ルナとエルマの旅立ち ②

 視点:スミレ

 ルナ、エルマの姉妹が、マリコさんのお店に住み家を移してから、歳月が過ぎ去るのは早かった。ルナは住み込みの形で、夜、酒場の営業時間中は私と一緒に働いていた。


 私とルナは、店が閉まっている昼の間、酒場のステージで、歌の初披露に向けて、歌の上手なマリコさんに指導を受け、練習に明け暮れた。マリコさんは、店で人気の、日本から直輸入した、歌謡曲のレコードを沢山持ってきては、それを練習の教材とした。

 私とルナがこのお店で歌を歌うにあたって、どのようなところを売りとするか、最初の練習前に、マリコさんと3人で話し合った。

 マリコさんが、私、ルナに交互に目線を向けて、こう言った。

 「このお店では、日本の歌を懐かしんで、聞きに来る人が多いわ。ルナちゃんは、白狼族の持ち前の美声があるんだから、その美声で日本語の歌を歌ってみるのがいいかもしれない」

 「日本語の歌、ですか…?でも、あたしは白狼の民謡は歌えるけど、日本語は、このお店で働かせてもらい始めてから、覚え始めたばかりだし、ごく簡単な会話以外はさっぱりですよ?あたしに、日本の歌謡曲なんて歌いこなせるかな…」

 ルナは、自信はなさげだった。日本語を何も知らない彼女にとって、それは勿論、簡単な事ではなかった。

 「勿論、難しい話なのは分かってるわ。だから、貴女一人ではなくて、スミレちゃんにも一緒に、サポートも兼ねて二人で歌ってもらう形にしてみようと思うの。要は、デュオという訳ね。これは、スミレちゃんからの希望も加えた提案なんだけど」

 マリコさんの言葉に、ルナは目を丸くして、私の方を一瞥する。

「二人で歌う…?スミレとあたしで…?」

 それは、全くの予想外の提案のようだった。

 「あたしは、今まで誰かと合わせて歌った事なんてなかったし、それに、日本語だってまだまだ全然だし…、一緒に歌ったら、スミレの足を引っ張ってしまわないかが心配で」

 ルナは、白狼族の集落で暮らしていた時から、自分の歌を褒められた事が殆どないから、どうしても、自己評価が卑小になりがちだった。その癖は、中々治らない。

 「ルナ…、頼りないかもしれないけど、私の事を信じて、私と一緒に、ステージで歌ってほしい。ルナにも読めるように公用語の文字に歌詞を書き換えて、歌詞の意味も添えて書いたものを渡すから…。マリコさんの歌をよく聞いて覚えて、私に合わせてほしい。ルナは、もっと自分の歌声や、表現力に自信を持っていいの。貴女の声で歌われる、日本の歌に、きっと共感してくれるお客さん達も、現れるよ」

 私は、ルナの手を握りしめて、そう言った。そして、ルナの為に書いた、歌詞の紙を、彼女に手渡す。比較的、曲調もゆったりとして牧歌的であり、ルナも歌詞を追いやすい、流行りの日本の歌謡曲を選んだ。彼女はそれをしばらく見つめていた。自信の持てなさと、それでも、歌を歌って生きていきたいという希望の狭間で、その瞳は揺れていた。

 ‐しばしの沈黙の後、ルナはこう言った。

 「スミレの歌いたい場所で、あたしも一緒に歌うって、そう約束したからな…。あたしの歌声を好きだって、言ってくれる人の隣で、あたしも歌いたい。だから、まだ、日本語の方は自信ないけど、頑張ってみるよ」

 

 ルナは、私が添えた歌詞の説明を読みながら、何とかその意味を、自分の中に落とし込もうと四苦八苦していた。

 それでも、白狼族が歌や舞踊といった、音楽の才に恵まれた部族であるというのはやはり確かなようで、彼女はローマ字で書かれた日本語の歌詞を読み込み、マリコさんの手本の歌にも一生懸命に耳に傾けながら、懸命に、歌声の抑揚や発声の仕方を、見事な速さで習得していった。

 ただ、彼女は、「片耳病」の為に、右耳を持たない。その為、右側からの音や歌声を聞き取れず、合わせにくい事があるのも分かった。二本のマイクスタンドが並ぶステージの上。私は、ルナの必ず右側に立ち、彼女が、私の歌声を聞き取りやすいようにした。

