歓喜と絶望の時 ③
視点:スミレ
店内と、従業員用の部屋を仕切る帳の前に立ち、私とルナは、その帳の隙間から、店内をそっと覗き見る。
テーブルが並ぶ店内は、いつもにまして盛況だった。マリコさんが隣の市の日本人街にも声をかけてくれたおかげか、常連さんばかりではなく、見知らぬ顔の人もちらほらと、その中に見る事が出来た。
私は、先程、ルナに握りしめられた手をそっとさする。そこに残る、ルナの温かみを感じながら。
本番を目前にしても、ルナの隣で私が歌えば、技量で勝る彼女の、足手まといになってしまうのではないだろうかという不安は、拭えずにいた。けれど今は、ルナの言葉のおかげで私は、その不安によって、重たかった肩も、荷が下りたように軽く感じる。
歌の技量で劣っているとか、足を引っ張るのではないかなんて、考える事は最初から無意味だったのだ。
私とルナ、二人の歌声によってのみ作り出せる、歌の世界がある。その世界へお客さんを惹きこむ事だけに、今は集中すればいいと、そう思えるようになったから。
店内の一角の小ステージに並べられた、スタンドマイクの前に出て行く。
そこには着物姿のマリコさんが、グランドピアノに向かって座っている。彼女は、こちらの準備は万端と知らせるように、私とルナに目配せを送る。
前に目を向ければ、見慣れた店内のテーブル席に、この日本人街の常連さんも沢山、酒を片手に座って、私達の歌を待っていた。こんな大勢の前で歌うのは、人生でこれが初めての経験だ。鼓動は速くなる。流石にルナも、表情に緊張を隠しきれていない。
ルナは、群衆の中の、とある一点を見つめていた。
その視線を辿って行けば、私は、その先にエルマがいる事に気付く。
彼女は、椅子から足をぶらぶらさせて、その瞳を輝かせながら、私達を見つめている。
私達の歌をずっと聞いてくれて、そして褒めてくれたエルマには、今夜は今までで一番の歌を聞かせたい…。そう思うと、自分の中に力が湧いてくる感覚がした。
どれだけ大勢のお客さん達の前に立っても、私とルナがすべき事は、エルマの前で歌っていた時と変わらない。私達の歌を聞く、お客さんの頭の中にありありと、歌の世界が現れるような、そんな歌を二人で作り上げるだけだ。
ルナも、エルマと視線を合わせた後は、表情に落ち着きが戻り、彼女の瞳には、集中が戻っている。
私は、心の中に、ヤエの姿を思い描く。
彼女に向けて、伝える。
『ヤエ…、どうか、遠い世界から私達の事を見ていてね。貴女の元にも、届けられるように歌うから』
昔、私の歌を好きだと言ってくれた、あの子の元にも、届けるつもりで、今夜は、歌い上げよう。
私とルナは、後ろを振り向くと、グランドピアノに向かい、座っているマリコさんに、歌い始めの合図を送る。やがて、マリコさんの指が、白と黒の鍵盤の上を踊るように、優雅な運びで、伴奏を弾き始めた。
私とルナは、すっと一息吸うと、歌声を響かせた。
歌へと没入していくにつれ、私の頭の中には、視覚を通して伝えられる世界ではなく、音色が、歌詞が描く、歌の世界が鮮やかに構成され始める。
電球が照らす店の天井は、いつしか、夜空へ。
そして、そこには、淡く、柔らかい銀の光を地上へと落とす、星々や、月が浮かんでくる。
客席の声も次第に遠のき、そこには、ざわめきに代わって、夜風に揺れる草原が現れる。
そんな世界の真ん中で、焚火が起こされている、小さな集落が見える。その集落で眠りにつく、白狼の子供達の安らかな寝顔…。
店内のお客さん達も、すっかり静まって、私とルナが、日本語で歌う、白狼族の民謡に惹きこまれているのを、肌で感じ取れた。
きっと、歌を聞いてくれている一人、一人の頭の中にも、この白狼の子守唄が歌っている、星々が照らす草原の情景が浮かんでいる事だろう。
一曲目の歌が終わり、マリコさんのピアノの伴奏は、安らぎを覚える旋律からうって変わり、次は、感傷的であり、甘い空気も感じさせる旋律へ変わった。
私の目の前に広がる景色も、星の銀白色の光が照らす、夜の草原から、陽の光を反射して、まばゆく煌めく、さざ波が行き交う、湖の水面へと変わる。
そして、美しい湖の畔には、新緑の季節の野花が咲き乱れ、自然の花園を作り上げている。
そこを歩くのは、そんな花園に似つかわしい、美しい白狼族の二人‐。私が和訳した歌詞の通りならば、そうなる。
