私は誰も救えない ③
視点:スミレ
天国から地獄へ叩き落とされた、という表現が、今よりぴったりな時は、今後の人生でもきっと訪れないだろう…。
そう確信出来るような一日だった。
チハヤの暴露。
そして、それを認める私の言葉を聞いて、ルナがどう反応するか、見るのも恐ろしかった。
私は、理由はどうあれ、自分が、過去から楽になりたい為に、苦しい境遇にいたルナとエルマを利用した。
その事実を知られた今、もう、善人面をしながら、二人の傍にいる事は出来ない。
その思いをマリコさんに告げて、店から出ようとしたら、呼び止められ
「スミレちゃんが気に病む事ないわ!チハヤって子は、貴女を逆恨みしているだけよ」
と、マリコさんは言ってくれたが、私の心は晴れる事はなかった。
チハヤが、癒える事なく抱き続けてきた、怒りも、憎しみも、私には理解出来たから。
ヤエが病に臥せていた時、私が勇気を持って、チハヤにも本当の事を伝えて、死の間際にも立ち会わせてあげられたら…。
悔いを少なく出来るよう、お別れの時間を作ってあげられたら。
きっと、チハヤは消えない怒りを、あそこまで私に抱く事はなかっただろう。
「誰も悪い事はしてない…。ルナもエルマも、チハヤも。悪い事をしたのは、私だけだ…」
そんな独り言が、口から零れ落ちる。
夜更けから、ぽつぽつと降り始めた、冷たい秋雨の中を、日本人街の一角の、私の家へと帰った。
その翌日。
早くから工場勤務に向かう父にお弁当を持たせて、見送った
「昨日は、ナイトコンサートに行けなくて済まなかったな…。お前の歌の良さは、きっとこの街の人達にも伝わっていると信じてるよ」
玄関で靴を履く時、父はぽつりと、私にそう言った。
私の顔を見て、褒めるのは気恥ずかしかったのか、私に背を向けたままで。
しかし、チハヤが来て、あのような出来事が起きてしまった今になっては、父が、あの場に来ていなかったのは、不幸中の幸いと思う。
私の歌を褒めてくれたのに、その朝の私は、何も言葉を父に返せなかった。
父が工場へ出て行った後は、私は一人、ぼんやりと、静まり返った部屋に寝転がり、天井を見つめていた。
マリコさんのお店に、仕事に出る気力が、湧いてこない。
私の過去や、隠していた思いの全てを知った、ルナの反応を見る事が怖くて、私の足は竦んでいた。
彼女と顔を合わせるのが怖い。
この異国に移住してから、手にしたもの。
その全てが、掬い上げた砂が指の隙間から零れていくように、呆気なく私の手から失われてしまったように感じられた。
ルナが隣にいない時間が、こんなに虚無なものに感じられるとは思いもしなかった。
思えば、ルナと出会ってからというもの。
ルナが私の隣にいる事は、私の日常風景として、ごく当たり前のものとなっていた。
それはもう、ルナが私の隣にいなかった頃、私はどうやって、日々を過ごしていたのかを、思い出せなくなってしまったくらいに。
そして、ルナが隣にいない日常というものを、想像も出来なくなってしまったくらいに。
ルナとエルマに対して、してきた事が、私自身が過去の呪縛から楽になりたい為の、偽善であると、暴かれた今、私が、二人の傍にいる事など、もう出来ないけれど。
死に向かって歩を進めていく、エルマの姿を、直視する気力も、私には残っていなかった。
ヤエに、容姿が酷似していたというだけで、エルマに、ヤエの姿を勝手に重ね合わせるのは間違っている。
それくらい、理屈の上では私も分かっている。
しかし、理屈と感情は連動しては動けない。
病に臥せたエルマの姿を見ていた時、私は、はっきりと、5年前のあの、悪夢の日々-、地方病に倒れ、日に日に弱っていくばかりのヤエを、ただ傍で見ている事しか出来なかった、あの苦悶に満ちた日々を、はっきりと思い出していた。
この異国に移住して5年間。その暮らしの中で少しずつ、薄れてきつつあった、あの日々の記憶に、再び、頭から放り込まれたように、ありありと。
天は、私にヤエを失うまでに味わった、あの苦痛を、私に再体験させようというのだろうか。
辛い過去から逃れようとした、その天罰として。
