エルマとの最期の日々 ②
視点:スミレ
マリコさんの言葉を信じて、ルナとエルマの元へ、もう一度戻ってみて、本当に良かった。
「あたしの気持ちを勝手に決めつけないで」
「今度は、あたしの隣が、スミレの居場所になれたらいいと思っている」
そう、ルナが、私に言ってくれた時。私は自分を恥じた。
きっと、私の事をもう嫌いになって、いなくなってほしいと思っているに違いないと、ルナの気持ちを勝手に決めつけた自分の事を。
そんな風に考えてしまったのは、私が、ルナの事を、心から信じられなかった事の証明だと思えたから。
ルナは私を必要としてくれていたし、それに、今度は自分が、私に居場所をあげたいとまで考えてくれていたのに。
私が「ルナとエルマの傍には、もういるべきではない」と勝手に決めつけたせいで、ルナは、頬に涙の痕をつける事になってしまった。
これ以上傷つけないようにと思って、やった事で、ルナを余計に傷つけてしまった。
‐こんな過ちはもう、繰り返さない。
それからの日々は、私とルナは、マリコさんにも手伝ってもらいながら、エルマの看病に明け暮れた。
エルマは、熱にうかされながらも、私がすぐ傍にいるというだけで、喜んで、微笑みを浮かべてくれた。会話をするのも辛そうだったが、エルマは私の手を握って、「お歌を聞かせて。スミレお姉ちゃん」と、よくせがんでくれた。
その様子は、幼い命を病に散らした、昔のヤエの姿を、私に思い起こさせて仕方ないものだった。
幾度も、歌声が涙で曇りそうになった。
結局、あの時から5年が経っても、何も出来ない自分から、変われてはいなかったのか、と無力感に苛まれた。
それでも、私は、ルナと二人で、エルマに、白狼族の歌を聞かせ続けた。
私達の歌の、その始まりから、ずっと、客席で見続けてくれていた、この小さな、最初の観客に。
ルナが、私を必要としてくれている。ルナの隣が、私の居場所になれば良いと言ってくれている。
それならば、私はルナの隣にいて、エルマの病と向き合う苦しみを分かち合うべきだ。
「あのお歌、歌って。ルナお姉ちゃん、スミレお姉ちゃん。春が来て…、花びらが舞って、その中で、子供も踊って、春の訪れを喜んでる…あのお歌を、聞きたい」
日に日に、その体に斑点が増えて、布団から出る事が難しくなったエルマ。
そんな彼女が、何度も聞きたがったのが、その歌だった。
前にエルマの描いた、私、ルナ、エルマ、マリコさんの4人で、日本の桜を見ている、お花見の絵を見た時、ポツリと、ルナは、その歌の事を口にした。
私達日本人が、春の訪れを桜に見出して、喜ぶのと同じように、この国の先住民の白狼族たちにも、歌になる程に愛された、春に咲く美しい花があった。
しかし、この国への西洋人の入植によって、その花を咲かせる木は、絶滅してしまった。今では、その花は、白狼族の歌の中でのみ咲き誇り、春を告げてくれるのだと。
エルマに伝わるように、白狼語の発音を懸命に覚えながら私は、ルナと共に、その、春の訪れの歌を歌った。
季節はもう、冬が深まっていた。
部屋に火鉢を置いて、その火を絶やさないようにし、懸命に部屋を暖めた。
窓の外を見れば、雪がちらちらと舞う季節であったが、その歌を歌うと、エルマの頭の中には、春の花園、降りしきる花びら達が浮かび上がってくるようだった。
苦しそうに顔を歪めて、掛け布団を掴んで、痛みに悶えていたエルマも、その歌を聞けば、急に表情は穏やかとなった。
その代わりに、夢を見ているような眼差しで、彼女は、宙に手を伸ばしていた。
まるで、彼女にだけ見える、降りしきる花びらが見えているかのように。
小康状態となった貴重な日には、布団から半身だけ起こして、エルマは、こんな事を、私とルナに言った。
「冬が終わる頃には、この病気も元気になってるよね…。そうしたら、ルナお姉ちゃん、スミレお姉ちゃん、マリコさんと、皆で、ニッポンに、お花見しに行こう。スミレお姉ちゃんの、生まれた国の、桜っていうお花を見たい」
もう、その頃には、ただの風邪だと彼女に言って、誤魔化す事は不可能に近かった。
彼女の体のあちこちで、体の組織の壊死を示す、黒い斑点が出現していたから。
その斑点は、遂にエルマの顔の、左頬にも出現した。
処置の後に、往診の医者の先生が顔に巻いてくれた包帯が、見るからに痛々しい。 包帯で、エルマの左目や左頬は覆われている。
先生が、幾度、壊死した組織を、メスと鉗子で除去しても、斑点はまた、エルマの体に現れる。
ヤエの体中を覆って行った、あの忌まわしい地方病の、発疹が、私の頭を過ぎった。
