花の雪の別れ
視点:ルナ
エルマが小康状態にあった、最後の夜。
あの子の小さな手を一晩中握って、出会ってから今までの思い出を話した事も、もう遠い昔のように思われた。
それ程、今のエルマには、話せていた時の面影はなかった。
体も痛々しい程の黒い斑点だらけとなり、往診に来る医者の先生が、壊死した組織を切除して、包帯を巻く。
そんな事を繰り返した結果、もう、エルマの体は包帯だらけになってしまった。
医者の先生の告知が、抗いようのない絶望を、あたしとスミレ、マリコさんにもたらしていた。
あと2、3日が山だと。
その通りならば、エルマは、春を迎える事なく、息を引き取る事になる。
エルマは、死期が近づいている事を悟っていたのだろうか。
あの雪の日、あたしに、急に、「冬を越えられずに、命を散らした白狼の子供達が、春に、花の妖精になって、帰ってくる」という、あの歌の話。
あれは、雪が降りしきる花びらのように見えるという、ただの感傷からではなく、自分の最期が近いのを、エルマは直感で、あの時にはもう、知っていたのではないか。
そう思わせる程、エルマがあの話をしてから、急変するまで、時間はあっという間だった。
壊死は、エルマの歯茎にも及び…、狼の耳と並んで、白狼族の象徴である、人間のものより鋭い犬歯も、根元から腐り落ちた。
‐犬歯は、あたし達、白狼族が息を引き取る時、この世に遺す物として、墓に埋めるか、箱に収めるのが部族の習わしだ。
あたしも、両親の犬歯を木箱に収めて、この部屋に置いている。
銀色の膿盆の上に転がった、あたしの物よりも小さい、血が付いた犬歯。
それを見た時は、エルマが死別への身支度を始めたように思えて、その犬歯を見ている事が出来なかった。
これをエルマの遺品として、木箱に収める時など、考えたくもない。
今までスミレは、重ね重ね、「まだ希望はある」と、半分はあたしに、残り半分は自分自身に言い聞かせるように、そう言ってくれた。
しかし、最早ここに至っては、スミレも、希望も奇跡も、信じる事は出来ないようだった。
スミレと二人で、一階の店員用の休憩室で、エルマが描いた、キャンバスノートの三枚の絵を眺めて、ぼんやりと過ごしていた。
あたしもスミレも、かわるがわる、エルマの容態がいつ崩れるかと、目を離さずに様子を見続け、体力は限界に近かった。
「この絵を、あたしとスミレに見せようと描き始めた頃には、もう全部、エルマは分かっていたのかもな…。こうなる事が近いのも…。まだ話が出来るうちに、この絵をあたし達に託したかったんだ」
スミレも、涙の膜が張り詰めた瞳で、エルマの絵を見つめている。
「どれも、私達の、大事な思い出の歌ね…」
星が照らす夜空を背に歌う、あたし達。
野花の咲き乱れる、湖の畔の道を、手を繋いで歩くあたし達。
そして、桜の下、花吹雪の中で、白狼の子供達と舞い遊ぶ、右耳しかない少女-それはきっと、エルマ自身。
「エルマに、他の白狼の子供達とも、この絵みたいに思いっきり、陽の光が差してる、花の下で遊ばせてあげたかった…。あの子には、片耳病なんて背負わずに生きてほしかったよ…。あたしに、出会えなくても」
絵を見つめながら、無念の言葉を、口にせずにはいられない。
生まれる境遇は誰にも選べないのだから、恨み言など意味がないと、分かっていても。
「でも、エルマちゃんは、ルナに会えて良かったって思ってるわよ…。だって、ルナの歌を聞く時、ルナと話す時、エルマちゃんの顔は、本当に幸せそうだったもの。きっと、ルナに会えた一生は、あの子にとって、幸せだったと信じたい。それをルナが否定してしまっては、エルマが浮かばれないわ…」
こんな時も、スミレの言葉は、あたしの胸の痛みを和らげてくれる。
スミレも‐、亡くなった妹、ヤエにそっくりだという、エルマが最期の時を迎えようとしているのを見て、きっと冷静でいられる筈もないのに。
今日も、医者の先生が往診に尋ねてくる時間がやってきた。