 ルナと歌声を合わせる時は、彼女の声量に、私の声が負けないようにするのが大変だった。白狼の彼女の声量や音域に合わせるのは、人間の喉では至難の業だったから。

 しかし、マリコさんに

 「スミレちゃんは、ルナちゃんの声量に負けないようにと、声に力が入りすぎね。優しい歌声がスミレちゃんの持ち味なんだから、無理に声を張って喉を潰すより、もっと自然体で歌った方がいいわ」

 などの指導を受けながら、二人で歌を合わせる練習を重ねていった。

 

 そんな、新たな仕事と、歌の練習に明け暮れる日々の中で、私は、「どうにかして、このお店に来る、日本人街のお客さんにもルナの歌い慣れた歌…、白狼族の歌の良さを伝えたい」とも思っていた。

 私は、街の書店に出かけて、貯めたお金で、白狼族の言語。そして、白狼族の民謡を集め、歌詞を載せた本などを何冊か買った。

 それらの本を片手に、家に帰った後も、寝る時間を惜しんで、私は、とある作業に熱中していた。全ては、ルナの歌の良さを、より、多くの人に知ってもらう為に。

 

 私とルナ。二人の歌には、いつも一人の小さな観客がいてくれた。

 

 ルナと同じ、「片耳病」の為に右耳しか、狼の耳を持たない少女、エルマ。彼女は、公用語を片言で何とか話せるくらいで、日本語の意味は解さない。

けれども、彼女は、一人、椅子に座って、その曇りのない、色素の薄い瞳で、いつも、私とルナの二人を見つめていた。そして、二人が歌う、日本語の歌に、じっと聞き入っていた。

 亡き妹、ヤエの形見である浴衣を着ている彼女と、視線がぶつかる時。私はいつも、そこに、私達の歌を聞く為に、ヤエが帰ってきてくれたかのような幻覚に陥りそうになる。彼女の中に、ヤエの面影を見出して。


 その日。私は連日の、寝る時間を削ってのとある作業での疲れがたたったのか、少し足元がふらふらしていた。それでも、足元を踏ん張って、ステージに立ち、左隣で歌うルナの声に集中する。ルナは、私の顔色を見て、眉をひそめ「大丈夫、スミレ…?顔色、良くないけど…」と尋ねてくるが、私は笑みを作って「大丈夫」と返した。


 マリコさんの指が鍵盤の上で舞い始め、私達の歌声が混ざり合って、店内に響き始める。


 私の膝の上にヤエが座って、笑っていた、故郷の村の光景が頭をよぎる。

 歌も佳境に差し掛かり、熱した頭がそんな、夢物語を私に見させるのかもしれない。特に、今日は疲れもあってか、脳髄が痺れたように、何処か夢心地だ。

けれど、私にとって、エルマという白狼の少女の中に見る、ヤエの幻は、決して優しいものばかりではなかった。

 私の瞳の中だけに顕現する、ヤエの幻は、優しい姿ばかりではなかった。

 『どうして、嘘ついたの…。わたしの病気、治るって、スミレお姉ちゃん、言ってたじゃない…。お姉ちゃんの嘘吐き』

 それは、病の床に臥せて、発疹に覆われ、悶え苦しみながら、私に恨みの言葉を述べる、ヤエの姿だった。勿論、そんな事は、ヤエは一度も言った事はない。しかし、幻のヤエはこう続ける。

 『わたしは死んじゃったのに…、スミレお姉ちゃんは、わたしを忘れて、楽しくやっていくんだね』

 違う、と、歌声が乱れそうになるのを必死に堪えて、心の中で何度も打ち消す。貴女を忘れるなんて事、ある訳がないじゃない、と繰り返し、叫ぶ。しかし、エルマを介して現れる、幻の中のヤエは、終始冷たい目で私を睨み続け…、そして、闇の中に消えていく‐。


 「危ない‼」


 ‐私の右隣から、声が響く。後ろで鳴っていた、ピアノの音も止まる。

ステージの下に向かって、前のめりに倒れていきそうになっていた。それを、ルナが両手で、私の下腹を後ろから抱き止めてくれたおかげで、間一髪、私は転落を免れた。ルナが咄嗟に動いてくれなければ、ステージの下に頭から落ちるところだった。

