スミレの力になりたい


 視点:ルナ

 初めて目にする、ニッポン語に訳された、白狼族の子守唄。

 頭の中に刻み付けられている、歌のメロディに、スミレが訳したその歌詞を当てはめていき、ぎこちなく口ずさむ。あたしの口に馴染んだ白狼語とは全く違う、スミレの故郷の言語。

 あたしの隣。布団の上で、スミレは既に寝息を立てているから、きっと、この子守唄は、聞こえはしないだろう。それでも、あたしは、ニッポンの言葉へと訳されたこの子守唄‐あたしとスミレが最初に会った、夜の公園を思い出させる、この歌を歌う。


 先程、あたしがこの部屋に入った時に、酷くうなされていたスミレの姿が、目に焼き付いていた。彼女のうわ言は恐らくニッポン語だったので、意味は聞き取れなかったが、何かに酷く怯えている様子なのは、あたしにも分かった。

 あたしの歌声で少しでもスミレが、悪夢にうなされずに眠れるのなら…と思い、きっと拙いであろうニッポン語の発音でも、口ずさみ続ける。その効果があったのか、スミレは、今は、安らいだ表情で寝息を立てていた。

 「スミレ…、あんたは、一体、何に怯えているの?夢の中で…?」

 彼女の口から、繰り返し、聞こえた、『ヤエ』という単語。これは、人の名前ではないか?もしそうなら、スミレとはどういった関係だったのだろうか。そして、その人の為にスミレは悪夢にうなされている?

 スミレは自分の過去を‐ニッポンの故郷で、何があったのか、詳しく話す事はなかった。自分の過去に話が飛びそうになると、いつも、やんわりとだが、彼女は、話を逸らしているのがあたしにも分かった。

 

 「あたしと、そしてエルマも、スミレには助けられて、貰ってばかりなのに、スミレは、何かに苦しんでいても、決して話そうとはしてくれない。あたしでは、あんたの助けにはなれないの…?」

 スミレは何か重大な過去を、ずっと隠しているし、悪夢として出てくる程、今も苦しんでいる。それなのに、あたしに決して明かしてはくれない。あたしは、スミレに、助けや、力として、頼りにはされていないという事なのだろうか。

 子守唄を口ずさみながら、あたしはそんな事を考える。そう思うと、自分が非力に思えてきて、気持ちが沈んでいきそうになる…。

 

 そんな時、襖の外から一声がかかった。

「スミレちゃん、ルナちゃん、お部屋にいる?スミレちゃんの具合はどうかしら?」

マリコさんの声だった。彼女もまた、ニッポンの出身だ。あたしの、あの拙い発音のニッポン語での、子守唄も聞かれていただろう。顔が熱くなる。スミレの寝る布団の 傍から立ち上がり、襖を開ける。

 マリコさんの影に隠れるようにして、エルマも心配そうにスミレの様子を伺っている。

 ここで譲り受けたニッポンの衣服‐ユカタなるものを着ている、エルマの姿もすっかり見慣れてきた。

 「スミレなら、今は、落ち着いて、眠ってます。あたしがマリコさんのお手製のレモネードを持って行った時は、悪夢で、うなされていたみたいでしたけど…」

 マリコさんは、「悪夢」という言葉を聞くと、その、海を思わせる青の瞳に…、悲しい色を浮かべた。

 「そう…。でも、今は安心した様子で眠ってるわね…。きっと、ルナちゃんの子守唄のおかげで」

 「すみません…、拙いニッポン語で…。でも、あたし達の種族にとって、大切な歌を、スミレが頑張って、日本語に訳してくれたものだから」

 「そんな事ないわ。とても綺麗な歌声だった。部屋に入ろうとしたら、ルナちゃんが小さな声で歌っているのが聞こえてきて、思わず聞き入ってしまったわ」

 そして、あたしは、白狼族の歌をスミレが日本語に訳して、一緒に、お客さんの前で歌おうと提案してくれた事。その為に、ここ最近はずっとスミレが、徹夜で、一人で白狼族の歌の翻訳をしていて、無理がたたったらしい事などをマリコさんに伝えた。

 「さっき、あたしが歌っていたのは…スミレと最初に出会った、夜の公園で、歌を聞かせてってせがまれた時に、歌った歌なんです。星々が、空から見守っているから、暗い夜でも怖くない、安心して眠りなさいっていう、あたし達の種族は、皆知ってるような子守唄…。白狼族の歌を好きになってくれたスミレが、もっと、このお店から、あたしの歌を広げたいって言って、それで日本語でも歌ってみようって提案してくれたんです」