しかし、私の脳裏に浮かんでいたのは、またしても、花園の道を、手を繋いで歩いている、私とルナの姿だった。
この歌で歌われている、恋物語の二人になったように。
ルナの体温を、額や手の温もりによって覚えた、今となっては、その感覚は以前より、更に鮮明となって、私に迫って来る。
今日、マリコさんの化粧によって、また一段と美しさを増したルナの姿を見て、鼓動を速めた私の心臓。手や、額以外の、ルナの体にも触れてみたいという、私を襲った欲望。
それらは、私がルナへの恋心を抱いているという事を、疑いようがなく証明していた。
同じ歌を歌っているルナの瞳には、どのような世界が映っているのだろうか。
出来れば、それが、私の脳裏に浮かび上がったものと、同じ世界であってほしいと、はっきり、そう願ってしまった。
ルナとエルマ。この二人の「姉妹」を救って、幸せにしたいから、一緒にいる。その思いは、ルナという一人の白狼への、恋心へと変容していた…。
白狼族の歌の2曲が終わった時、ナイトコンサートに訪れたお客さん達は、最初、静まっていた。受け入れられなかったら、どうしよう…。そんな思いがよぎる。
ちらりと、横に視線を流す。ルナも、客席の方を見る、その横顔は、張り詰めている。
やがて、一つの、パチパチという、聞き慣れた、小さな掌を叩く拍手の音が響く。
エルマの拍手だった。
そして、彼女の拍手を皮切りにして、あちらこちらの客席から、パチパチと拍手の音が鳴り響いた。
あちらのテーブルのお客さんからも、向こうのバーカウンターのお客さんからも、私達に、惜しみない拍手が降り注いだ。
今まで聞いた事のないような、不思議な曲。だけど、感動した。
歌の世界が、目の前に広がっていくよう。あんな感覚は初めて。
そんな主旨の賛辞が、店のあちこちから向けられた。
私とルナが作った歌の世界。それはちゃんと、お客さん達の心にも伝わって、目の前にも現れた。
歌う私達と、それを聞くお客さんとの間で、一つの世界を、共有する事が出来たのだ。
何度もルナと話し合って、歌詞の和訳を書き直して、日本人の心にも伝わるように、苦心した甲斐があった。
私とルナは、お互いに顔を合わせる。ルナも、その口元に微笑を浮かべ、確かな満足を感じているようだった。
私は、スタンドマイクの前に立って、お客さんに向かい、話す。
「今日は、私達の歌を、聞きにきてくださって、ありがとうございます。これからも、私と、ここにいる白狼族の女の子、ルナは、こうして、白狼族に伝わる素晴らしい歌を、より沢山の人に届けられるように歌っていきます」
私とルナの2人で、白狼族の歌を歌い、お客さんに伝える。
その一歩を踏み出した、歓喜の瞬間-。
それで、今夜は終わる筈だった。
しかし、運命はそれを許してはくれなかった。
私は、自分に、一筋の視線が向けられているのを感じた。
それは、私とルナに向けられていた、賞賛の眼差しとは、全くの異質な視線。
敵意にも近いものを感じる、鋭利な、刃物のような視線だった…。
その、只ならぬものを感じさせる視線の源を、辿って行った時。
‐私は、息が止まった。
視線の正体が分かった時、呼吸の仕方も忘れるくらいの衝撃が、私を襲った。
「嘘…。あ、貴女…チハヤちゃん…?」
自分が立つ場所が舞台上である事も忘れ、私は、群衆の中、仁王立ちになって、こちらを睨んでいる、その少女の姿を見て、茫然となる。
私が、ヤエの死ぬ時まで、「ヤエは絶対に良くなるから。心配はいらない」と気休めや、嘘を言い続けた相手。
ヤエの一番の親友だった少女、チハヤ。
あれから5年の歳月が過ぎて、容姿は大人びたが、一瞬であの子が、チハヤと同一人物であると確信出来た。
美月家に足繁く来てくれて、ヤエと遊んでくれた、あの子。
時には、私とヤエと、チハヤの3人で、一緒に歌も歌った。
そんな彼女の顔を、忘れたり、見間違えたりする筈がない。
「スミレちゃん…?どうしたの?」
マリコさんも、私の異変に気付いたらしく、ピアノから離れ、声をかけてくるが、それも耳に入らない。
他の物の動きや音は、一切遮断されたようなのに、群衆の中で、チハヤの唇の動きだけはよく見えた。何か、彼女が呟いたらしいのが分かったが、何と言ったのかまでは見抜けなかった。
‐でも、どうしてチハヤが今になって私の前に?