ルナに抱き止められたまま、ステージの上で横になる。私達の後ろで、グランドピアノを奏でていたマリコさんも、血相を変えて、飛んできた。


 「どうしたの、スミレちゃん…!顔色が酷く悪いわ。何処か具合が悪いなら、休んだ方がいいわ」

 いつかとは逆の姿勢で、今は私がルナの膝の上に頭を乗せられている。彼女も、私が急病でも来したのではないか?と、不安げな表情だ。

 「ごめんね、ルナ…。それに、マリコさんも、すみません。折角、今日はいい調子で歌も揃っていたのに、私のせいで、中断させちゃって…。でも私は大丈夫だから、早く練習に…。ルナの練習を、私のせいで止める訳には…」

 うわ言のように、そう口にする私を、ルナが制した。

 「何言ってるの、スミレ!顔色もこんなに真っ青で、冷や汗もかいてるのに…。あたしの事は気にしなくていいから、二階の部屋で休もう!」

 そう言うと、ルナは、私の体をひょいと背負うと、「マリコさん、ちょっと、スミレを休ませてきます」と言って、ステージから軽やかに降りる。人間離れした身体能力も有する白狼族だけあって、こんな華奢な体格から想像出来ないくらい、ルナは力も強い。私を簡単に背負って、二階の方へ運んでいった。


「これ、飲んでって渡された。マリコさんから」

 二階の一角。ルナとエルマが間借りしている部屋の、隣の一室の和室。敷布団の上で、私は休まされた。そこに、ルナが盆を持って、襖を引いて入ってくる。盆には二つのマグカップが置かれ、レモンの香りと共に湯気が立ち昇っていた。レモンの果汁に、はちみつもたっぷりと使った飲み物だった。

 私は、上半身を起こすと、熱いマグカップを受け取り、口をつける。酸味とはちみつの甘みが一体となって、体の芯まで温められるようだった。

 「やっぱり、体調、悪かったんじゃない…。それに、さっきまで、凄くうなされてた…」

 あの、夢か現か分からない、ヤエの姿は、もうろうとした私の意識の中を、ステージでの一件の後も、現れたり、また闇の中へ消えたりを繰り返していた。

 「私…、何か、言ってた?」

 「うん…。きっと、日本語だったから意味はよく分からないけれど、『ヤエ』とか『チガウ』とか、『ユルステ』とか…、そんな風に聞こえたよ」

 ルナが、私のうわ言の意味を解さなかった事に、胸を撫で下ろす。ヤエとの過去は、ルナには知られたくはない。ルナの表情は、不安げなままだ。

 「今日だけじゃない。昨日も一昨日も、歌い始める前から、スミレの顔色悪かったし、疲れてるのが分かった…。何か、すごく無理してない?」

 「無理なんて…してないよ。私は、ルナと一緒に歌える事が嬉しいから、ルナをどうやったらもっと引き立てられるだろう、そして、私が、ルナの足手まといにならないでいられるだろうって考えて、やりたいようにやってるだけ」

 

 私は、枕元に置かれている、自分の下げ鞄に目を遣る。その中には、今日、ルナに手渡す予定のものが入っていた。

 本当は、今日の歌の練習が終わった後に、ルナに渡すつもりだったが、もう、この場で渡してしまおう。そう思い、私は、自分の鞄を引き寄せると、そこから、ノートのページを切ったものを数枚、ルナの元に手渡した。彼女は、そこに書かれた文字に目を通し…、そして、目を丸くした。白狼語の文字と、ローマ字が平行して並んでいる紙に。

 ルナは、白狼語とローマ字ならば、辛うじて読む事が出来る。彼女の亡き両親が、ルナが困らないように、読み書きだけは教えてくれていた事に感謝した。

 「これって…、白狼族の民謡の歌詞じゃない…。それで、ローマ字で書いているのは?」

 「ルナ達の民謡を、頑張って、日本語に訳してみたの。直訳だと、日本人には伝わらないから、日本語の方は、少し言い回しも変えてみて…。それを、ずぅっとやっていたら、寝る時間も殆ど無くなっちゃった。でも、頑張って、殆ど徹夜もして、何度も日本語に翻訳をし直したから、きっと、伝わりやすい訳になってると思う」

 「なんで、あたしの為にそこまで、無理を…」

 「ルナは、その歌声の綺麗さをもっと、多くの人に分かってもらって、有名になって、エルマちゃんと一緒に、幸せにならなくちゃいけないの。姉妹二人で。絶対。その為には、日本の歌もいいけど、ルナが馴染んできた、民族の歌の方がもっと、深く表現出来て、伝えられると思う。ルナとエルマが幸せになる為なら、こうやって、私は何でも手伝うわ。」

 

