二人の選んだ未来 ①
視点:ルナ
チハヤという、スミレの過去を知る少女と、スミレは、無事に仲直りをする事が出来て、本当に良かったと思う。
あの子が、去って行く間際、あたしを呼び留めて、言った言葉が、頭に残っていた。
「ルナさん…。どうか、スミレの事を大事にしてあげて。ルナさんがいてくれる事が、今のスミレにとって、大きな支えになっている。きっと、ルナさんに会えていなかったら、スミレは新たな一歩を、この国で踏み出せてなかった。スミレの手を引いてくれて、ありがとう」
チハヤは、確か、そう言っていた。
片耳病の為に、集落の中で、爪弾きにされていたようなあたしに、歌える居場所をくれたのは、スミレで、彼女と会ってから、手を引かれてきたのは、いつもあたしの方。
そう思ってきたから。
今だって、エルマの病の悪化に、もしもあたしが一人だったなら、向き合えていなかったかもしれない。
この苦し過ぎる運命にも、スミレが隣であたしを支えてくれているから。その瞳から、希望の色が失せていないから。エルマを前にして、あたしは絶望に飲み込まれずにいられる。
スミレに支えられてばかりだと思っていたあたしも、スミレに、知らず知らずのうちに、力を与えられていたという事か。
でも、あたしがスミレに返す物としては、まだ、到底足りない。
あたしは何を彼女に与えられるだろう。
冬は深まっていき、やがて年は明けた。
マリコさんの酒場の、二階の和室で、新しい年になっても、エルマは、懸命に生きていた。
体の組織の壊死が、何らかの要因で遅らせられていると、往診に来てくれた、慈善病院の医者の先生は説明してくれた。
「エルマさんの体が、頑張って、病気の悪化を遅らせているようですな。その要因が何処にあるかは、はっきりとは分からない。ただ、今までに私が見た、同じ悪性の片耳病を患っていたどの白狼族の子供よりも、彼女は長く生きている。これは確かです。これだけ小康状態を保っていられるのは、奇跡に近い。貴女方の懸命な看病の賜物でしょう」
医者の先生が帰って行った後、あたしとスミレは、エルマの容態が未だ悪化せず、踏みとどまっているらしい事を喜び合った。
スミレが、前にあたしに言ってくれた通り、奇跡は起きるのかもしれない…。一縷の望みが、あたしの中に芽生えた。
病気の事については素人である、あたしの目から見ても、ここのところ、エルマは幾らか、病状は落ち着いているようだった。
1月のある日、あたしが部屋に、代えの氷嚢を持って入った時、エルマは、布団から上半身だけを起こして、じっと、窓の外に目を向けていた。
今日は、一段と寒い。
分厚い鉛色の雲に閉ざされ、淀んでいる空からは、朝から、粒の大きい雪が降り注ぎ始めていた。
エルマは、窓外を舞う雪に目を奪われている様子だ。
枕元には、マリコさんがくれた、赤い背表紙のキャンバスノートと、色鉛筆の缶が置かれている。
エルマは、時折、絵をそこに描いていた。
「エルマ、寝てなくても大丈夫か…?」
あたしがそう尋ねると、エルマは、こくりと頷く。
彼女の顔の左半分は、組織の壊死が進んでしまった為、死んだ皮膚を除去して、包帯で隠している。
医者の先生の話では、失われた皮膚が再生する事は、もうないらしかった。
和室に入って、彼女のその姿を見る度、あたしは胸に、鈍器で打たれるような心痛を覚える。
それでも、あたしの方が狼狽えて、エルマを不安にさせるようでは駄目だと、自分に喝を入れて、努めて元気な声を出す。
振り向いたエルマは、にこりと笑った。
「うん。今日は少し、調子がいいの…。お姉ちゃん、見て。今日、雪だね。体が、こんなじゃなければ、雪が積もったら、遊べるのにな…」
エルマは、外に出られない事を惜しんでいる様子だ。
あたしは、エルマが横たわる、布団の傍に腰を下ろす。
「こうして見ていたら、あの雪が、花びらに見えてくる…。そう思わない?お姉ちゃん」
エルマは、あたしに向けて、そんな事を言ってきた。
冬に入ってから、チラチラと粉雪が降る日は何回かあったが、こんなにまとまった量の、大粒の雪が朝からずっと降っているのは今日が、この冬で初めてだ。
明日には、この日本人街の家々の屋根も、一面の雪化粧だろう。