医者の先生に、マリコさんがお茶を出して、そして、2階の部屋にいる、エルマの様子を見に行って…程なくしてだった。
「エルマちゃんが、目を覚ましているわ!お姉ちゃん達と、話をさせてと言ってる」
マリコさんがもたらした報に、私達も、医者の先生も、驚く。
「驚くべき事です。ここに来て、少しでも意識を取り戻されるとは…」
医者の先生にとっては、通常なら考えられない、奇跡のような事だと言われた。
「きっと…医学的な話から外れたような事を口にしますが、世話になったお二人と、最期の前に話をしたいという強い思いが、短時間だけでも彼女の意識を呼び覚ましてくれたのでしょう…。どうか、悔いのないよう、お話をしてこられてください。私はそれまで、待っていますので」
最後までエルマの往診を続けてくれた、慈悲深い目をした彼に、あたしも、スミレも、心から感謝の言葉を述べた。
一秒の時間をも惜しんで、二階の部屋へと駆けていく。
「エルマ!」
「エルマちゃん!」
あたしとスミレ。二人分の声が、エルマがいる和室に響く。
今や、彼女の体のうち、顔の右半分しか、包帯に覆われていない部分は見えない。
包帯の至る所に赤黒く血が滲み、痛ましい姿だ。
それでも、包帯に隠れずに残った右目は確かに、閉じていた瞼を開き、彼女の瞳が、あたし達を見つめた。
「ルナ、おねえ…ちゃん…。スミレ、おねえ、ちゃん…待って、たよ…」
絞り出すような声が、エルマの乾ききった唇の隙間から漏れ出た。
もう聞けないと思っていた、その声が耳に届いた瞬間、涙が溢れ出そうになるのを、あたしはぐっと堪えた。
エルマの傍に駆け寄って、その手を握りしめる。
あたしは、確かにここにいると、彼女に伝わるように。
「お姉ちゃん達に、お願いが…、あるの…。もう一度だけで良いから、あの、歌を歌って…」
「あの歌って…?」
「春の…花びらの中で、花の妖精になった、白狼の子供達が、舞い遊んでる…、あの歌。あの歌を聞いてたらね…、歌の世界に入り込んだみたいに、私の目の前に、花びらが沢山、降ってきて、優しい春の陽の光が、差してくるの…。ルナお姉ちゃんと、スミレお姉ちゃんの声で、聞かせてほしい…」
掠れた声で、途中、何度も苦しそうに呼吸をしながら、彼女は、あたし達二人へとそう言った。
エルマの願いを聞いて、あたしの隣で、スミレが肩を震わせたのが分かった。
懸命に、嗚咽を堪えているようだった。
この願いを叶えてしまったら、それで、エルマの魂をこの世に繋ぎとめている、心残りも断ち切られ、遠い世界に旅立ってしまうだろう。
二度とは帰らない旅路へと。
あたしにはその確信があった。
歌を聞かせるよりも、今は、出来るならば、一言でも多く、今はエルマと言葉を交わして、彼女の声を聞いていたい…。
それが、あたしの本音だった。
「お願い…、二人の歌声を、聞かせて…」
再び、そう言いながら、エルマは、あたしの手を、弱々しくも握ってくる。
その、苦し気な吐息交じりの、彼女の声は、残された時間がもう、僅かしかない事を、あたしに突き付けてくる。
妹の最期の願いを叶えずに、何が姉だ。
そして、隣にいたスミレが、あたしに向かって言った言葉が、背中を押してくれた。
「歌おう…、ルナ。エルマちゃんの為に。前に、言ったでしょう。私は、エルマちゃんの事で、ルナに、後悔の念を背負ってほしくない」
ここでエルマの最後の願いを叶えなかったら、あたしは後々まで、必ず悔やむ事になるだろう。
その後悔の念からは、一生逃れられない。
あたしにそうなってほしくないから、スミレはそう言ってくれているのだ。
スミレ自身が、亡くなった、彼女の妹、ヤエとの別れ方で、消えない悔いを残してきたから。
あたしとスミレは、エルマの傍で、歌い始めた。
歌声が、涙声で乱されぬように、遠い春の、温かく優しい光景だけを、集中して思い描く。
凍てつく冬が終わって、綻び始めた、春の野花達。
その、春の花園の中でも、一際目を引くものがある。
