歓喜と絶望の時 ①

 視点:スミレ

 遂に、二人の歌の初お披露目の、ナイトコンサートが、マリコさんの営む酒場で催される日がやってきた。


 当日までの時間は、流れるように過ぎた。

 

 歌の練習だけでなく、ルナとエルマの部屋に夜遅くまで残って、和訳した歌詞の表現を何度も、伝わりやすいように書き直した。

 和訳した私自身が、「まだこの表現じゃ、白狼族の民謡の良さを、日本語で伝えきれていない」と納得出来ていない部分が、見つかる度に。

 ルナに、英語での解説をつけながら、白狼語から日本語に生まれ変わった、彼女達の歌の歌詞を評価してもらう。

 「うん、この言い回しなら、だいぶ元の歌詞の意味に近くなってる。歌詞として、口に出してみた時も、歌いづらくないし、前よりもっと良くなってるよ」

 歌詞の和訳担当も重大な役目である私としては、歌詞を読み終えたルナがそう言ってくれるのが、何より嬉しい。

 ルナの歌を、ここに来る日本人移民のお客さん達にも聞いてもらい、日本人にも、彼女の歌声と、白狼族の歌の、両方の素晴らしさを知ってもらう事。それは私の叶えたい目標であり、その目標に向けて、私が役立てているのなら、それに勝る喜びはないのだから。


 しかし…、本番当日の、今日でさえ、ルナの様子に違和感を私は、覚えざるを得なかった。

 その違和感は、あの、エルマの額に彼女が額を付けた途端、顔色を変えた、あの日からずっと続いていた。

 あれ以来、ルナは毎日のように、エルマの体調を気遣っている。それはもう、神経質な程に。

 エルマは、私の目では、何もおかしいところがあるようには見えなかったが…。ルナの目には、人間の私では分からない、何かの異変が映っているのだろうか?


 「ねえ、ルナ?もしかして、エルマちゃんの事で、何か心配なの?最近よく、気にかけて、具合悪くないかとか、聞いているから…」

 ルナが、エルマに何かが起きるのを、大変に恐れているのは明白だった。

 コンサートを夜に控えた、その日。ルナとエルマの部屋を訪ねた私は、彼女に尋ねてみた。

 聞かれた瞬間、ルナの瞳は大きく揺れて、彼女は動揺を隠すように顔を伏せた。

 「な、何でもないよ…、スミレ。エルマの事なら、本当に何でもないんだ。大丈夫…」

 隠し事をするのが下手らしい彼女は、普段とは似ても似つかない、あちらこちらでつかえながら、そう言葉を返した。

 この動揺の仕方だけ見ても、とても、「何もない」筈がなかった。私が

 「でも、最近、いつもエルマちゃんに熱がないか確かめたり、時には、体の方を見たりまでしてるじゃない。エルマちゃんの具合、もしかして…」

 と言った途中で、ルナは、無理やりにこの話題を打ち切った。

「エ、エルマの事は、もうスミレは心配しないでいいから!エルマは、知っての通り、元気だし、何も具合も悪くないから…。今は、スミレは、今夜の、あたしとのコンサートを成功させる事だけを考えてればいい」

 これ以上、この話には触れないで…。そうした意味も、言外に込められているのがはっきりと分かる、強い口調だった。それに、その口調には何処か、彼女自身にそう言い聞かせているような印象も感じられた。エルマには、何の心配もないと。

 ルナとエルマ。二人が間借りする、和室の壁には、画鋲で、一枚の絵が貼られている。エルマが描いてくれた、私とルナとエルマ、マリコさんの、4人で、桜の花の下、笑っている絵だ。その絵に、ルナは目を向けながら

 「歌で成功したら…、いつか必ず、スミレの故郷のニッポンに、桜を見に行くんだ。あたし達で…。必ず、エルマも連れて」

 そう呟いた。

 

 部屋の中に沈黙が立ち込める。ペタペタと足音が響く。それから程なくして、障子がガラリと引かれて、エルマが入ってきた。

 私を見つけると、彼女は破顔して、にっこり笑ってくれた。その無垢な笑顔で

 「スミレお姉ちゃん、来てたんだ!」

 と、右耳しかない狼の耳をパタパタ、忙しく動かして、私に飛びついてきた。

 在りし日のヤエに、そっくりな顔をした少女、エルマ。彼女の姿を見る度、私は、心が揺れ動く。彼女は、私に、「ヤエの事を忘れてはならない」と、神様が遣わした存在ではないかとも思えてくる。

 私にじゃれついてくる、その姿に、不吉な兆しを何も見出す事は出来なかった。‐この時までは。

 「エルマ。今日は、大事な、あたしとスミレの初めてのコンサートの日なんだから、スミレに遊んでもらう時間はないよ」

 ルナが、そう言ってエルマをたしなめる。エルマは素直に、私から体を離すと、

 「今日、お姉ちゃん達、コンサート、やるんだよね!いつも、聞かせてもらっていたけど、ルナお姉ちゃんとスミレお姉ちゃん。二人の歌う歌が、本当にすごい事、エルマは知ってるから!お客さん達が喜んでくれたら、エルマも嬉しいなあ」

 そう、私達に言ってくれた。

 

 その言葉には、ルナもにっこり微笑んだ。

 「ありがとう、エルマ。エルマは、あたしとスミレ。二人の歌をずっと聞いてくれていたからね。エルマがそう思ってくれてるなら、あたしも嬉しい。今までで一番の歌を届けるよ」

 私も、エルマに礼を言った。

 「エルマちゃんのおかげで、自信がもてたわ。初めてのコンサートだけど、きっと、成功させてみせるから、どうか見ていてね」

 エルマは笑顔で頷くと、あとは、部屋に置かれた卓袱台の上で、また、ノートの紙を広げて、マリコさんに貰った色鉛筆を手に、絵を描き始める。彼女は、私達が忙しくしている時、最近はこうして絵をよく描くようになっていた。

 「何の絵を描いてるの、エルマちゃん?」

 私が聞くと、彼女はさっとその紙を裏返してしまう。

 「まだ内緒!でも、一つだけ、どんな絵か、ヒントを上げるね…。お姉ちゃん達の歌を聞いて、イメージした事を絵にしてるの」

 とだけ答えてくれた。

 「どんな絵になるのか、楽しみね。出来たら、私にも見せてね。約束だよ?」

 「うん、約束する!」

 エルマが部屋に来てくれたおかげで、一瞬、張り詰めそうになった、私とルナの間の空気も緩んだ。胸の内で、エルマに感謝する。

 私は、ルナとエルマ。この二人の姉妹を絶対、幸せへと導かねばならない‐。エルマの無垢な笑顔を見て、かつて救えなかったヤエの顔を、そこに重ねて、その決意をもう一度思い出す。

 ‐自分の歌唱力は、ルナのそれに比べれば、きっと、今尚、対等なものとは言い難い。ルナの足を引っ張ってしまわないだろうか。そんな不安や、劣等感は、自分の体から切り離せない影のように、未だ私の背後にぴったりと貼りついて、離れないでいたが。


 この時、私は、今夜、あのような事態になるとは思ってもいなかった。歓喜の瞬間から、私を待ち受ける運命が、暗い方へと突き落とされていった。そんな夜だった。

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