エルマの言う通り、窓の外、音もなく降り続ける雪は、温かい部屋の中から眺めていると、春風の中、舞っている白い花びら達に見える気もした。
「うん…。本当。空からずっと、白い花びらが降ってるみたいだ…」
白狼族の歌の中で、伝説としてのみ伝わる、春を告げる花。
雪のように白い花を咲かせて、春風が吹けば、一面に花びらを降らせたと言われる。
伝説の花が春風に舞う時も、このような光景だったのだろうか。
そんな事を思いながら、エルマとしばし、無言で、雪を眺めていた。
店が開いていないこの時間。
スミレは、今、下で、マリコさんから、歌の指導を受けている。
あたしとスミレは、交代でエルマの看病をして、更にはこのお店で働きながら、歌の練習も続けていた。
本当は、エルマが病に臥せているこの時に、目を離す事は、あたしにはとても怖かった。
それでも、熱が引いて、目を覚ましたエルマが、
「私の為に、お姉ちゃん達が夢の為に頑張るのを、止めてほしくない。また元気になって、お姉ちゃん達の歌を聞くのが、今は、私の一番の楽しみなんだから」
そう言って、背中を押してくれたから、私とスミレは、歌の練習へ戻る事にしたのだ。
今さっきは、マリコさんのピアノの演奏に合わせて、スミレは、丁度、白狼族の民謡である、春の花の歌を練習していた。
いつかは、スミレが、疲れたあたしを膝の上に寝かせて、歌ってくれた、あの曲。
スミレの歌声で歌われるそれは…、あたしが疲れから、眠気に包まれていたのもあるかもしれないけれど、あっという間に、春の陽気の中へと、あたしを惹きこんでくれた。
空から柔らかに照り付ける、うららかな日差し。
そして、ひとひら、またひとひら、降って来る、色素の薄い花びら達…。
あの時の不思議な感覚を思い出していたところ、エルマの声で、あたしは現実に戻される。
「スミレお姉ちゃんが…、私に、あの、春の花の歌を歌ってくれていた時ね。私の上に、ぱあっと、花びらが降ってくるのが見えたの。春の、温かくて、優しい陽だまりの中から…。捕まえようとしたら、すぐに消えちゃったけど…。雪を見てたら、あの時の事、思い出した。私のただの夢だったのかもしれないけど」
雪を見つめながら話す、エルマの言葉を聞いて、あたしは、はっとした。
彼女もまた、スミレの歌を聞いた時に、私と同じような、不思議な体験をしていたのだ。
「エルマが見たのは、夢じゃない。きっと、スミレの歌には、聞く人を、歌の世界へと惹きこんでいく、何か不思議な力があるんだよ」
スミレの歌で、エルマもあたしも、安らぎを貰っていた。
本当に、彼女からは与えられてばかりだ。
‐あたしから、スミレに返せるものは何もないのか。
また、その事に、考えが至る。
今まで、貰った分に相当するくらいの、スミレに渡せるものを、私は何か、持っているだろうか。
今日のエルマは、病気が悪化して、床に臥せてから、一番と言っていいくらいによく話した。
雪が降り続ける光景が、彼女の気持ちを感傷的にさせるのか。
エルマの、今日の話題は、あの民謡‐春の花の歌から、離れる事がなかった。
「ねえ、お姉ちゃん、知ってる?あの、伝説の、春の花の歌に伝わる話」
急に、彼女がそんな話題を切り出してきた。
そんな、意味深な物言いをエルマがする事は、日頃はない事だ。
だから私は気になって、聞き返すと、エルマは、こう言った。
「あの歌って、春が来て、満開の花の下で、子供達が喜んで踊ってるって、そういう歌でしょう?でも、あの歌の『子供達』って、本当はこの世に生きてる子供達じゃなくって、花の妖精に生まれ変わった、白狼の子供達の事なんだって」
‐エルマの言葉に、あたしは、冷たいものが背筋を走るのを感じた。
優しい曲調のこの歌に隠された意味。
それを、エルマも知っていた。
曲中、春の訪れを喜ぶ「白狼の子供達」。
その言葉の真の意味は、生きている子供ではなく、病や飢えなどで、冬の間に、幼くして亡くなっていった白狼の子供達が身をやつした、花の妖精の事なのだと。
それは、あの歌にまつわる、伝承の一つの解釈として有名な話だから、あたしも、勿論、知っていた。