疑問符が私の脳内を埋め尽くす。彼女は何を思って、私を尋ねてきたのだろう。
今夜のコンサートの為に、マリコさんが、隣の市の日本人街にも声をかけてくれたのを思い出す。
もし、チハヤがそこに住んでいたのなら、私が歌う事を知って、歌を聞く為に、わざわざ来てくれた事になる。
ヤエとの死別の後、日本では、弁解も、仲直りの時間もないままに、チハヤとの関係は途絶えてしまった。
そんな彼女が今夜、また私に会いに来てくれたのなら…もしや、彼女にも、仲直りをしたいという気持ちが、少しでもあるのではないか?
考えが錯綜する中、私は、こちらを見たまま、立ち尽くしていたチハヤと目が合う。
彼女は、私に気付かれたのを悟ると、顔色を変える。
急いでこちらに背を向け、客の合間を縫って、逃げるように走り出した。
「待って…チハヤちゃん!チハヤちゃんなんでしょう…⁉」
私は、衣装のドレスのままで、舞台から駆け下りる。
テーブルのお客さん達は、何が始まったのか分からずに、目を丸くしていた。
店の玄関の方へ、脇目もふらずに走っていく、チハヤへと、私は必死に追いすがる。
彼女がどういう真意でここに来てくれたのか、話がしたかったから。
チハヤが、店の正面の道にまで飛び出したところで、私は、彼女の腕を掴んだ。
「待ってよ、チハヤちゃん‼」
私が声を張り上げて、腕を引っ張ると、やっとチハヤは、足を止めた。
しかし、こちらを見ようとはせずに、顔を背けたままで黙っている。
すっかり日は落ちて、道を照らすのは街灯の灯だけで薄暗く、顔を背けているチハヤの表情を、窺い知るのは難しかった。
私は、チハヤちゃんに問いかける。
「貴女…チハヤちゃんよね?ヤエの大事な親友で、何度も、うちに遊びに来てくれたんだもの。貴女の事を、見間違える筈ない!」
彼女はまだ、黙っている。
それでも私は、言葉を続けた。
「この国に、チハヤちゃんの家も移住してきてたのね…。こうして、また会えるなんて。今日は、私達の歌を聴きにきてくれて…」
ありがとう、という言葉を口にしようとしたところで、私の言葉は突然、遮られた。
「…何、勘違いしてるの?あんた」
ぞっとする程の、冷たい一声だった。
それは、決して大声ではなかったのに、店内の喧騒とは打って変わって、静まり返っている外の夜陰に、彼女の声は沁み込むように、広がっていった。
その言葉に、昔馴染みとしての、友好な空気は微塵もなかった。
そこから読み取れる感情は、敵意だけだった。
「え…?チ、チハヤちゃん…?」
凍り付いた私に向かって、チハヤが振り向く。
その瞳には涙の膜が張り詰めている。
「まさか、5年も経ったからもう、許してもらえてるなんて、思ってないわよね!私は、偶々もらったチラシでみた、今日ここで歌う美月菫っていう女が、私の憎んでるあんたと同一人物かを、確かめにきたの。そしたら、案の定だった!まさか、こんなところで楽しそうに、白狼族の女と歌って遊んでるなんて…」
ばしんという音と共に、私の手が乱暴に払い除けられた。
その眼差しは…、5年前、故郷の村で、ヤエの亡骸を寺へと運んでいた時に、「スミレの大嘘つき」と、私を責めたあの時から変わらず、憎しみに満ちていた。
先程は、舞台上でも、流れるように歌声を発していた私の喉が、何かで塞がったように、今は一言も声が出ない。
チハヤに詰め寄られ、泣きながらなじられたあの日。彼女に、弁明の言葉すら、何も発せなかった、あの時の私に逆戻りしてしまったように。
何も言葉を返せず、棒立ちするだけの私を睨み、チハヤは、言葉を続ける。
「ヤエは、死んだのに…、自分だけは幸せになろうなんて私は、許さない!もうあんたはもうヤエの事なんか、すっかり忘れて、この店で、さっきの白狼族の女と楽しくやってるんでしょう、どうせ!!」
言葉を放つ度、チハヤの濡れた瞳が揺れて、張り詰めた涙の膜はやがて、形が崩れ、彼女の頬に零れ落ちた。
‐私がヤエの事をすっかり忘れて、楽しくやっている…?
