歓喜と絶望の時 ②

 視点:ルナ

 今夜のステージに立つあたしと、スミレの為に、マリコさんは、この日本人街の理髪店から、美容師を呼んでくれていた。更に、マリコさん自ら、あたし達二人に、化粧まで施してくれた。


 「さあ、目を開けてごらんなさい」

 マリコさんの言葉に従って、あたしは閉じていた瞼を開ける。

 鏡に映る自分の顔を見て、あたしは思わず目を丸くした。


 「これが、あたし…?」

 今まであたしは化粧などというものをした事がなかった。だから、普段よりも潤いを増して、瑞々しく映える唇や、仄かに朱が差して見える頬の色。そうした、鏡に映る自分の顔の、その変わりぶりにはただ、驚くばかりだった。化粧というものの力を思い知った。

 あたしの横の、鏡台の前には、化粧を施され、髪も結ったスミレが座っている。黒髪を結って編み込まれたスミレは、少し気恥ずかしそうにしていた。こうして髪をまとめると、スミレの、形の良い小顔が、更に際立って見える。

 化粧をした自分を見られる事への恥じらいからか、スミレの項がほんのりと赤く色づいている。

 あたしもスミレも二人共、お揃いの、白のドレスに身を包んでいる。白狼族の歌の神秘的な空気を損なわないように、というマリコさんの意見で、純白で無垢な白のドレスが良いだろうと、作ってくれたものだった。

 白のドレスに、マリコさんが施してくれた化粧。そのおかげで、スミレは‐普段から、綺麗な顔をしていると思っていたが‐より一層に、その美しさに華を添えられていた。

 化粧が加わった事で、スミレの中にずっと秘められていた色香が、表に引き出されたような‐、そんな印象を受けた。それでいて、その化粧は決して、本来のスミレの、容姿の良さを塗り固めてしまうような、過度な派手さなどは一切感じられない程度に抑えられている。

 あたしは、化粧の事など何も分からないけれど、マリコさんの、女性の魅力を引き出す技術が優れているのは、素人のあたしにもよく分かった。

慣れていない化粧に恥じらうスミレの姿を見て、いつになく、あたしの心がどぎまぎしているのも、表に現れた彼女の色香の為だろう。

 ずっともじもじして、黙っているのにも耐えかねたか、スミレは、あたしに顔を向けて、口を開く。

 「ど、どうかな…?ルナ?」

 「えっ?どうって…何が?」

 初めて目にするスミレの姿に、すっかり見入ってしまっていたあたしは、何を聞かれたのかも分からずに、聞き返す。

 「だから、その…、私、今まで化粧なんてした事なかったでしょう?今の私の姿、どうかな?もしかして…変な風に見える?」

 スミレは、化粧をした自分の姿がどう見えているかが気になって、あたしに感想を求めてきたのだった。

 スミレの言葉に、あたしは全力で、首を横に振った。

 「変だなんて…、そんな事ない!今日の、化粧してるスミレは…、勿論、いつものスミレも綺麗だけど、それだけじゃなくって、何ていうのかな。こう…、見ていて、どきどきしてくるような、色気を感じる。…ごめん、上手く伝えきれなくって」

 感じたままの事を伝える。化粧の力で、スミレの中から、あたしもくらくらしてしまうような色気‐、それも、本来のスミレの、清冽な空気を決してしまうような、品のなさは一切ない色気を引き出しているという事を伝えたかった。

 あたしの回答を聞いた瞬間に、スミレは、頬から首筋まで、一瞬のうちに赤に染めた。

 「色気があるなんて、今まで言われた事ないから、何か凄くこそばゆいし、恥ずかしい。それを言うなら…、今日のルナだって、普段よりも、もっと綺麗よ。私が隣でいいのかなとも、思ってしまうくらい」

 それは、スミレからの思わぬ反撃で、今度は、あたしが、顔中熱くなって、目を回しそうになる番だった。

 持って生まれた病の為に、「片耳」「業病」と貶される事は数知れなかった。けれども、「綺麗だ」とここまで真っ直ぐに、好意を添えた口調で、誰かから褒められる事は、あたしが生きてきた中で、なかったから。

 「あたしこそ、今日は、こんな綺麗なスミレの、隣に立っていいのかなって思ってるよ」

 細やかな反撃のつもりで、あたしもスミレに、そう言葉を返す。


 この店に招かれる、演奏者などの人が使う控室。そこで、そんなやり取りをしつつ、あたしとスミレは出番の時を待っていた。

 マリコさん。それに、その後ろについて、エルマも入ってくる。

 「お客さんも千客万来といったところね。隣の市の日系人コミュニティにもお願いして、チラシを配った甲斐があったわ」

 店の方を見てきたマリコさんは、満足気に、あたし達にそう言った。今日のナイトコンサートには、隣の、△△市にある日本人街からもお客さんが来ている。マリコさんが、向こうの日本人街にも顔が効いて、声をかけてくれたから、今日のあたし、そしてスミレの門出の場は実現した。


 「うわあ…、ルナお姉ちゃんに、スミレお姉ちゃん。とっても綺麗…」

 エルマは、あたしとスミレ、二人の姿を見て、感嘆の声をあげてくれた。

 「私とルナの為に、こんなに立派な、門出の場を準備して頂いて…、おまけに、髪や化粧、それに、舞台に立つ為のドレスまで用意してもらって…マリコさんには、本当にお礼をいくらしても、したりません」

 スミレは深々と、マリコさんに頭を下げて礼を言った。あたしも、スミレに倣って、マリコさんに頭を下げる。この人の存在なくしては、あたしもスミレも歌を続ける事は出来なかったに違いない。