それは、今は見る事の叶わない、伝承の中だけで咲く、大樹の梢を埋め尽くす、淡く、白い花達…。
雲と見間違えそうな程、白い花達に埋め尽くされた、大樹の梢は、春風に揺れる度に、一斉に、花びらを降らせる。
風が吹き抜ける度に、花吹雪が舞い散る。
その光景の中、いつの間にか、一人、また一人と、白狼族の民族衣装を着た、白狼の子供達が現れ始める。
野花の色鮮やかさに目を輝かせ、花びらが降りしきる光景の中を、子供達は、笑って、飛んだり、跳ねたりして、駆けていく…。
歌っている間に、不思議な事が起こった。
あたしとスミレは、いつの間にか、温かな春風に揺れる、野花達の咲く中に立っていた。
青空の下、陽の光を浴びて、若草の緑と、野花の色彩が眩しい、草原に。
あたし達のいるところから、少し離れた、小高い丘の上には、花の雲を戴(いただ)いた、大木が見える。
その大木の下で、戯れている白狼の子供達の姿や、歓声まで聞こえてくる。
『これは…歌の世界?』
気付けば、あたしも、スミレも、エルマが描いてくれた、あのキャンバスノートの絵の中で着ていたものと瓜二つの、純白のドレスに身を包んでいる。
そして、花の下で舞い遊んでいる子供達の中に、あたしは、確かに認めたのだ。
「あそこにいるのは…、エルマ?」
そこで、弾けるような笑顔で、他の白狼の子供達と遊ぶ彼女を見た時は、思わず、涙が零れそうになった。
風が吹き抜けて、花びらが降る中、舞い遊んでいるエルマは、本当に、花の妖精になったようだ。
そして、あたしとスミレに気が付くと、手を振ってきた。
二人で、エルマの元へと駆けていく。
花の雪が降り続ける中、あたしとスミレの二人は、エルマと向かい合っていた。
エルマは、あたし達に向かって、口を開く。
「ルナお姉ちゃん。スミレお姉ちゃん。私の願いを聞いてくれて、ありがとう…。でも、私には、まだ、わがままかもしれないけど、二人に、約束してほしい事があるの」
「何…、エルマちゃん?」
涙ぐんだスミレがそう、エルマに尋ねると、彼女は答えた。
「それはね…私は、二人の歌が大好きだから、どうか、二人には歌を、歌い続けてほしいの。これからは、もっと、沢山の人に。私は、もう、二人の一番近くで歌を聞く事は、出来ないけれど、遠い世界に行っても、必ず、二人の歌を聞いているから」
エルマは続ける。
「そして、ルナお姉ちゃんと、スミレお姉ちゃんは、二人共、隣にいるのが、とてもよく似合ってる。お互いを信じ合っていて、何だか、二人は本当の、家族みたいだって思ってた。だから、この先も、お姉ちゃん達二人は、ずっと一緒に、そして、笑って生きててほしい。私の事を引きずって、ずっと泣いてる二人なんて、私は、見るのは嫌だから…」
エルマのいなくなった日常で、あたしもスミレも、二人で笑って、明るく生きてなどいけるのだろうか。
彼女がいない世界が、どんなものか想像する事すら、あたしには出来ないというのに。
「これはさようならじゃないよ。ルナお姉ちゃん、スミレお姉ちゃん…。春が来て、花が咲く季節に、いつか必ず、また、会えるよ…。約束だから」
強い風が吹き抜けていく。
その風の中で、エルマの声が、一際大きく響いた
視界が、花びらで埋め尽くされ、あたしは一瞬、目を瞑った。
そして、次に目を開いた時、花の下に、もう、エルマの姿は何処にもなかった。
‐そこで、あたしの意識は現実へと引き戻された。
スミレの悲痛な叫びによって。
「エルマちゃん…⁉嫌、目を開けてよ…。エルマちゃんってば…!」
スミレが、エルマの肩を揺さぶって、名前を呼び続けていた。
「エルマ…‼」
あたしも、エルマの顔を覗き込んで、その名前を呼んだ。
しかし、何度、彼女の名を呼んだところで、二度と、彼女の瞼が開く事はなかった。
医者の先生が、エルマの死を告げたのは、それから、程なくしての事だった。
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