私は、強く首を横に振って、チハヤの言葉を否定する。声を絞り出す。
「な、何を言ってるの、チハヤちゃん…!そんな事、ある訳ないじゃない…!ヤエの事を、忘れた日なんて、この国に来てからだって、一日だってない!」
しかし、チハヤは耳を貸さない。
返ってきた言葉は、私の胸を刺し貫くような、更に鋭く尖ったものだった。
「私は、あんたの人生の呪いになってやるから…。絶対に、あんたがヤエの事で、あたしを騙し続けた事を忘れられないように」
チハヤは、日本にいた5年前の頃から、何も変わっていなかった。ヤエの葬送の日に見せた、私への怒り、恨み。そうした気持ちの熱量は、少しも冷める事なく、チハヤの中でくすぶっていた。
‐もしかすると、今日、チハヤが来てくれたのは、仲直りしたいという気持ちも、少しはあるのかもしれない‐。
彼女に話しかけるまで、私が抱いていた、そんな、虫の良い思い。甘い幻想は打ち砕かれてしまった。
「どうせ、あの、一緒に歌ってた白狼族の女にも、過去の事-、特にヤエの事は隠してるんでしょう?嘘吐きで、都合の悪い事実は、隠してばかり。あんたは、私に嘘をつき続けていたあの頃から変わってない」
私が、一番、後ろめたく思っている部分を、チハヤは容赦なく刺してくる。
そうだ…。変わっていないのは、私も同じ。
チハヤに、ヤエの本当の容態を聞かせたら、彼女がどうなってしまうかが怖くて、気休めの嘘を言い続けた。
事実を隠し続けて、ヤエが亡くなった日まで明かせなかった。
今も、ヤエ、チハヤを巡る過去について、私はルナにもエルマにも話していない。過去を知られた時の二人の反応が怖かったから。
その時だった。
私の背後で、扉がバタンと開く音が鳴った。
私と同じく、ドレス姿のままで、ルナが私達の元へ駆けつけてきた。
「スミレ!急に飛び出して…、一体、何があったんだよ⁉」
そう言ったルナは、私と向かい合っている、チハヤに目を向けた。
「スミレ…、その子は誰…?」
私の暗い過去。その全てを知っている存在である、チハヤに、ルナは会ってほしくはなかった。
しかし、こうなってしまっては後の祭りだ。
私は、ルナの方を振り向けずに、背を向けたままで答える。
「ルナには、話した事なかったわね…。この子は、チハヤちゃん。私の…妹の親友よ」
「え…、スミレの、妹…?妹がいるなんて話、あたし、聞いた事…」
声色だけでも、ルナが当惑している事が伝わってくる。
私に代わるように、チハヤが、ルナの方を見て、言葉を、日本語から英語に切り替える。
「こんばんは、ルナさん。私はチハヤ。スミレとは、日本にいた頃からの昔馴染みよ。スミレから、あの子の話は聞いてないのね。なんで、スミレがそんなに必死に隠してるのか、知らないけど。代わりに私が教えてあげる。スミレはね…、妹を失ってるのよ。村を襲った疫病で。その、亡くなった妹と私は、一番の親友だった」
私の中で、何かが崩れ落ちる音がした。
絶対、知られたくない秘密を、チハヤに強制的に打ち明けられた。
ルナが、息を呑む。
「スミレに、亡くなった妹が…?そんな話は、今まで、一度も…。スミレ、どうして、今まで、あたしに話してくれなかったの?」
