二つの凶兆 ②

 視点:?

 ○○市の日系人コミュニティから、コンサートの招待が来ている‐。その知らせは、私が暮らす、この街の日本人街でも瞬く間に広がっていった。

 

 私は○○市にある、この国で一番規模の大きい日本人街に店を構える、酒場で催されるという小コンサート。それについて書かれたチラシに目を通していた。最初にその紙を手にした時は、私は特段の興味を抱いた訳ではなかった。

 さらりと目を通して、すぐに屑籠に突っ込むつもりでいたが、そうさせなかったのは、私が、そのチラシの下の方‐、当日に歌う、演者の欄に、忘れもしない名前を見つけたからだ。


 『SUMIRE MITSUKI』

 『美月菫』

 と…。


 スミレ。その名前。そして、美月という彼女の苗字。歌。

 それらが繋がった時、私は…、意識の底に封じ込めていた、地方病で壊滅した、日本の故郷の村での記憶を、表へと引きずりだされていた。

 

 『この名前はまさか、ヤエの姉の…』

 ヤエが、村を襲った地方病に倒れた時…、幼かったあの頃の私は、何度も美月家を訪ねては、「もうすぐ、必ず良くなるから…。でも、今はまだ、会わせられない」とか、そんな言葉を並べて、スミレは、私を追い払った。

 

 何度も「もうすぐ治るから」「また昔のようにチハヤちゃんとも遊べるようになるよ」…、そんな、気休めばかりを並べて、ヤエの本当の容態を教えてくれなかった。

 最期に一度だけ、ヤエの姿を見る事が出来た時、彼女は変わり果てた亡骸と化していた。もう、私の言葉は何も届かないところに、魂は旅立っていた。

あの無念は今も癒えずに、残り続けている。

 日本から海を越えて、この国に移住して早5年の歳月が過ぎても。

 更に言えば、スミレの、気休めの言葉を信じて、それに縋ろうとしてしまった、幼くて、そして愚かだった当時の自分の事も、忘れられずにいる。

 『スミレの大噓つき!』

 美月家‐スミレとヤエの家で、私は、彼女ともヤエとも何度も遊んで、一緒に歌も歌う仲だったのに。スミレに、私は最後に、特段の酷い言葉を吐いてしまった。

 

 やり場のない怒りを、スミレにぶつけた。

 私とスミレは、集団離村が決まってから一度も会う事はなかった。

 だから、私とスミレは、あの言葉を最後に縁が切れたままだ。


 『せめて、一度だけでもいい。スミレが、私をヤエに会わせてくれていたら、私は、ヤエに本当の気持ちを伝えられたのに…。彼女が死んでしまう前に』


 決して豊かではなかった、故郷の村での、厳しい生活。

 子供だろうとお構いなく、動ける者は皆、辛い野良仕事に、くたくたになるまで駆り出される、そんな毎日。

 そんな中でも、ヤエは私にとって、色が失せて、灰白色な日々の中で、彼女と関わった時間だけが、鮮やかに色づいている…。そんな存在だった。


 ヤエと出会ったのは、10年近く昔の、春の日だったと思う。

 ヤエの家‐、美月家が、村の、桜の並木道で花見をしていたところに、偶々出会った事があった。

 あの女-スミレが、彼女の両親や、ヤエと一緒に歩きながら、春の訪れを喜ぶ童謡を歌っていた。ヤエに聞かせるように。

 ヤエも、スミレの歌う童謡を一緒に、舌足らずながらも、声を上げて歌っていた。

 そして、ヤエは、ある一本の桜の木の下へ、小走りに駆け寄っていく。そして、薄桃色の花びらが舞い落ちる中で、彼女は踊り始めたのだ。

 実際には、それは舞いとは到底呼べないような、言ってしまえば滅茶苦茶な踊りだった。しかし、降りやまない花びらの中で、手を、足を、宙へと大きく投げ出して、軽やかに、小気味よく、飛んだり跳ねたりするヤエの姿に、私は、足を止めて、野良仕事の途中であるのも忘れて、すっかり見入っていた。

 

 大げさな表現かもしれないが、その時の私は、春の妖精に出会えたように思えたから。


 スミレの澄んだ歌声は、離れた場所から見ていた私の耳にもよく届いた。

 透き通っている声でありながら、不思議と、か細くも、弱くもない。

 聞く者を捉えて離さない力。健康的な色香のようなものを内に秘めている。そんな、不思議な歌声‐。あの女の歌声を始めて聞いた時、そう感じたのは覚えている。

スミレが歌い、ヤエは、春の訪れの喜びを、全身全霊で表すように飛んで、跳ねて、舞っている。そんな光景に、思わず見入っていた私に気付いたスミレは、私を手招きしてくれた。

 