 マリコさんは、スミレの寝顔を見つめながら

 「スミレちゃん、そんな事を…」

と言った。

 その手に、スミレが書いてくれた、日本語の訳詞の紙を持ち、彼女は見つめ始めた。

 「日本の歌謡曲を二人で歌えるようになるだけでも大変な事なのに、その上、こんな事まで…。スミレちゃん、相当に無理をしていたのね」

 訳詞の書かれた紙には、何度も消しては書き直しの課程を、繰り返した痕が見える。


 あたしは、マリコさんが来る直前に、胸の中を占めつつあった気持ちについて、話し始めていた。

 「あたしも、それに、このエルマも、こんなにしてもらって、本当にいいのかってくらい、スミレとマリコさんには助けてもらってる。だから、貰うばかりじゃなくて、あたしだって、スミレに何かを返したいし、悪夢にうなされるくらいの、辛い過去があるなら、助けになりたい。それなのに、スミレは、何かを隠していて、あたしには決して話してくれない…。あたしじゃ、スミレからは、助けにはならないって思われてるんじゃないかって、もやもやしてきちゃって…」

 スミレの方は、あたしからの助けを、期待していないのではないか、という不安をマリコさんに訴えていた。

 マリコさんは、あたしが、スミレの秘密や過去に触れる度、その、海の紺青を思わせる、ニッポン人としては珍しい碧眼に、揺らぎを見せる。それを見ると、あたしは、マリコさんは、スミレの過去について知っているのだと、思い始めた。そうでなければ、スミレの過去についての話題を出したところで、彼女の碧眼の海はあんな風に揺らぐ事なく、波風一つ立たない、凪いだ海であり続ける筈だから。

 「マリコさんは…スミレの事は、このニッポン人街に移住してきた時から、知ってるんですよね。それなら、スミレの過去も何か知ってるんじゃないですか?あたしは、それが知りたい…」

 しかし、あたしの言葉には、マリコさんは頭を振った。

 「スミレちゃんに無断で、話せるような話ではないの。それだけは、ごめんなさい」

 「どうして…」

 その答なら、マリコさんは確実に、スミレに昔、何があったのかを知っている。しかし、あたしには教えられないという。

 「ルナちゃんに、私の口からも、スミレちゃんの過去は話せないけど…ただ、貴女は誤解してるっていう事だけは教えられるわ」

 「誤解?」

 「ええ。それは、スミレちゃんがルナちゃんに、まだ、自分の過去を話していないのは、ルナちゃんが助けにならないからとか、そういう理由では決してないわ。スミレちゃんは、ルナちゃんの事は、誰よりも信じてる。そうでなければ、一緒に歌って行こうなんて、言う筈がないでしょう?こんな言い方をしたら、余計にルナちゃんを惑わせてしまうかもしれないけど…、その事について、スミレちゃんの思いを話せば、結果的には、ルナちゃんと、エルマちゃん。二人も傷つけてしまうのでないかって、それをあの子は恐れてる」

 スミレの過去。それに関連した、彼女の思い。それを正直に話すと、あたしとエルマも、傷つく事になる?その繋がりが、あたしには見えなかった。彼女の過去を連想させるものが、あたしとエルマの二人にあるというのだろうか?

 「貴女とエルマちゃん。二人を大事に思ってるからこそ、言えないのよ、スミレちゃんは」

 謎かけでもされている気分だった。

 信じていて、大事に思っている。だからこそ、話せないという、スミレの心情がまだ、あたしには分からない。

 「あたしはただ…、さっきみたいな感じでスミレが、夜な夜な、何かの悪夢にうなされていたら嫌だなって思って…。スミレが過去の悪夢に怯えずに、安心して眠りについてほしいだけ」

 マリコさんは、酷く困った顔になった。間違いなく、スミレの過去も、それを踏まえて、彼女があたしとエルマの「姉妹」を、本当はどう見ているのかも、彼女は知っているのに、話せないという。 

 だから、あたしの中にもやもやした感情は残っている。しかし、マリコさんが「スミレちゃんは、ルナちゃんの事を信じている。助けにならないなんて思ってない」と断言してくれた事だけは、少し気持ちが軽くなった思いがした。スミレを昔から見てきた、マリコさんがそう言うのなら、それはただの誤魔化しなどではないと、信じられる。