そう問われても、私は…、返す言葉が出なかった。
「お姉ちゃん達、どうしたの?さっきから…、ケンカしてるの?お客さん達も、心配してるよ…?」
私達の後を追うようにして、エルマが、扉を開けて、店の前に出てきてしまった。
只ならぬ様子で、店内から飛び出していった私達を見て、心配して、来てくれたのだろう。
彼女こそは、一番、チハヤに、見られたくない存在だったのに。
チハヤは、エルマの姿を見た瞬間…、激しい反応を示した。
それは、まるで幽霊でも見たかのよう、という表現がぴったりだった。
エルマを見たチハヤは、ひどく狼狽えていた。
唇をぷるぷると震わせて、彼女は、急に現れたエルマの姿を、食い入るように見つめている。
彼女の唇はしばらく、震えから、言葉を成すのに役に立たなかったが、やがて、一つの名前を、絞り出すように発した。
「ヤエ…?ヤエなの…?」
急に現れたエルマを見て、チハヤは激しく動揺している。無理もない話だ。
エルマの顔は、生前のヤエに酷似しているのだから。
私にとっての、大切なたった一人の妹であり、チハヤにとっては一番の親友であった彼女に。
きっと、街に出て、彷徨っているエルマを、初めて見つけた時の私も、あのような表情をしていたのに違いない。
懐かしさ、嬉しさ、切なさ、悲しさ…。
そんな名前の感情達を、ボウルの中ででも、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたような、表現不可能な感情に支配された、あのような表情を。
ヤエ、とうわ言のように呟きながら、チハヤは、エルマに歩み寄ろうとした。
しかし、彼女は、エルマの髪が、ヤエとは全く違う、星の淡い光を束ねたような銀白色である事。
更に、その銀髪が流れる隙間から生えている、狼の耳に似た右耳。
そうした特徴から、彼女がヤエの幽霊などではなく、白狼族である事に、気付いたらしかった。
チハヤは言った。
「驚いたわ…。まさか、故郷の村から、遠く離れたこの国に、ヤエに瓜二つの容姿の白狼族の子がいたなんてね…」
「ヤエ…?この子の名前はエルマ。あたしの、血の繋がりはないけれど、大事な家族で、妹だ。ヤエって一体、誰の事を…」
ルナがそう、チハヤに尋ねた。
「ヤエっていうのは、スミレの妹。もう5年も前に死別した…。私にとっても、大切な存在だった女の子よ。それはもう、誰よりもね…」
そして、エルマの方を指さしながら、今度は私、ルナへと、順番にチハヤは冷たい視線を送る。
「この、エルマっていう子の姿を見て分かったわ…。なんで、白狼族の姉妹に、スミレがこんなにも入れ込んでいるのか。ルナさん、だったかしら。貴女の方にも、この際、良い機会だから教えておいてあげる。きっと、そのエルマっていう子が、死んだヤエの姿にそっくりだから。スミレは、あの子に、ヤエの事を一方的に重ね合わせて感情移入したのよ。大方、スミレ、あんたは、エルマを連れたルナさんに出会った時、『この二人を助ける事で、昔、ヤエに何もしてあげられなかった、罪滅ぼしをしたい』…、そんな事でも、考えたんでしょう?違う?」