しかし、「亡くなった子供が、花の妖精になって、春の訪れと共に帰って来る」という話を、今まさに、病に蝕まれているエルマが口にする事に、あたしは、不吉な物を覚えた。
「え…?急に、何を言い出すんだよ…、エルマ?」
「あの歌の事を考えてたらね、ふっと思ったの。あの歌の通り、春の花が咲く頃には、白狼の子は、花の妖精になって、春と一緒に帰って来られるのなら…、もし、私が死んじゃったとしても、ルナお姉ちゃんも、スミレお姉ちゃん、マリコさんも、皆、寂しくないよねって」
『死ぬ』という言葉が、エルマの口から飛び出した事に、あたしは、頭を強く殴られたかと思う程の衝撃を受けた。
その、最も彼女の口からは、聞きたくなかった言葉の余韻が、この部屋の空気の、隅々まで浸透してしまいそうな錯覚に見舞われる。
それを打ち消そうと、あたしは言う。
「馬鹿な事を言うなよ、エルマ…!エルマが、死ぬ筈ないでしょう?お医者様だって、病気は落ち着いてるって、言ってくれてる。なのに、エルマがそんな弱気になってしまったら、治る病気も、治らないよ…!」
エルマの前で、平静を装うのも苦しい。
動揺を隠そうとするあまり、思わず口調が強くなってしまった。
動悸が速くなる。
もしかすると、エルマを不安にさせるような事を、あたしは、何かしてしまっただろうか。
そう考えもしたが、何も心当たりはなかった。
「ルナお姉ちゃん、この絵を見て」
黙りこくってしまったあたしに、ルナは、枕元に置かれていたキャンバスノートを手に取って、見せてきた。
あたしは、パラパラとそのページを捲って…手を止める。
彼女が描いたものが、何を現しているのか、すぐに分かったから。
3枚の絵が、ノートの紙面上に描かれていた。
夜空に散りばめられた、煌めく星々達。
その下で二人の、純白のドレスをまとった少女が歌っている。
次のページには、赤、黄、紫、桃…、色彩豊かな野花達が咲き乱れている。
その向こうに青で描かれているのは湖の水面だろう。
そして、その光景の中を、また、二人の少女が、手を繋ぎ、歩いていた。
愛を語らう、恋人同士のように。
そして、また次のページを見る。
絵の中央には、梢に花びらを咲き誇らせている、一本の大木がある。
その花は微かに桃色に色づいており、いつか、スミレが教えてくれた、ニッポンの花-桜と、白狼族の伝説の花のイメージが、入り混じっているように見える。
そして、降りしきる花びらの中、踊るように、飛んだり、跳ねたりしているのは、銀色の髪に狼の耳を生やした、白狼族の子供達…。
この3枚の絵はどれも、あたしとスミレが、今まで歌ってきた歌だ。
そして、一枚目、二枚目の絵に出てきた、純白のドレスをまとう、二人の少女は…。
「この絵の二人は、もしかして、あたしとスミレの事、描いてくれたの…?」
あたしの問いに、ルナはこくりと頷く。
「うん。いつもお姉ちゃん達は、私に歌を聞かせてくれてたでしょう?歌ってる二人の事を考えて、描いたの」
あたしとスミレ。
二人が共に歌う中で、生み出される世界を、エルマも感じ取ってくれていた。
ただ、三枚目の絵には、あたしもスミレも描かれてはいない。
その代わりに、花の下で舞い遊ぶ白狼の子供達の中に、右耳しか持たない少女が描かれているのが、あたしの目に留まった。
「ねえ、エルマ…。この、三枚目の絵に描かれてる、右耳だけしかない、白狼の女の子って、もしかして…」
先程の、彼女の話が頭を過ぎった。
不吉な予感が駆け抜ける。
‐冬を越える事なく、命を散らした白狼の子供達は、春、花の妖精に身をやつして、帰ってくる。
自分も、妖精となって帰ってくるなら、お姉ちゃんも寂しくないでしょう‐と、エルマは言った。
私の言葉に、彼女は頷く。
「その子は、私だよ。春になって、妖精の一人になって、花と一緒に帰ってきたの。春が来る度に、ルナお姉ちゃん、スミレお姉ちゃん、マリコさん、皆とまた、会えますようにって、願いながら」
ノートを持つ、あたしの手が、震えていた。
エルマは、死ぬ事を受け入れてしまっている。
この、三枚目の絵は、エルマからあたし達への、惜別の手紙に等しい。
何か言わなければ。
でも、今のエルマに、あたしは何を言えばいい?