 私の言葉に、ルナが答える。

 「このお店で働かせてもらって、住む部屋も与えてもらって。歌まで歌わせてもらえるっていうだけでも、もう十分、いや、それ以上のものを、スミレとマリコさん。二人からはもう、貰っているのに…。あたしばっかり、なんか、スミレから与えてもらっていて、これじゃあ、スミレに悪いよ。あたしはまだ、貰ったものに報いられるようなもの、スミレに何も返せてない…」

 ルナは、私から一方的に自分ばかりが恩を受けているような気がして、そこがどうにも、彼女の中では強く引っ掛かっているようだ。

 ‐そのような事、ルナ、それにエルマの二人の姉妹は気にしなくて良いのに。

 だって、今の私の行動は全て、救えなかったヤエへの、せめてもの贖罪であり、自分が楽になる為の行動なのだから。ルナとエルマの姉妹の為と言いながら、あの二人を通して私は、自分とヤエという姉妹を見ている。エルマを通して、ヤエの幻を見ている。「片耳病」の為に部族で辛酸をなめてきた二人を救う事で、かつて救われる事のなかった自分とヤエという姉妹の代わりとし、少しでも痛みを和らげられる。二人に献身的に手を貸す事で、私は、ヤエの病に無力だった自分の、罪悪感も紛らわせる。

 でも、こんな心情をルナと、エルマの姉妹に知られる事だけは嫌だ。自己満足の罪滅ぼしの為に、二人に「善意の押し売り」をしている‐、私の醜い部分は、二人に見抜かれたくない‐。そんな、歪な思いが渦巻いている。

 それに、ルナの歌声が好きな事も、ルナの隣で歌えるのが嬉しい事もまた、真実なのだから。ルナが私の隣で歌ってくれるのならば、より、ルナには輝いてほしいというのも、本心での願いだ。

 「マリコさんは、お客さんが馴染みのある、日本の歌謡曲を中心に私達に歌ってほしいという方針だけれど、私は、白狼族であるルナだからこそ、歌える歌もやっぱり歌ってほしい。白狼の歌を、日本語で、ルナの声で、このお店に響かせてよ。白狼語が一番いいのは分かるけれど、このお店に来る日本人のお客さんに、より、白狼の歌の良さを知ってもらう為には、日本語で歌った方が絶対に届くと思う。私の訳詞が正しいかは、自信ないけど…」

 白狼語を、日本語に訳した文章を、ルナは一生懸命、目で追っている。

 「あたし達白狼の歌を、日本語に訳して歌うっていうのは、考えもしなかったな…。でも、より沢山のニッポンの人に、あたしとスミレの歌を聞いて、好きになってもらうには、確かにその方法が…」

 翻訳家でも何でもない、私などの拙い訳詞の表現力や、語彙で、白狼族の、あの神秘的な歌の世界が再現出来ているとはまだ、思っていなかった。

 でも、興行団という歌える場所からは拒絶され、このお店の他に歌える場所を持たないルナが、歌で人の心を動かすには、日本人のお客さんにも伝わる言葉-日本語に、置き換えるしかない。

 「分かった。スミレの提案、乗ってみるよ。あたしも、白狼族の歌を白狼語以外の言葉で歌うなんて初めてだから、上手くやれるかなんて分からないけれど、それでも、やってみない事には、何も始まらないからね。でも…」

 ルナは、私の提案に賛成してくれた。しかし、その途中で、言葉を一旦切ると、私の、まだ少し血色が悪い頬を、さすってくれた。

 「疲れがたたって、こんなに顔色悪くなるまで、一人でこっそり、スミレが無理して何でもやろうとするのはやめて。それも、あたしの為に…。これからは、二人で力を合わせてやろう。この、日本語の歌へと姿を変えた、白狼の歌は、もう、あたしだけの歌じゃない。スミレとあたしの二人で歌って、完成するものなんだから。白狼族の民謡を日本語に訳したいなら、あたしでも、スミレに少しなら、訳するのが難しいところは教えられるから。取り敢えず、今はまだ疲れてるみたいだから、マリコさんが入れてくれたレモネードを飲んで、もう少し休んでて」

 ルナは私にそう言うと、私が書いた、拙い訳詞の並ぶ、歌詞の紙を卓袱台の上に広げ、ペンを片手に、眺め始める。その、紙面を左から右へと流れる、長い睫毛に縁どられた真剣な彼女の眼差しを、私は横から見つめていた。私が、夜を徹して、辞書を片手に悪戦苦闘しながら、表現方法を考えて、訳した歌詞。それが、ルナの心にも響いてくれる事を願って。