日本の、故郷の村にいた頃から、チハヤという少女の鋭く、こちらの表情や、視線の動きから、こちらの感情を全て見通すような瞳を、私は少しだけ、苦手にも感じていた。
彼女の前で、ヤエの容態について嘘を言わねばならない時、嫌ぶられないかと、背筋が冷えた事も一度や二度ではなかった。
今の彼女は、あの時以上に、頭の回転は速くなっている。
まるで、敏腕の刑事のように、彼女は観察眼と、明晰な頭脳を駆使して、私の心理を見抜いてしまった。
返す言葉もなく、立ち尽くしている私を前にして、チハヤは無情にも、私の秘密や、隠していた気持ちまで、引きずり出してしまった。
「その反応だと、図星だったみたいね、スミレ…。あんたはエルマを勝手にヤエと重ねて、あの二人を助ける事で、それと引き換えに、救われようとしたのね…。善人のふりをして、あの二人に近づいておいて、本当の理由は、ヤエに何もしてあげられなかった罪滅ぼしをした気になって、自分が楽になりたいだけ」
チハヤが畳みかけるように放った言葉は、私を打ちのめしていた。
罪滅ぼしをした気になって楽になりたいだけ‐。
そうした気持ちが、私の中に存在していた事は、否定出来なかったから。
「…そうだったの…?スミレ?私とエルマに、こんなに構ってくれたのも、全ては、ヤエっていう子への、罪滅ぼしの為に…?」
とうとう、ルナが私に、そんな問いを投げかけてきた。その瞳は、驚きに揺らいでいる。
私が、チハヤの言葉を何一つ否定出来ず、黙っている姿を見て、ルナも、チハヤが話している事を、信じない訳にはいかなくなったようだ。
‐チハヤが今夜、暴露しなければ、私はヤエの事を、果たして、ルナとエルマに教えただろうか?
二人は知らないままの方がいいと思って、私は、ヤエの事はずっと秘密にしていたかもしれない。
エルマを、ヤエの代用品にされたなんて、ルナに思われるのは絶対嫌だったから。
日本を離れ、この国に来ても、私は、不都合な事実を隠す、臆病で、嘘吐きな人間である事は、何も変われていなかった。
マリコさん。それにルナ、エルマの姉妹。
彼女らとの、新しい出会いに触れて、成長出来た気でいただけだった。
「…チハヤちゃんは、私にどうしてほしいの…?」
やっと、絞り出せた言葉は、これが精一杯だった。
「そうね…、今日、来てみて、色んな事が分かったけれど、私が言いたいのは、こんな事をしていたって、ヤエを救えなかった罪は消えないし、私を騙していた事実も消えない。私の中では、ヤエの死は、まだ過去の事にはなってないのに、あんただけが、ヤエの死を過去の事にして、幸せになるのは、許せない…。今日、歌っているスミレの姿を見た時、私は、自分の中の、その気持ちを、確信したわ。だから…、もうスミレには歌ってほしくない」
そんな事、到底受け入れられる訳がなかった。
拳を、ぎゅっと握りしめる。
チハヤの思考は絶対におかしい。
何故、そこまで私を、ヤエの死の事で憎むのか、理解しきれない部分も感じたから。
確かに、チハヤに、気休めの嘘を言って、あの子に会わせてあげられなかった事は、罪悪感を覚えている。
しかし、ここまで言われる程に、私は彼女に憎まれねばならないのか?
