私は誰も救えない ②

 視点:ルナ

 マリコさんの営む、日本人街の酒場の二階。

 あたしとエルマが間借りさせてもらっている和室。

 

 エルマの往診を終えた、恰幅の良い年配の男の医者が、襖を引いて、部屋の中へ、「どうぞ」と、あたしとスミレの二人を招き入れた。

 往診に立ち会っていたマリコさんの表情は…、既にある程度の話を医者から聞かされた後なのか、とても険しかった。

 畳に敷かれた布団の上。氷嚢を頭の上に乗せられて、エルマは目を閉じている。


 祈るような思いで待っていた私達に、医者は次のように告げた。

「結論からお話しますと、エルマさんは、片耳病の悪化による発熱で、間違いないでしょう…。診察で、背中の方に、細胞組織の壊死による、この病が進行した時特有の、斑点の出現を認めます。片耳病の悪性の病型で、身体組織の壊死がこれから、全身に広まっていくと考えられます」

 

 市内で唯一、種族の分け隔てなく、白狼族の病気に対しても、診断や治療を施してくれる慈善病院。

 そこから、夜中にも関わらず、往診で来てくれた医者は、エルマの診察を終えてから、あたしとスミレにそう言った。

 

 ここ最近、エルマの微熱が続いていた事。あれはやはり、ただの風邪や、体調不良などではなかった。

 白狼族の中で、伝承として語り継がれてきた、「片耳病」の末路。

 「大人になるのは二人に一人。幼いうちに熱を出した者は、斑点に覆われ、必ず死ぬ」と、聞かされてきた。

 それ程に、「片耳病」を背負って生まれた、子供の白狼が熱に倒れるのは、暗く悲惨な最期の、その最初の兆しとして恐れられていた。

 エルマが、どうか「大人になれない方の、二人に一人」にだけは含まれないでいてほしいと、あたしは、ずっと祈り続けてきたのに…。

 

 犬歯を唇に突き立て、噛み締めた。

 この不条理に対する感情を、何処に遣ったらいいのか。


 横で、青白い顔色をして、エルマの容態を聞いていたスミレが、おもむろに口を開き、医者に、縋るようにして尋ねた。

 「先生。治療をすれば、エルマは、回復しますよね…?この国の医学は進んでいると聞いています。この国の医学の力なら、エルマの、片耳病の進行も…」

 しかし、スミレの言葉に対して、医者は、大変に難しい表情をして、こう述べた。

 「それは、人間の病気に対してのみの話です。白狼族の病気に対しては、『人間ではない種族の病気』だから、医学では、『優先すべき事柄ではない』として、研究もろくにされていないのが現状です…。白狼族も、同じ国民として、表面的には扱っているのに。ですから、我々の病院も、白狼族の先天疾患である、この病気に対しては、少しでも苦しみを取り除く、対症療法しか、出来る事はないのです」

 「…そんな…」

 スミレが悲痛な声を漏らした。

 彼女が縋ろうとした、僅かな希望も、敢え無く摘み取られてしまった。

 そうだ。

 本来、あたし達のような白狼族は、こうして人間の医者に診てもらう事も難しい。  この国の政府に、建前では「国民」として扱われているだけで、「人間ではない種族」である事は変わらないのだから。

 いくつかの街の慈善病院だけが、人道的精神から、人間、白狼族の、種族の区別なく診てくれている。

 それ以外の病院では「白狼族お断り」と張り紙されている事も珍しくない。

 どんなに人間と同じように振る舞ってみせたところで、あたし達は結局、人間ではない種族。

 人間と対等に扱われる事はない。

 

 こうなったからには、もう、誰も、エルマの死にゆく運命を変えられはしない。

 医者は畳から立ち上がり、革の鞄を持つと、マリコさんの方を見て言った。

 「一旦、熱が引くように注射をしました。ですが、一時凌ぎにしかなりません。また、何かあったら、すぐに病院までお電話ください」

 「はい…。下までお見送りしますわ。この夜更けにお呼びだてして、申し訳ありません」

 そうして、マリコさんは、一階の方へと医者を見送りに、和室の方を出て行った。

 マリコさんは、部屋を出る間際、あたしとスミレの方を見て「エルマちゃんの事、見ていてもらえるかしら?」と、言った。

 やがて、夜の廊下に二人の足音が遠ざかっていき、部屋にはエルマ、そして、あたしとスミレだけが残った。

 