 「お礼だとか、そんな事、気にしないで。私は、スミレちゃん、ルナちゃん。二人が歌で輝いてくれるのを見られたら、それが私にとっては、どんなお礼の品なんかよりも、報われる時なんだから」


 ‐これからが、あたしとスミレの晴れ舞台…。その最初の一歩だというのに、あたしの心の片隅には、もやもやとしたものが巣食っていた。エルマの姿を見つけた時に。

 それは、エルマの体に起きつつある、ごく小さな‐しかし、確かに進行している異変だった。

 

 エルマはまだ気付いていないが、あの子は、ここ数日、微熱が続いている。やはり、あたしの気のせいなどではなかった。

 お風呂場であの子の体を洗ってあげている時にも、病の進行の兆しである、「腐食」がないか、必死になって探した。肌の何処にも、黒い斑点がない事を確かめては、胸を撫で下ろした。

 

 片耳病を持って生まれた、白狼族の子供達は、「大人になるのは二人に一人。熱が出れば、死ぬまでひと月」と言われる。熱と共に、病の悪化で始まるのが、体の一部、一部が「腐食」で黒ずんでいき、斑点が現れる。この斑点が現れたら、誰も、死の宿命から逃れる事は出来ない。そう、伝承では語り継がれていたから。

 「大丈夫…、きっと、あの微熱もただの風邪か何かに過ぎないんだ…。だって、エルマは今日だって、あんなに元気じゃない…。これは、あたしの取り越し苦労に違いない。エルマの事を気にするあまり、スミレにまで、今日は心配をかけてしまった。もう、これ以上は、気にするのをやめよう…」

 自分に今一度、強く、言い聞かせる。エルマの事で上の空になっていては、歌に全力を出し切れない。今日、失敗すれば、あたしの手を引いてくれるスミレにも、あたし達を支えてくれるマリコさんにも顔向け出来ない。


 マリコさんが、エルマと共に、再び部屋を出て行った後、残された私達二人は、しばし、無言になった。

 こうしている間に、舞台に立つ時間は刻一刻と迫って来る。

 スミレは本番が近づくにつれ、緊張が高まるのを、抑えられないようだった。

 普段より瑞々しい唇をきゅっと横一文字に結んで、白のドレスに包まれた、細い肩も、スカートの上で品よく組まれた手も、微かに震えている。

 「緊張してる?スミレ…?」

 その、きゅっと結ばれていた唇が開き、スミレの声が漏れ出る。

 「ルナの足手まといになってしまわないだろうかって、それが一番の不安よ…。ルナの発声の仕方とか、沢山教えてもらって、練習もしたけれど、自信は十分だなんて、まだ言えない。もしも何か途中で、失敗して、ルナの足を引っ張ってしまったら…、ルナに合わせる顔がないわ」

 以前にも、同じような事をマリコさんの前で、スミレが言っていた事を思い出す。 「ルナの足を引っ張らないよう頑張る」と。

 スミレが、自分の歌唱力は劣っているから、頑張らねばならないという、強迫観念に追いかけられているのは、あたしもあの時から気付いていた。彼女はそうやって、自分を卑下して、追い込んでしまうところがある。

 だから、あの時と同じく、スミレの掌の上に、そっと自分の手を乗せる。そして、声をかける。

あたしは、口が上手いという自信は決してない。それでも、懸命に伝える。


 「スミレ…。そんな、自分を卑下するような事は言わないで。ずっと、一番近くでスミレの歌声を聞いてきた、あたしには分かるよ。スミレの歌声が素晴らしいんだって事。これは単なる気休めじゃなくって、本当だよ。今日、エルマだって、言ってたでしょう。あたしとスミレ。二人が歌う歌はすごいんだって。これから、あたし達二人で歌う歌は、もう、どちらか一人だけの持ち歌じゃない。二人の歌声が合わさって、初めて完成するんだ。スミレとあたし、どちらの歌声が優れてるか、或いは劣ってるかなんて、そんなの、問題にならない。今のあたしは、スミレの歌声を必要としている。他の誰にも、その代わりは出来ない。それ以上、大事な事が何かある?」


 上手い下手を、ここにきてもまだ、彼女に気に病むのはもう、やめてほしかった。もう、あたしの中では、スミレの手で日本語に訳されて、スミレと共に練習を重ねた歌は、二人だけの歌として完成されていた。スミレが、そこに込めてくれた、あたしを歌で輝かせたいという思いによって、出来上がった歌だ。

 もし仮に、スミレよりも歌が上手い人が現れたとしても、決して、スミレの代わりになど、なれないのだ。「スミレとあたしの、二人の歌」を共に歌う相手には絶対なり得ない。

 

「二人だけの歌…?」

「そう。だから、スミレも胸を張って、堂々と歌ってほしい。私の代わりなんて、誰もいないんだって。あたしとスミレだからこそ作れる、歌の世界を、今日のお客さん達に、思いっきり見せてあげようよ」

 彼女に、拙い言葉選びながらも、一生懸命語りかけるうち、あたしの手は、いつしか、ぎゅっと力を込めて、スミレの手を握っていた。

 「今日も本当はずっと、不安だった…。いくら練習しても、人間の私では、白狼族のルナの声量や声質には、どうしても追い付けはしない。一緒に歌った時、私のせいで、ルナの歌の魅力を下げてしまわないだろうか、って…。でも、私とルナの二人にしか作れない歌の世界があるんだよね。大事な事に、気付かせてくれてありがとう、ルナ」

 スミレは、この部屋に来てから、ずっと張り詰めていた表情を緩ませてくれた。

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