 世話になっていながら、あたしは、そう言えば、マリコさんの過去だって、よく知らない。

 スミレの話から断片的に知っている事は、スミレと旧知の仲である事。ニッポン人街に移住してきて、公用語が話せなかったスミレに、先生代わりに公用語を教えてくれた事。この街に移住してくるニッポンの人々は、彼女に沢山世話になっており、慕われている事…そんなぼんやりしたものだけだ。

 マリコさんが、スミレと同じニッポン人の筈なのに、まるで西洋人のように、金髪と碧眼の持ち主であるのか。その理由もまだあたしは知らない。

 そして、何より、マリコさんは、何故、困っている存在‐白狼族では、業病とされる「片耳病」の為に忌み嫌われ、西洋人社会からも爪弾きにあっている、あたしとエルマのような存在でも、こんなに懸命に助けようとしてくれるのか。何が彼女を突き動かしているのか、あたしはまだ分からないでいる。

 

 「…スミレが、あたしの事を信じてるっていう、マリコさんの言葉は、信じます。だって、マリコさんは、スミレがあんなに信じて、頼りにしている人だから。スミレが過去を明かせない理由はまだあたしには分からないけど、彼女が、自分の口から話してくれるようになるまで、もっと、信じてくれるようになるまで、待ってみます。マリコさんを困らせて、ごめんなさい」

 そう言った後で、あたしは、マリコさんに別の問いを投げかける。

 「あたしは、考えてみれば、マリコさんの事だって、よく知らない…。ここでこんなに良くしてもらえる理由が、今も分からない。スミレとは古い知り合いでも、スミレが連れてきたからって、得体も知れない白狼族の姉妹を住まわせてくれるなんて、普通、あり得ないと思うから…。マリコさんは人助けばかりしてるって、スミレも言ってたけど、何が、マリコさんをそうさせるんですか?」

 「それを気にしてたのね…。そうか。まだ、ルナちゃんには、話した事はなかったわね。私の昔話を」

 「昔話?」

 「ええ。ルナちゃん、私の、この瞳と、髪の色も、ずっと気になっていたでしょう?どうして、日本人の私がこんな、西洋人のような瞳と髪の色をしてるのか。それとも関係のある、昔話よ…」

 マリコさんと卓袱台を挟むようにして、座布団に腰掛け、あたしは彼女の真向いに座る。いつも柔和な笑みがよく似合う、彼女の顔に、今は沈痛な色が立ち込めていく。まだ何も口にしていないうちから、マリコさんのいう、彼女の「昔話」が決して愉快なものではない事は、すぐに感じ取れた。

 エルマもじっと正座をして、あたしの隣で、大人しく座っている。マリコさんが話し始めるのを待つように。


 ‐私はね、日本の西の島にある、Nという港町で産まれたの。そこは日本でありながら、西洋のヨーロッパ諸国の船などが沢山、貿易で出入りしていて、他にも、日本に色んな技術や学問を教えに来る西洋人の人達もいて、西洋の風を、海風の中に感じられる、そんなところだったわ。

 この、新大陸の国からも、技術者や商人が、その港町にはよくやってきて、しばらくの間、仕事で日本の異人館‐外国人用の居留地ね‐に住む人も多かった。私の日本人の母は、そこで、西洋人を相手にした商売‐ラシャメンをしていた。

 「ラシャメンって一体…?」

 聞き慣れぬ単語に、あたしは問い返す。

 ‐ああ、ごめんなさいね、ラシャメンっていうのは、西洋人の男達の、夜のお相手をする、日本人の妾(めかけ)の事よ。私の母も、あの港町でその商売をしていた…。そして、若き日の、私の父‐、この国の出身で商社員として、日本に派遣されていた彼と出会ったの。金髪が眩しく、目は、快晴で、波が凪いだ日の海のように青く、情熱をその瞳の中に秘めていたって…、亡き母は、そんな風に父を語っていたわ。

 眩しい金髪に、凪いだ海のように青い瞳とは、マリコさんも持つ、髪と瞳の色そのものだった。マリコさんが、ニッポンだけでなく、この国にも血筋を持つ人間である事を知り、驚く。