弱気な事ばかり言わないでと叱るべきか。
それとも、エルマは死んだりしないよと、優しく慰めるべきか。
しかしそのいずれも、全てを悟ってしまったらしい、今のエルマには、意味をなさないようにしか思えなかった。
「私にも、分かるよ…。自分の病気がもう、治る事はないくらい。だって、私に『大丈夫。こんな病気、すぐに治るよ』って、ルナお姉ちゃんは元気に、何度も励ましてくれたけど、いつも、表情は辛そうにしてたもの…。きっと、私に、希望を無くさせたくないって思って、ずっと無理して、本当の事は言えずにいたんだよね。ルナお姉ちゃんなら、そうするだろうなって、分かる。お姉ちゃんはいつも、私に優しいから…」
全部、エルマには見抜かれていた。
エルマに不安を与えたり、希望を捨てさせたりしては、絶対にいけない。そう、自らに言い聞かせて、芝居をしてきたが、それも、彼女の目には全て、お見通しだったようだった。
「あと、どのくらい、私は生きられる…?お姉ちゃん」
「やめて…、そんな事を言うのは。エルマは大丈夫だから。病気の事は、心配いらないから…」
何の気の利いた言い回しも思い浮かばず、同じ言葉を繰り返すしか、あたしには能がなかった。
大丈夫。
心配いらない。
そんな、苦し紛れの、その場凌ぎの言葉をまた、あたしは並べる事しか出来ない。
「…今だってお姉ちゃん、本当に大丈夫だって思ってる顔、してない。お願い。本当の事を教えて。もう、そんなに無理して、私に、隠し事してほしくないよ…」
あたしは、手からノートを落とした。
本当は、三枚目の、花の下で舞い遊ぶ子供達の絵は、この場で破り捨ててしまおうかとさえ思った。
この絵の中に、エルマも、花の妖精として連れていかれてしまいそうな、そんな錯覚さえ覚えたからだ。
でも、エルマの思いが詰まった絵に、そんな事を出来る訳がなかった。
あたしはふらふらと立ち上がっていた。
そして、エルマに背を向けると、襖を開けて、部屋の外へと飛び出てしまった。
逃げ出すように‐。
「うわっ‼」
「きゃっ‼」
部屋から出て、すぐにあたしは誰かと鉢合わせになり、ぶつかって、倒れた。
「す、スミレ…?」
その相手はスミレだった。
彼女は、その顔を酷く、青ざめさせていた。
彼女の表情を見て、あたしは、嫌な予感が胸を巡る。
「もしかして…、あたしとエルマの話を、聞いてた…?」
スミレは頷く。
「ごめん…。私の歌の練習が終わったから、ルナに、交代だよって教えにきたところだったんだけど、二人の話し声が聞こえて。とても、入れる空気じゃなかったから…。立ち聞きするつもりはなかったの」
先程の、エルマの言葉を聞いてしまって、スミレもかなりの衝撃を受けているようだった。
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