それでも、エルマの、白狼の象徴である、右耳だけの狼の耳は、腐り落ちる事もなく、残っていた。
あの耳が残っている限り、エルマは音を聞ける。
私もルナも、まだ、彼女に歌声を聞かせる事が出来る。
「お医者様も来て治療をしてくださっているし、春が来る頃には、きっと、こんな病気、すっかり治ってるわ。その時には、エルマちゃんにも、私の故郷の国の、桜の花を、必ず見せてあげるよ」
結局、ヤエに対して、言っていたのと同じように、私は気休めの言葉を繰り返す。5年前と変わらないやり取りだ。
ルナ、マリコさんとも取り決めて、彼女には、病気の真実については教えない事にしていた。
エルマに、死への恐怖で、怯える日々を送ってほしくはなかったから。
それでもマリコさんと看病を交代して、私達が部屋を出ると、ルナは、肌を刺すように冷たい隙間風が吹き込み、ガタガタと鳴る窓辺に立ち尽くして、しばらく俯いている事があった。
その肩の震えは、寒さによるものではないだろうという事は、すぐ分かった。
「苦しいよ…スミレ…。あたしは、あと何度、エルマに、気休めや、嘘を言えばいい…?」
窓辺を向いたまま、そう、ルナはポツリと言葉を零した。意気消沈を表すように、左耳しかない狼の耳が垂れている。
かつて、病に臥せたヤエを前にしても、なす術もなく、土間で頭を抱え込んで、涙を零すしかなかった、あの時の私を見ている心地がした。
「奇跡は起きるよ…、絶対に。エルマちゃん、病気と全力で戦ってるもの。」
私は、ルナの背中にそっと身を寄せて、後ろからその細い腰に腕を回した。
その背中に額を預ける。
こうして身を寄せたら、心労からか、ルナが痩せてきているのを痛感する。
彼女が、エルマの容態の悪化を恐れるあまり、ろくに眠れていない日々を過ごしている事も知っていた。
ルナの横顔は、一目ではっきりと分かるくらいにやつれていた。
眠れていないのは、私も同じだった。
眠り込んでいる間に、エルマが急変して、息を引き取ってしまったら…、そう考えると、恐ろしくて仕方がなかった。
‐昔、ヤエの傍で看病していた時もそうだった。
寝ている間に、病が、ヤエの魂を連れて行ってしまうのではないかと、恐ろしくて、私は、夜中も目を閉じられず、ヤエの傍を離れられなかった。
でも、このままではルナが疲れ切って、倒れてしまう。
私とルナは、まだ開店前の店の一階。
その一角のソファー席に並んで座っていた。
「ルナ…、少し眠った方がいいわ。昨日だって、殆ど、夜は眠れてないでしょう?私と、看病を交代していた間も」
ルナは頷く。
「でも、私が眠ってる間に、エルマに何か起きたらって考えると、怖くて、とても眠れないよ…。そう言うスミレだって、凄く、疲れた顔してる」
エルマの傍にいる間は、気丈に振る舞って、エルマに不安を与えないようにしなければならない。
その上、看病を交代している間も、エルマの急変を恐れて、眠れない。
私もルナも、神経をすり減らして、精神的にも、体力的にも厳しい状況だった。
‐ルナを、少しでも、眠らせてあげたい。ひと時でも、不安を取り除いてあげたい。
そう思った私は、ルナに向かって、膝をぱんぱんと叩いて示した。
「こっち、おいで。ルナ」
「え、何…?」
「このままだと、ルナも倒れてしまうわ。どうか、交代の間だけでも、安心して眠って。私が寝付けるように、何か歌、歌ってあげる」
私の提案に、ルナは最初、恥ずかしがって、それを拒んだ。
しかし、私が繰り返して、促すと、ルナは、ソファーの上にゴロンと横たわると、私の両膝の上に、素直に頭を乗せた。
出会ったばかりの頃より、長くなった白銀の髪がさらりと、私の膝の上に流れ落ちる。
その、繊細な手触りの銀髪を、指先で梳きながら、私は歌い始める。
今度は日本語で。
春の訪れを告げる、降りしきる花の中、喜び、踊る子供達の歌を。
ルナも、私やマリコさんと過ごすうちに、日本語の響きに、いくらか耳が慣れたようだ。
「それ…ニッポン語だよね?エルマがよく聞きたがる、あの、春の歌…。スミレ、ニッポン語に訳してたんだ」
私は、歌うのを一旦止めて、頷く。
「うん。ルナに、白狼族にも、昔は桜みたいな花があって、それを歌った歌があるって、聞いてから、どんな歌か調べて、自分なりに和訳していたの。この歌は、きっと、日本の人にも伝わるものがあるって、そう思ったから」
日本語に置き換えられた、白狼族の春の歌。
異国にかつて咲いていた、今は、歌の世界の中だけにしか咲かない、桜にそっくりな花の歌。
母国の言葉で歌う、その歌は、より、鮮明さを増して、歌う私自身の中にも、うららかな春の景色を思い浮かべさせた。