 「マリコさん…、ハーフだったんですか…」

 マリコさんは頷く。

 ‐商社員としてこの国から、日本のNに赴任した時、私の父は若さゆえに、恐れを何も知らない、真っ直ぐな青年だったわ。そこで、外国人居留地でラシャメンをして、食いつないでいた私の母を偶々買った時、彼は私の母を見初めた。やがて、個人的に私の父と母は恋仲になって…、そして私が産まれた‐。

 

 そこまで、淀みなく話していた、マリコさんが急に口を閉ざす。

 その表情に含まれるものは、切なさ、ほろ苦さ、悲しみ、憎しみなど…。そのどれか一つだけで、彼女が抱いていそうな感情を、形容する事は難しかった。様々な感情が入り乱れているのだろう。

 このニッポン人街で、困り切って、助けを必要としている人を見つければ、救いの手を差し伸べる。ニッポン人街の皆から慕われ、頼りにされている。

 そんなマリコさんの事を、どろどろとした黒い感情とは無縁の、徳の高い聖女のような人間だと、あたしは勝手に思い込んでいた。初めて触れる、彼女の黒い感情にあたしは戸惑いながらも、耳を傾ける。

 ‐でも、私の父は、母と私を国に連れて帰る事はしなかった。結局、母は、遊ばれただけだったみたいね。彼に、日本に置き去りにされた事で状況は最悪になったわ。ラシャメンは、ただでさえも「金欲しさに異人に身を売る、売国奴」と蔑まれる存在だったのに、異人との間に私を産んでしまった事で、母、そして私も迫害された。精神的に病んでしまった母は、川に身を投げてしまったわ。そして、私は、その街の、孤児院に行き倒れ寸前の状態で運び込まれた。

 だけど、その孤児院も、決して安住の地だった訳ではなかったの。私は、周りの子供達から、この髪と目の色のせいで「妖怪」「化け物」と言われて、苛めにあったわ‐。

 

 初めて聞く、マリコさんの凄惨な過去だった。あたしは、何と、言葉を返せばいいのか分からない。

 『化け物…か。見た目が違う存在へ、ぶつけられる言葉は、海の向こうの、スミレとマリコさんの故郷の国、ニッポンも一緒なんだな』

 マリコさんが孤児院でぶつけられた「化け物」という言葉。

あたしも、この国で、街に出て、仕事を探す時、行く先々で何度となく聞かされた事を思い出す。

 「獣臭い化け物が!二度とうちに尋ねてくるな!また来やがったら、ただじゃおかないからな」

 「あんたみたいな半獣の化け物と一緒に仕事なんて、ごめんだわ」

 ぴしゃりと、あたしの前で扉を閉める前に、彼ら、彼女らに浴びせられた、いくつかもの罵声があたしの頭を過ぎる。

 子供時代のマリコさんも、幼い時は、あたしと同じ言葉を浴びせられていたなんて。

 マリコさんの話は続く。

 ‐そういう訳で、孤児院に入っても、私は独りぼっちだった。そんな時に私を救ってくれた恩師の方がいたの。それが、そこの孤児院の職員さんで、私に歌を教えてくれた女の人だった。ピアノを弾くのがお上手でね。そして、私に沢山の歌と、歌う事の楽しさを教えてくれた。彼女には、感謝してもしきれないわ。いくら「化け物」扱いされて、仲間外れにされても、彼女が弾くピアノの音にあわせて、歌っていると、自由になれる気持ちがしたの。あの人が、私に「マリコちゃんは歌がお上手ね。歌手とか、歌で輝ける場所で、生きていくのを、考えてみたらどうかしら?」という言葉を、かけてくれて…、それで私は、夢を持つ事が出来た‐。

 「恩師」という、孤児院の女性について語り始めてから、マリコさんの瞳にきらきらとした輝きが戻り始めた。彼女の過去の中で、その孤児院の女性と出会えた事が、どれ程の大きな、救いとなったかが、マリコさんの表情の移り変わりを見ているだけでも、よく分かった。

 「…マリコさんが、この国に来て、ここで、お店を開いたのも、孤児院の恩師の女の人の、言葉に導かれて…っていう事ですか」

 「つまりは、そういう事ね。丁度、日本人移民を、この国が募り始めた時期に、私は日本を、この身一つで離れる事に決めた。どんなに私が、未来だけを見て進もうとしても、『ラシャメンの娘』という、私の生い立ちは消えない。日本にいる限り、過去から解き放たれる事はない私は、この国で再起するって決めたの。恩師の人に貰った夢を、胸に抱いてね。その方は、もう結構なお年だけど、今でも元気に、その日本の港町の孤児院で歌を教えてるのよ。文通してるけど、あの方の手紙には、『歌を一緒に歌うようになってから、孤児院のAくんもBちゃんも、段々と、笑顔も出るようになってきて、嬉しい』とか、そういう話がよく乗ってる。あの方は、今でも日本で、昔の私のような子を救い続けてるのよ」