一人過ごす部屋の中、思考は果てしなく、暗い穴の底へと落ちていく。
這い上がろうと、手を伸ばしてもがいても、掴んだ土はぼろぼろと崩れていき、私は更に下へと落とされる。
それはまるで、蟻地獄の罠に嵌ったかのようだった。
こんな気持ちに耐えられず、私は、布団から起き上がり、閉ざされたカーテンを開いた。
窓から差し込む光で、立ち眩みを起こしかける。
窓の外の、思いがけないくらいの日の高さに、時間が過ぎる速さを知る。
夜更けの露は、気まぐれな通り雨で終わったようで、外は再び晴れてきたらしい。
「ルナ…、ごめんなさい。一緒に歌っていこうって約束したのに…」
私は木製の窓枠を握りしめる。
結果的には、ルナとの約束もこうして、一方的に破るような事をしてしまった。
その申し訳なさも、私の胸を貫いていた。
しかし、私の本性を知られてしまった今、私には、ルナの隣で歌う資格など、もう…。
エルマは、かつてのヤエと同じように病に倒れた。
ルナに、一緒に歌を歌おうと約束したにも関わらず、こんな、逃げ出すような形で、その約束にも背いてしまった。
「私なんかが、ルナとエルマ。あの二人の姉妹を助けられると考えたのが、そもそもの思い上がりだったんだわ…。結局、私には…、誰も救えない」
部屋で一人、そう、呟いた時だった。
玄関の呼鈴が、リンリンと揺らされ、鳴る音が、家の中の静けさを破って、響いた。
私は驚き、部屋から出て、三和土(たたき)の向こう。玄関の方に目を遣る。
私の家を誰かが訪ねてくる事は滅多にない。
新聞屋さんか、或いは郵便配達か電報局の人くらいだ。
私がしばらく様子見をしていると、今度は、トントンと、引き戸が小刻みに叩かれた。
すっかり聞き慣れた、よく通る声が引き戸の向こうから聞こえた。
「スミレちゃん、いる⁉マリコだけど。もしいたら、返事をして頂戴!」
「マリコさん…?」
まさかの来客に、私は、目を丸くした。
私は、引き戸の方へ駆け寄って、急ぎ、戸を開けた。
「粗茶しか出せませんが…どうぞ」
普段、私や父が食事をとる時に使う卓袱台を、畳の上に置いて、緑茶を振る舞う。
社交場などで、高級な紅茶なども多く口にしているだろう彼女を、我が家の粗茶で持て成すのは気が引けたが。
マリコさんを迎え入れた時の、戸の外から吹き込んだ風の冷たさで、気候が冷え込み始めたのを知る。
マリコさんは着物の上に、長い羽織を着込んでいた。
最初、欠勤した私を叱りに来たのだと思っていた。
しかし、マリコさんの表情に、叱責の意思は感じられず、私の様子を案じていた。
「マリコさん。…エルマちゃんの具合は今、どうなってますか?」
湯飲みから一口、緑茶を飲んで、喉を潤した後、私は、一番に気になっていた事を、マリコさんに尋ねる。
「…あの子なら、明け方近くに目を覚ましたわ。熱は、一時的に下がったみたいで、話せるようにもなってる。ただ…目が覚めてからは、痛がってるわ。体の細胞が、少しずつ壊死してしまっているから。また、お医者様に来て頂いて、痛みを和らげる注射をしてもらうわ」
膝の上で、手を握りしめる。
そんな辛い場所に、私は、ルナとエルマを二人だけにしてしまった。
私は、あの二人の姉妹を助けると、心に決めた筈なのに、何をしているのだろう…。
「今、ルナはどうしていますか…?エルマちゃんが、あんな事になってしまって…、大丈夫なんですか?」
ルナが、今の状況で、大丈夫な筈がないのに、他に上手い言い回しも思いつかず、そんな問いを口にする。
「ルナちゃんは、もう、昨日からエルマちゃんに付きっ切りよ。一睡もせずにね。 『目を離している間に、エルマが死んでしまっていたらどうしよう』って、そればかり口にして…。でも、あの子は、スミレちゃんの事も気にかけていたわ」
「私の事を…?」
「ええ。昨日、スミレちゃんが店を出て行った後の話ね…。ずっとルナちゃん、エルマちゃんの傍から離れないものだから、私が交代で付いておくからって言いにいったら…、スミレちゃんの名前を呼んで、それはもう、見た事もないくらいに、落ち込んでいたわ」
私は、息を呑む。
気丈に振る舞っていて、強い心の持ち主とばかり思っていたルナが?