私は、再び、歌い始める。
すると、私の膝に頭を乗せていたルナの瞼が、色素の薄い瞳の上を、徐々に覆い始めた。
「不思議…。スミレの歌ってるのを聞いてると…、ニッポン語なのに、すんなりと頭に入ってきて…、春の優しい景色とか、温かい光が、目の前に降りてくるみたい…」
そう言って、程なくして、ルナはすやすやと寝息を立て始めた。
その横顔から、少しだけ、不安の色が薄れているのを見て、私は、彼女を起こさない程度の声量で、歌い続ける。
今だけでも、ルナを覆うものが、不安でも恐怖でもなく、春の、柔らかく、温かい日差しである事を願って。
うららかな春の日。花が舞う中で、春の訪れを喜び、舞い遊ぶ子供達‐。
その様子を優しい旋律に乗せて歌う、この歌を歌っているうちに、私は、記憶の中の一場面が、蘇ってきた。
それは、どうして、今まで忘れていたのだろうと思う、尊い思い出。
桜の下で、飛んだり跳ねたりして、春が来たのを喜んでいる、ヤエの姿が浮かんでくる。
その髪に、桜の花びらを2、3枚つけて。
私は歌い、ヤエははしゃいで、滅茶苦茶な踊りを踊っていた。
遠い昔の、花見の記憶だ。
記憶の一場面は、続いていく。
そうして、姉妹で仲睦まじく、桜の下で歌い、踊っている様を、立ち止まって、見ている少女の姿が見えた。
その少女に、私は、声をかけたと思う。
「貴女も、一緒に歌わない?」
と。
すると、その少女は、最初、恥ずかしがり、尻込みしたものの、こちらに来てくれたと思う。
歳を尋ねれば、彼女は、ヤエと同い年だった。
彼女は、ヤエの隣に座って、しばらく、何やら顔を赤くしていたが、こんな事をヤエに言った。
「春の妖精を見たようだった」
とか、そんな感じの言葉だったように思う。
春の妖精…。
今、思い返してみても、それは、あの日のヤエの様子を言い表すのに、これ以上ない程に、的確な言葉だったように感じる。
春が訪れた喜びを全身全霊で表現するように、素足が汚れるのも構わずに、飛んだり跳ねたりして、花の雲海の合間から差す、零れ日に照らされた、桜の下のヤエ。
少し上気して、朱が差した頬で、桜吹雪の中で、笑うヤエを、春の妖精と呼んだ。そして、ヤエの隣で、ヤエの事を、じっと見つめていた、あの時の少女の名前は…。
静まり返った、店の中。
歌いながら、私も、少しうとうととし始めた矢先の事だった。
店の戸が、コンコンと叩かれる音が鳴った。
その音で私は身じろぎして、目を覚ます。
「誰か来た?」
私の膝の上で、寝息を立てていたルナも、瞼を開けて、体を起こして、扉の方を見る。
マリコさんへのお客さんだろうか。
そう思って、店の玄関の戸へと近づいていくと、戸の向こうから、声がした。
「スミレ、いるかしら?私よ、チハヤよ」
尋ねてきたのは、チハヤだった。
「チハヤ…⁉」
その声に、私は思わず身を硬くした。
あの、ナイトコンサートの日。
ルナの前で過去を暴露された事を思い出す。
チハヤが来た事を伝えると、ルナは表情を曇らせた。
「あんな奴に会う必要ない!今のスミレの事、何にも知らないくせに…酷い事ばかり言ってさ。スミレの妹の親友だか何か知らないけど、スミレの事を、あんな風に言う奴と話してほしくないよ」
ルナは、その口調に怒りを滲ませる。
確かに彼女からすれば、チハヤは、単なる嫌な奴にしか見えなかったかもしれない。
けれど、私は、ヤエとも、それに私とも仲が良くて、共に故郷の村で歌い、遊んでいた頃のチハヤを知っている。
だから、今のチハヤがあんな風な態度で、私に敵意を向けてくるのも、必ず、何か、チハヤの方にも隠している事があるのだと、私は考えていた。
その考えをルナに伝えるが、ルナは首を横に振った。
「スミレへの恨みで、頭がいっぱいのあの子と話しても、この前みたいにまた傷つけられるだけかもしれないよ?」
「それでも、私は、あの子と、向き合わないといけない。きっと、チハヤがあんなに私を恨んで、執着するのも、何か理由があっての事だと思うの。それすらも分からないままで、チハヤと喧嘩別れはしたくない。ヤエが亡くなる前までは、あんな子じゃなかったのを、私は知ってるから。ヤエの事で、きっとまだ、何か、あの子は私に隠してる。それを、私は知りたいの」
私がそう言うと、ルナは、顔をしかめながら
「…もし、あいつが、スミレに向かって酷い事をまた言ったら、その時はあいつの事、張り倒してやるから」
と言って、チハヤを店の中に入れる事を許してくれた。
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