 マリコさんの瞳に、ありありと浮かぶのは、その方への憧憬だった。

 彼女の話の真意は分かった。マリコさんは、彼女の背中に憧れて、その生き方を追っているのだ。

 「今も、マリコさんは、自分を救ってくれたその人に憧れていて…、その人のように、今度は、自分も、誰かを助けられる存在になりたい…、そう思ったっていう事ですね」

 「そういう事。この街では、随分と頼りにもしてもらえるようになって、お店で披露する歌の方も、お客さんに楽しんで頂けて…でも、あの方の背中はまだまだ遠いわ。あの方は、孤児達を救う事に、人生を賭しているような方なんだから。今も、あの人に国際郵便で手紙を返す時は、相談事を聞いてもらう事もしょっちゅうなんだから。人として、あの方に比べて自分は未熟だと、実感するわ」

 「マリコさんが未熟だなんて、そんな事ないです…。あたしとエルマにとって、マリコさんは本当に恩人だし、スミレも、マリコさんを心から信じているんだって、伝わってくるから。マリコさんは少なくともあたし達3人からは、もう、十分過ぎるくらい、救いになれています」

 あたしは、マリコさんに心から、礼を言う。

 マリコさんの瞳にはあたしとエルマの2人を見た時に、きっと、その姿の中に、昔の自分が映っていたのだろう。

 同じ種族からさえ、「片耳病」の為に疎まれ、西洋人達には『化け物』と呼ばれて、孤立していた、あたしとエルマの姿を、彼女は、自らの悲惨な子供時代と重ねていたに違いない。ニッポンにいるという、恩師の生き様を追っているマリコさんは、『あの方も、きっと同じようにしたに違いない』という思いで、あたし達に手を差し伸べてくれた。

 ‐それならば、マリコさんが、スミレを助けたいと思った理由は何なのだろう。そこに思いが至ると、やはり、スミレの隠している境遇が、再び気になりだす。彼女が秘めている、過去の悲しみが。

 しかし、それを知りたいと思う気持ちが、これ以上強くならないうちに蓋をする。


 スミレと出会うまで、白狼族のあたしは、移民の人々と話す機会など殆どなかったから、彼ら、彼女らがどんな思いを胸に、この国に足を踏み入れたのか、想像した事もなかった。マリコさんの話を聞いて、移民の人々の中には、辛く暗い過去に別れを告げて、新たな一歩を踏み出す為に、故郷から遥々、海を越えてこの国に来た人も沢山いるのだろう。マリコさんがそうであり、そして…恐らくはスミレも同じように。

ようやく、自分の中で区切りがついて、新天地で歩み始めた人に対して、その過去をほじくり返すような事はすべきではない。それは、やっと癒えかけていた古傷を無理やりに押し広げ、苦痛と出血を強いるのと同じだ。スミレの過去は気になるが、無理に聞き出す権利はあたしにはないし、スミレも、自分の全てをあたしに教える義務もない。


 「ルナちゃん、ごめんなさいね、長居してしまって。昔のお話は、この辺で今日はおしまい。大切なのはこれからの時間だけなんだから」

 「いいえ。あたしこそ、辛い昔の話を、沢山させてしまって、すみませんでした…。でも、マリコさんが、どうして人を助けるのか、その理由を知る事が出来て、良かったです」

 部屋の戸口の、襖の方に向かっていたマリコさんは

 「気にしないで。私も、いずれはルナちゃんにも、ちゃんと話さないといけないって思っていたから。こうして、私のお店の、新しい仲間になってくれたからにはね…。スミレちゃんの具合が良くなるまで、まだ、ゆっくりしてていいからね」

そう締めくくると、仕事に戻るようで、マリコさんは障子を引いて、出て行こうとした。

 その前に、思い出したように、一度振り向くと、こう付け加えた。

 「白狼族の民謡、折角、ルナちゃんがいるのだから、その歌声を活かしてもらって、このお店で聞いてもらうのもいいわね。二人が、それで頑張ってみたいって言うのなら、私は勿論、協力するわ」