しかも、私の名を口にしながら…。
「こう言っていたわ。『スミレは、もうここに帰ってこないかもしれない。あたしが歌える場所は、スミレの隣だけなのに…』って。スミレちゃんがいない事で、ルナちゃんは、今、とても心細い思いをしてる」
私と同じ事を、ルナも思ってくれていたのか…。
しかし、それを喜ぶ資格が、私にあるのだろうか。
チハヤが見破った通り、いくら善人面をしようと、自分が救われたい為に、私は、あの姉妹を利用したのだから。
私は首を振って、力なく答える。
「私は、ルナとエルマちゃん…、あの姉妹の傍にいてはいけない人間なんです。そんな資格はない。こうして、全てを知られた今となっては…」
マリコさんが、わざわざ、私の家まで訪ねてきた理由も、話の流れから察しがついた。
私に、ルナの隣へと戻って、彼女を一人にしないように、諭しに来たのだろう。
「やはり、気にしてるの…?あの、チハヤっていう子に言われた事を」
「チハヤちゃんに言われた事は、気にするなって、いくら言われても無理です。チハヤちゃんが言った事は、嘘は一つもない、事実なんですから。私は、エルマちゃんにヤエの面影を重ねて、ルナとエルマの二人を利用しようとしていた。それは、本当だから。ヤエに何もしてあげられず、チハヤちゃんにも、あの子を安心させる為だけに事実を隠して、ずっと嘘を言っていた。そんな過去の罪滅ぼしをして、楽になりたいっていう、身勝手な願いの為に」
しかし、私の並べた言葉に、マリコさんは、納得はしていない様子だ。
私の瞳を、その青の瞳でじっと、見つめてくる。
私の、心の内までも見ようとするように。
彼女の唇が開く。
「スミレちゃんは…、本当に、ルナちゃん、エルマちゃんと関わってきた中で、二人を利用しようという気持ちしかなかった?それ以外の気持ちは、スミレちゃんの中に、何も生まれなかった?」
マリコさんの問いかけに、私は、ルナ、エルマと出会ってからの日々を振り返ってみる。
夜空の星々が見守る公園で、ルナの歌声を初めて耳にして、彼女が歌う、歌の世界に引き込まれた。
そして、ルナと歌を共に歌う事にして、私達の歌を、エルマは、たった一人の、初めての観客として、ずっと、聞いてくれていた。
エルマが見ていて、無邪気な笑顔で、飛び切りの拍手をいつもくれたから、私とルナは、歌い続けてこられた。
ルナの歌声を一番近くで聞き、二人で歌の世界を作り出せる、ルナの隣が、私の、最も、喜びを感じられる居場所になった。
ルナの歌声と、エルマの笑顔がある場所が、私にとっては、一番の尊い、大事な世界になった。
その日々に、打算的な気持ちしか、最初から最後までなかったかと言われたら、それは、違う。
その問いに、私ははっきりと、首を横に振った。
「…利用しようという、気持ちだけ、じゃないです…」
しばらくの沈黙の後、私は口を開く。
「その気持ちもずっと、心の中にあったのは否定出来ません…。だけど、それだけの気持ちだったなら…、ルナにもエルマちゃんにも、他に、何の感情もなかったら、私は、ルナが今どうしてるかを聞いて、こんなに胸が痛くはならない。エルマちゃんがこんな事になってしまって、ルナはそれでもあの子の病と向き合ってるのに、私は、変わっていくエルマちゃんの姿を見るのが怖くて、逃げてしまった…」
ルナの隣にいると言ったのに、自分は、彼女を置き去りにするような事をして、泣かせて…。
私は何をしているのか。
エルマの運命が抗えぬものであっても、それにルナ一人ではなく、私も一緒に向き合おう。
ルナとの約束を果たす為に。
「エルマちゃんの病に向き合うのは、辛いです…。ヤエが亡くなった時の悪夢を、再び見ているみたいで。だけど、姉であるルナはもっと辛いに違いない。私は、ルナの隣で、エルマちゃんの病と向き合ってみます。二人でなら、奇跡だって起きるかもしれないって信じて。」
マリコさんと話していくうちに、私は、見失いかけていた、自分の気持ちを、整理出来た。
昔からこうだった。
悩んでいる時に、マリコさんと話すと、いつもこうなる。
気持ちがぐちゃぐちゃになって、自分がどうすればいいのか、何も分からなくて、一歩も進めなくなってしまった時。
彼女は、私に、気持ちを整理させる、きっかけとなる言葉をくれた。
この人には、叶いそうにない。
「ルナちゃんのところに行ってあげて」
マリコさんの言葉に、私は頷く。
ルナに、過去を知られた事で動揺してしまって…、私は一方的に、ルナを遠ざけてしまった。
今、ルナに私が、何より先にすべき事は、ただ、傍にいてあげる事。
それだけだった筈なのに。
『待ってて、ルナ。今すぐ、行くからね』
靴を履いて、マリコさんと共に玄関を出る。
非力でも、何の術も持たなくてもいい。
私は、今、すべき事をやるだけだ。
‐その先で、どれ程、絶望に打ちのめされると分かっていても。
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