 掛布団越しに、小さく、エルマの胸は上下している。

 その小さな命を、死神が連れて行こうとしているのに、姉であるあたしには、何も出来る事はない。

 「…どうして、エルマがこんな目に遭わないといけないんだよ…。畜生…、畜生!」

 あたしは、エルマが横たわる布団の端を掴んで、呻くように言った。

 「これから、あたしとスミレ。それにエルマで、歌の世界で、幸せに生きていこうとしていたのに…。今日が、まだ、その最初の一歩だったっていうのに…!」

 初めて、舞台の上でスミレと歌を共に歌い、歓喜の瞬間を共にした。

 あの輝いていた時間は、夜空に浮かぶ星よりも遠くに行ってしまったように感じられる。

 あたしとエルマが、やっとの思いで、指先だけ触れた幸せは、目の前から、非情にも取り上げられてしまった。

 天は、そこまで、あたし達が幸せになる事を許せないのか。

 「ルナ…」

 スミレが、何か声をかけようにも、何と言えば良いのか分からず、狼狽えているのが分かった。


 「ねえ…、スミレ。あたしとエルマは、やっぱり、幸せを望んだらいけなかったのかな…?」

「え…?」

「片耳しかないからっていうだけで、集落からは村八分にされて。そんな世界からは自由になりたくて。そこに、スミレが現れて、手を引っ張ってくれたから、あたしとエルマは、これからはきっと、幸せな未来が待っているんだって、そう信じられた。だけど、現実はこうなる。片耳病が、エルマの命を奪おうとしている。結局、やっと指先が触れかけたところで、幸せは取り上げられるんだ…」

 

 口調が、自暴自棄になっていくのが自分でも分かる。

 スミレにこんな言葉を聞かせている自分がたまらなく嫌なのに、やり場のない感情は止まらずに、溢れ出してくる。

 

 「やっぱり、集落の連中が、あたしとエルマにぶつけてきた言葉は正しかったんだよ…。この病は、前世の罪の、呪い…。業病だっていう、あいつらの言葉は。だから、天罰が下ったんだ。業病人が、幸せを願ったから」

 あたしが、投げ槍になって発した言葉に、スミレは首を強く横に振って、こう言った。

 「やめてよ…、ルナ!そんな、悲しい事を言わないで…!」

 あたしに、必死に訴えかけながら、スミレの声は、震えを増していく。

 「ルナも、エルマちゃんも、呪われてなんかいない…。二人は何も悪くない。もしも…、天罰を受けなければならないような存在がいるのなら、それは、きっと私よ…」

 「スミレが…?どうして…」

 思いもよらぬ、スミレの言葉に、あたしは思わず問い返す。


 スミレはぎゅっと、膝の上で手を握ると、俯き気味になって、こう言った。

「…チハヤの話を、もう聞いてしまったでしょう?私が言えずにいた、ヤエについての話を。私はルナが思ってくれたような、立派な存在なんかじゃない。私は、ルナとエルマちゃんに、昔、救えなかった、私とヤエという姉妹を勝手に重ねて…、二人を助ける事で、何も出来なかった昔の自分の、罪滅ぼしをしたかっただけなの…。身勝手な人間なのよ、私は…」

 

 さっきの、チハヤという少女の言葉を思い出す。

 『スミレは、エルマに、自分の死んだ妹、ヤエを重ね合わせている。ルナとエルマの姉妹を助ける事で、ヤエに何も出来なかった事の、罪滅ぼしをした気になっているだけ』

 あの子は、そんな言葉をスミレにぶつけて、責めていた。

 

 「あの、チハヤって子が言っていた事は…。やっぱり本当なの?スミレ」

 あたしの問いに、スミレは頷く。

 「余すところなく、本当よ…。全部、チハヤの言う通り。私が望んでる事を、知られたら、大切なエルマを、ヤエの代用品扱いされたってルナはきっと感じてしまうでしょう?だから話せなかった。だから、私の望みはこれからもずっと、二人には秘密にしていようと思ってた。でも、そんな汚い考え、神様は許さなかったみたいね」

 

 自分の罪滅ぼしの為に、自分が救われる為に、あたしとエルマに近づき、利用した‐。

 スミレは、チハヤという子の言った事を全て認めた事になる。

 

 「ごめん…、こんな私が、ルナとエルマの近くにいたら、やっぱりいけなかったんだよね。ヤエに何も出来ず、チハヤも傷つけてしまった。だから、その罪滅ぼしで、ルナとエルマを助けて、ヤエとチハヤに許してもらおうなんて虫が良すぎる話だったわ…。私、今夜はもう帰るわ」

 スミレはよろよろと立ち上がる。

 出会ってから今日まで、こんなに顔色の悪いスミレを、見た事がなかった。

 あたしが呼び止めても「ごめん、今は一人にさせてほしいの」とだけ、言い残して、彼女は覚束ない足取りで、廊下へと出て行った。

 

 閉められた襖の方を見ながら、あたしは、力なく、こう呟く事しか出来なかった。

 「そんな…。待ってよ、スミレ…。あたしの隣で歌ってくれるって、約束したじゃない…」

 あたしは、畳の上に手をついたまま、固まっていた。

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