 それは、マリコさんからの、非常に心強い言葉だった。


 「…ルナ。エルマちゃん…」

 マリコさんが出て行って、程なくしてから、あたしの後ろで、まだ、ぼんやりとした声が聞こえた。はっと、後ろへ振り向くと、掛布団を下ろして、上体を起こしたスミレがこちらを見ていた。


 「どう⁉スミレ、体調の方は良くなった…?」

 「ええ…。少し眠れたから、体は楽になったわ」

 その寝覚めの表情は、いくらか血色も良くなっている。悪夢にうなされた様子もなかった事が、あたしは嬉しかった。

 あの、拙いニッポン語で歌った子守唄でも、彼女に安らぎを与える事は出来たのだと思えたから。

 「ところで…さっき、薄っすら、マリコさんの声がしていたのだけど、何か、ルナと話してなかった?」

 「あ、うん。マリコさん、スミレの具合はどうか、気にして、見に来てくれてさ…。それで、マリコさんの事、あたしはまだ、スミレと違って詳しく知らなかったから…、色々、あの人についての話、聞かせてもらってた」

 自分が眠っていた間に、マリコさんから、昔の話を聞いていた‐。そう聞いた途端、スミレの表情に、一閃の、不安の色が走る。

 「ルナ…、マリコさんから、何か、私の…昔の事については聞かなかった?」

 その切迫した表情を見ただけでも、スミレが、本気で、自分の過去をあたしには知られたくないのだというのが伝わってきた。

 だから、あたしは、スミレの傍に近寄って、安心させるように言い聞かせる。

 「それは大丈夫。マリコさん、スミレの過去については、自分からは絶対話さないって、言っていたから。あたしは何も聞いてないよ」

 

 あたしの言葉に、「そう…」と呟き、少し安心している様子のスミレの姿に、ちくりと、胸の痛みを覚える。

 『やっぱり、スミレはまだ、自分の過去とか、秘密を、あたしと分かち合ってもいいとまでは、思えてないんだな…』

 マリコさんは、スミレが本当の事をあたしにまだ話せないのは、それによって、あたしとエルマを傷つけてしまう事にもなるから、という謎めいた事を話していた。

 しかし、例えそうだとしても…スミレが隠しているのが、どんな過去でも、あたしは受け入れるつもりでいるのに。あたしはスミレを信じていても、スミレはあたしをまだ信じ切れてはいないのか、という思いに至り、胸が痛くなる。

 その痛みについ、黙ってしまった‐。そんな時、あたしの、布団の上についていた右手が、温かいものに包まれる。

 スミレが、あたしの右手を、その両手で挟み込んでくれていた。

 「えっ…、ど、どうしたの、スミレ…?」

 急な彼女の行動に、あたしはどぎまぎしつつも尋ねる。

 「眠っている間ね、微かにだけど、貴女の歌声が、夢の中で聞こえてきたの。それも、前に夜の公園で聞かせてくれたあの歌を、今度は日本語の歌詞で。私が訳してみた、白狼族の子守唄を、傍で歌ってくれていたのね。そのおかげで、とても穏やかな夢の中で眠れた…。やっぱり、ルナの歌声は、もっと多くの人達に届けられるべきよ。あんな良い声を、私ばかり聞いてたら、勿体ない」

 そして、スミレは続けた。

 「ルナ。まずはこの、マリコさんのお店から、お客さん達の心に、白狼族の歌を届けられるように、私達二人で頑張ろうね。歌で生きていくっていう、二人の夢の、第一歩として。ルナが、白狼語の事、教えてくれたら、もっと、伝わりやすくて、良い歌詞になるように、頑張って、私が白狼族の歌を和訳するから」

 話しているうちに、目も覚めてきたようだった。あたしの手を握り、熱っぽい口調で語るスミレの瞳は、もう、未来の事だけを見ていた。

 

 あたしは、そんなスミレの瞳を見ながら、先程の胸の痛みを、胸の奥深くに仕舞い込む。スミレ自身は、もう、過去とは決別して、先に進んでいこうとしているのだ。

彼女の全てを知りたいなどという、あたしの我儘な感情の為に、その歩みを止めさせる事は出来ない。あたしは、スミレが歌っている場所で共に歌うと決めた。今からすべき事は、その決意に従って、あたしも、スミレの隣を歩いていく事だけだ。

 ‐その先で、スミレが、いつか、秘密については、自らの意思で話すも、話さないも、決めてくれればいい。

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