彼女に、私が歩き出そうとしていた未来さえ、遮断されねばならない程に…。
それだけは受け入れられないと、私が口を開こうとした時だった。
「もうやめなさい、貴女!さっきから何ですか、スミレちゃんに勝手な事ばかり言って!」
凛とした、大人の女性の声が、宵闇の帳が落ちた、店の前の道に響く。
その声に、私は、救われた心地がした。マリコさんが、店の前での、私達の騒ぎを収めに駆け付けたのだ。
いつも温和なマリコさんも、今夜ばかりは、その、普段は凪いだ海のように穏やかな青い瞳に、怒りの色を浮かべていた。
彼女は、チハヤへと厳しい視線を送る。
「スミレちゃんは、ヤエちゃんの事を、忘れてしまおうなんてしていないわ!ずっと、スミレちゃんだって、この街に来てからも苦しんでいたし、故郷の村の、悪夢にもうなされていた。それでも、この国でルナちゃん、エルマちゃんという存在に出会って、歌を歌って生きていくという夢を掴む為に、頑張って、懸命に前を向いているの!決して、過去を全部水に流して、お気楽に生きてきた訳じゃない!ヤエちゃんの事で、苦しんでるのは自分だけだなんて思わないで!」
チハヤに向かって、そう言い放つ口調には、かつてない程の怒りが籠っている。
「私は、この街にスミレちゃんが、日本から移住して来てから、今日まで、どんなに、故郷での記憶に悩まされてきたか。少なくとも貴女よりはずっと知っているわ。この街に来てからの5年、スミレちゃんとずっと関わってきたんだから。何も知らない貴女に、歌うのをやめてほしいなんて、言われる道理はないわ」
チハヤも、流石に、賢い大人であるマリコさんの前では、言葉に詰まり、「うっ…」と、苦々しい表情を浮かべる。
「ここに、大切なスミレちゃんを傷つける、貴女みたいな人は、いてほしくないわ。今日はもう帰って頂戴」
有無を言わさぬ、強い口調で、チハヤへと、畳みかけるように、マリコさんは言った。
チハヤも、マリコさん相手には、分が悪いと悟ったようで、じりじりと引き下がって、くるりと踵を返す。
「今日は、私も感情に流され過ぎた…。スミレ。また、連絡をするわ。話を、もう一度、ちゃんとしよう」
こちらを振り向く事なく、チハヤは言った。
そして、道の向こうへと歩き去っていった。
歓喜の夜で終わる筈だったのに、チハヤという思わぬ闖入者の為に、私は打ちのめされる事となった。
ルナと、エルマに、これから、どう、顔向けをすれば良いのか、私は分からない。
チハヤがあそこまで、私を憎む理由もまだ、完全には理解しきれていない。
歌の途中は、最高の気分だったのに、そこから、真っ逆さまに、暗い谷底に突き落とされた気分だ。
「さあ…、とんでもない成り行きになってしまったわね、皆。今日は一旦、もうお開きにしましょうか。お客さん達も驚かれていたし、コンサートを続けられる状況ではなくなったわ…。申し訳ないけれども」
マリコさんの言葉に従い、私は肩を落としたまま、小さなネオンサインが店名を映し出す看板が取り付けられた、店の玄関に向かって、とぼとぼと歩み出す。
ルナとエルマも、私とマリコさんに続く。
‐しかし、今夜の不幸は、まだ、これで、終わりではなかったのだ。
暗い道の上、ドサッと、地面に、何かが崩れ落ちるような音がした。
「何?今の音…?」
私は何が起きたのか、一瞬、分からなかった。
しかし、次の瞬間には、夜陰の中、ルナの声が響いた。
「エ、エルマ⁉どうしたの!しっかりして、エルマ!」
その言葉に、私とマリコさんは急いで、ルナの元へと駆け寄る。
「エルマ…、凄い熱じゃない…!どうして、早く言わなかったの…!」
ルナは、エルマの額に自分の額を当てて、顔を真っ青にしている。
一方のエルマは、顔を赤く火照らせて、ぐったりとして、ルナの膝の上で抱きかかえられていた。
「畜生…!エルマ、きっと、今日があたし達の初舞台だから、心配かけたらいけないって、必死に元気なふりしてたんだ…。あたしがもっと、エルマの体調に気を配っていたら…!」
ルナがそう言った。
エルマの姿に、故郷の村で、発熱で倒れた時のヤエの姿が重なった。
それは、村を襲っていた疫病が、ヤエの体を蝕み始めた、その最初の症状だった。私や、チハヤと歌を共に歌って、外で元気に遊ぶ子だったヤエは、その発熱から、あっという間に、寝床から自力で出る事も出来ない程に衰弱していった。
あの時に酷似した状況に、私も、心臓が乱れ打つ。
とてつもない、不吉な予感が私を襲っていた。
私も駆け寄って、エルマの額に手を当てる。
熱湯で茹でられたかのように、エルマの額は、熱を孕んでいた。
顔には苦悶の表情を浮かべている。
ルナと共に、私は必死に、エルマに声をかける。
「エルマちゃん…⁉しっかりして。ねえ、エルマちゃん‼」
しかし、今の彼女には、時折、苦しそうに呻く以外、言葉を返す気力もないようだった。
エルマが病の床に臥せたのは、ナイトコンサートが終わった、その夜からの事だった。
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