 「貴女も、一緒に歌わない?」

 と。優しい目をして。

 私は、その手招きに従って、スミレとヤエの元に向かった。

 はしゃぎ過ぎて疲れたのか、桜の木の下で一休みしているヤエに、私は、先程の光景を見た事を話した。

 先程の、花の下で舞っている姿を見て、まるで春の妖精のようだったと、感じたままの気持ちを私は、ヤエに伝える。

 そうしたら、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめたものだ。その反応を、私はとても愛おしく感じた。

 ずっと、桜の木の下で舞っていた為だろう。ヤエの黒髪に、二、三枚の桜の花びらがついている。頭に花びらを乗せている事に、彼女は気付いていない。

 花びらを髪につけたまま気付かず、照れ臭そうに私に話す。そんな、ちょっと抜けているヤエが可愛らしかった。


 敢えて、そのままにして、しばらく見ていようかという気持ち。

 それと、急に私の中に湧き起った、花びらを取ってあげるのを口実にして、ヤエの髪に触れたいという気持ち。

 二つの気持ちが私の中でせめぎ合って、最終的には後者が勝った。私は、恐る恐る手を伸ばして、ヤエの髪に指を通して、花びらを落としてあげた。

 いきなり、髪に触れられたヤエは、当然ながら一瞬、驚いていたが、それでも、花びらが付いていたと私が言うと、

 「ありがとう、チハヤちゃん」

 と、微笑み返してくれた。

 薄桃色の花の雲海と、そこからひとひら、またひとひら、降りしきる花びらを背にして。

 初めて私の名前を呼んでくれた、その時のヤエの表情は、仄かに色香さえ感じさせる、そんな微笑をたたえていた。

 つい先刻は、花びらを頭につけたまま、気付かない彼女の事をちょっぴり抜けているとも感じたのに。

 ヤエの色香にあてられたように、私は、頬が熱くなる。

 「べ、別にいいわよ…お礼なんて」

 そんな言葉を適当に言って、私は、彼女から、急いで顔を逸らしたのを覚えている。


 ‐今、思えば、最初に、桜の下で舞うあの子に会った時、私の中で、ヤエへの恋心の花は、もう、その新芽を芽吹かせていたのだろう。その新芽は、美月家に足を運んではスミレとヤエの姉妹と共に歌い、きつい農村の仕事の合間にも、楽しい事を見つけて、遊んだ日々の中で、すくすくと成長していった。花開く時を待つ、蕾を付けるまで。

 その蕾は、ヤエとの死別という無惨な結末によって、遂に花開く事なく、枯死してしまったが…。


 スミレは、得意の歌声を活かして、この新大陸の国で、歌を糧にして生きていくつもりらしい。確かに、あの女の歌声の、春風のように柔らかで、清涼感を覚える歌声。その中にも、薄く漂う、健康的な色香。それが、唯一無二の声だろうという事実自体は、私も認めざるを得ない。幾度となく、彼女の歌をヤエと一緒に聞いて、時には歌った、この身としては。

 しかし、あの女は、この新天地の国で、ヤエの事はもう忘れて、自分だけ楽しく歌を歌って、幸せになろうというのか…。

 そう思うと、あの日感じた、やり場のない思いがまた、込み上げてきて、それは私の胸の中で、黒い濁流となり、渦を巻く。

 スミレへの、昔の言葉を謝りたい気持ちと、ヤエの死を過去の事として、スミレだけが幸せになっていくのを見るのが、耐え難い気持ち。その二つが、せめぎ合っている。


 今一度、スミレの所に行ってみよう。

 そこで、どんな感情が生まれるか分からない。過去の自分の言葉を、素直に謝れるかも分からない。

 それでも、会わない事には、何も始まらない。

 チラシを拳の中に握り込んだまま、私は、自分の家に戻る。

 

 部屋の隅の、小さな箪笥に隠している、こつこつと貯金していたお金を取り出し、紙幣を数える。

 この国では、日本の地方都市の平均額の、最低でも数倍に匹敵する賃金が貰えたから、貯金なら十分あった。

 汽車の料金を確かめた。スミレがいる街まで、汽車に乗るには、有色人種用の一番等級が低い、貨物車のような客車であれば、料金は安く済む。私が貯めた貯金で、旅費は十分足りる。

 私は、旅支度を整え始めた。


 ‐○○市に向かう、客車を引いた機関車が、もくもくと煙を立ち込めさせながら、駅舎へと入ってくる。機関車の車輪が軋む、金属音がホームに響く。

 これに乗った先にスミレはいる。

 私は、5年前‐、生前のヤエが私と会った最後の時、彼女と私が触れ合った場所-、自分の唇にそっと指を触れる。目を閉じて、こうして指でなぞっていると、あの日のヤエの唇の感触や、驚きのあまり、言葉を失くして立ち尽くし、私を見つめるヤエの顔‐。

 そうした記憶と、それらの記憶一つ、一つに触れる度にこみ上げる感情が、入り混じって洪水のように押し寄せてくる。

 そうしたものを、ぐっと堪えながら、私は、目の前で停車した、客車の乗車口へと足を運んだ。

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