 

 時折、「ここは、こんな風に言い換えた方がしっくり来るかな」とか、独り言と共に紙面の上をペンが走る。私の、日本語の文字の上に、ルナの、やや大振りで、男の子みたいな字で、ローマ字が並ぶ。

 白狼語という独特の文字と言語を、まずはこの国の公用語の、英語に置き換え、更にそこから、私の故郷の、日本の言葉へと置き換える。ルナにも読めるように、ローマ字で日本語の歌詞を書き綴る。

 その、翻訳という作業の難しさは、並大抵のものではなかった。

 白狼族の民謡を訳していく際に、私は、如何にして、ルナも大事にしているであろう、白狼族の感性を、違和感なく、日本人のお客さん達にも伝わるよう、日本語訳に落とし込むか、頭を何度も抱えた。

 日本語とは全く違う、白狼の言葉と文字の、糸で編まれた歌詞たち。それを、私は一度解きほぐして、日本語という違う色の糸で、「同じ歌詞の意味」となるように、再び編み上げなければならない。

 その過程の何処かを間違えば‐、「同じ歌詞の意味」の形にならなかったら。私が新しく編み上げた、日本語の歌詞に込められた意味は、日本人のお客さんには届かない。

 

 それは、私一人でこなすには、荷が重すぎる事だった。白狼語の知識もまだ、決して豊かな訳ではない、私には。

 それでも、ルナの歌の良さを伝えたいという気持ちに急きたてられ、私は無理をしてしまっていたようだ。ルナとエルマ。この異国で巡り合った、二人の、白狼の姉妹を幸せな未来へと導く事が、私の過去へのせめてもの罪滅ぼしになれば良いと思うあまりに。

 『ルナは、あたしの為に、スミレが一人で何でもやろうとしないで、と言ってくれたけど…、私は、そんな綺麗な人間じゃないよ、ルナ…。今、やっている事だって、その根元にあるのは結局、自分の過去への罪滅ぼしがしたいという、身勝手な気持ちなんだから…』

 ルナがくれた言葉に、私は、口に出す事なく、胸の内でだけ、そう答える。

 マリコさんが、疲れた私に、前からよく入れてくれた、温かいレモネードに、はちみつも贅沢に垂らしたものを、また口に運ぶ。柑橘の甘酸っぱさを、はちみつが包み込み、まろやかにしてくれている。

 『スミレちゃんの事、もっと聞かせてくれないかな?言えずに隠してきた事が、もしもあるなら、それも教えてほしい』

 誰にも口外した事がなかった、妹のヤエと、ヤエに、特別に強い執着を抱いていたチハヤ。あの二人と私の間で、過去に何があったかを、マリコさんに洗いざらい話したあの日も、このはちみつ入りのレモネードを飲みつつ、話をした気がする。

 今日とは違って、あの日のレモネードは、微かなしょっぱさがしたものだ。自分の過去から半ば逃げるようにして、行き着いたこの異国で、マリコさんに出会い、無理やり、心の堤防の中に封じ込めていた感情の濁流が、決壊したように、私は、あの過去をぶちまけていた。

 『どれだけ苦しくても、いっそ忘れてしまって楽になりたいと思っても、ヤエちゃんの事を忘れてしまうなんて、駄目。ヤエちゃんを、スミレちゃんが忘れてしまえば、二度、彼女の存在を消してしまう事になるんだから。一度目はこの現世から。そして、二度目は、スミレちゃんの心の中からね。』

 口の中に、ほのかに残る甘味を感じつつ、私は布団に身を預けていた。マリコさんに、学校の先生のように、この国の公用語について、教わっていた時。マリコさんに、私の身の上話を、初めてした時の事を、ぼんやりと思い出しながら。『人は、自分がいなくなった後、遺された人達がどうするかによって、二度、死んでしまう事だってある』と、そう聞かされた、あの日は忘れない。

 ‐しばらく、白狼語の辞書や民謡集を片手に、徹夜を重ねてきた、疲れが押し寄せてきて、私は、引き込まれるように眠りに落ちていった。

 

 変わり果てた姿のヤエが出てくる、悪夢にうなされる事はなかった。

 眠っている間、私が見たのは、星々の振る空の下。草原の上で、温かな毛布に包まれて、誰かに背中をそっと擦られる、そんな夢だった。

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