、通り過ぎたみたいね」

 ヴィクトリア様式の、西洋風のビルディングが立ち並ぶ通り。

 その建物に区切られた夜空に、チラチラと、煌めく星が見えていた。

 私達を見守るように、淡く弱い、銀の光を放つ星々。

 

 「星を見てると、私達が最初に会った時の事、思い出さない?」

 それを見て、私は、ルナと初めて会った、あの公園での事を思い出す。

 ルナも、夜空を見上げて、白い息を一つつく。あの時の事を思い出したのか、横顔に苦笑いが浮かんだ。

 「あの時は、思い返しても、恰好悪い出会い方だったよな…。興行団の連中に、働かせてくださいって縋り付いて、蹴り飛ばされたところも、スミレに見られてさ。スミレに、あたしの思いを伝えるのも、今日はもう必死で、殆ど、勢い任せになってしまったけど、本当はもっと、恰好いいお膳立てが、出来たら良かった」

 ルナには、自分の気持ちを伝える流れに、色々、上手く決まらなかったと、思うところもあるようだ。しかし、私は、そのような事は気にならない。

 ルナと、ここから、新しい人生へと歩き出せる事。その事実だけで十分、心満たされている。

 

 ‐ルナと、恋人であり、そして、家族となる。

 恋人であるならば、私とルナは、まだ、していない事が残されている。この場でも、すぐに出来る、愛の証。

 私は立ち止まって、ルナの上着の生地を引っ張る。

 「うん?どうしたの、スミレ」

 「…家族である前に、恋人だって、私の事、言ってくれたでしょう?それなら…、私と、する事があるんじゃない?」

 寒い夜だから、歩道に、人の姿は他に見えない。それを確認してから、私は、鈍い彼女に、言っている意味を伝えようと、唇にそっと指を当てる。

 「恋人なら、触れるべき場所が、あるでしょ…」

 その行為の名前を直接、言葉にして、口に出す事は、私には耐えられない。

 こちらを振り返ったルナも、流石に察したらしい。

 石畳を白く染める雪にも、劣らないくらいの白い肌を、みるみる紅に染め上げていく。

 分かりやすく、声が上ずる。

 「あ、あたし、上手くやれるかなんて分からないけど…?し、した事ないし」

 「そんなの、私も同じよ…。ルナ、お願い」

 私は立ち止まって、両の瞼を閉じる。

 ルナを待つ為に。静謐が支配する街の中。私の心臓の鼓動が、その間隔を短くしていく。

 

 路上に薄く積もった雪を踏みしめる、ルナの足音がした。

 全身の神経が鋭敏になっているようで、体を取り巻く空気の流れの、微細な変動からも、ルナが恐る恐る、体を近づけているのが分かった。

 どれだけの時間、待っていたのか、よく覚えていない。

 最初、また、雪が降り出して、私の唇にそっと触れたのかと思った。

 そう錯覚するほど、ルナの唇の感触は覚束なかった。

 冷気に触れて、冷え切ったルナの唇が触れてきたのを、雪の粒と勘違いしたのだ。

 

 私の意識が、唇の一点に集中した。

 ルナの唇が私の唇に重なる。

 初めは冷たかった、彼女の唇も、幾度か、私の唇と触れ合っているうちに温かくなっていく。

 それをもう、雪と間違う事はなかった。

 何処で息継ぎをすれば良いのかとか、そんな知識もある訳もなく、お互い、ただ、唇を擦りつけ合う事にしか意識は向いていなかった。

 だから、次第に呼吸が苦しくなってきて、私とルナは、ばっと体を離した。

 「はぁ、はぁ…」

 ルナは、苦しそうに私の両肩に手を置いて、息を整えていた。

 私も、呼吸が整うのに、しばらくの時間を要した。

 「口づけをくれて、ありがとう、ルナ。それでは、改めて…。今夜からは、恋人であり、そして、お互いの家族として、どうか、よろしくお願いします」

 「歌う事の、何倍も緊張したし、上手くは出来なかったけど…、恋人らしい事、スミレと初めて出来て、あたしも嬉しい…。あたしこそ、どうか、よろしくね、スミレ」

 そうして、ルナに手を引かれて、私は、日本人街へと帰った。


 初めは、「私に招かれた場所」であった筈の、あの場所が、今のルナにはもう、しっかりと「私と共に、帰るべき場所」となっている。

 その事も伝わってくるようで、嬉しくて。

 今夜は、ルナに、手を引かれて、帰る事にした。

 ‐新しい人生の、一歩目となった今夜を、生涯忘れる事はないだろうと、私は思った。

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