ルナとエルマの旅立ち ①

 視点:ルナ

 こうして、思いがけぬ流れで、あたしとエルマは、集落を離れ、日本人街の一角の、この洒落た外観の酒場に、住み込みで働く事となった。

 その前に一度だけ、白狼族の集落に戻った。こっちでの暮らしにはもう、未練などなかった。ただ、どうしても、置いていけないものがあったから。

 「父さん、母さん…、あたしとエルマはこの集落を出る。二人も、一緒に行こう」

 掘っ立て小屋のような、あたしとエルマが暮らしていた家の傍にあった、小さな土の山。

 そこをスコップで掘り出して、小さな木箱を取り出す。

 この頭に生えている狼の耳と並んで、白狼族の象徴となっている、もう一つのもの…狼の牙だ。人間にも犬歯という、似たような歯があるらしいが、白狼族のそれは、人間の物よりも鋭利である。白狼族では、亡くなった者を弔う時、牙を一本抜いて、形見として箱に収めて墓に埋める風習がある。

 二つの木箱を、大事に袋の中に仕舞う。カランという、木箱の中で牙が転がる、軽く乾いた音がした。こんな集落に、二人を置き去りには出来ない。

 あたしとエルマに、別れを惜しんで声をかけてくる白狼など、誰もいなかった。わずかばかりの荷物を背に出て行くあたし達を、皆、厄介払いが出来てせいせいしたと言わんばかりに、冷笑と侮蔑の混じった表情で見つめるばかりだ。でも、今更、彼ら、彼女らに何も期待はしていなかった。

 「行こう、エルマ…、スミレと、マリコさんのところへ」

 あたしの隣を歩く、エルマの小さな手を握りしめる。集落の方はもう、振り返る事なく、そう言った。エルマは隣で、小さく頷いた。

 ‐あの、白狼狩りの奴らに襲われ、スミレに助けられた日から、エルマは塞ぎ込み、口数も少なくなっていた。


 日本人街の片隅にある、マリコさんという人の営む、酒場で、あたしとエルマの、新しい暮らしが始まった。

 酒場の二階の和室が、あたし達の新たな生活の場となった。

 「これ…故郷から持ってきた、日本の着物だけど、エルマちゃんに、丈も丁度いいと思うの。良かったら使って。うちには、もう、着る子もいないから」

 服の変えもなくて困っていたところ、スミレが、すぐ近くにあるという自分の家から、日本のユカタという服を持ってきた。その丈は、見るからに子供用と分かるものだった。

 その、質素な藍色の生地のユカタは、エルマにも丁度良い丈だった。

 エルマも、白狼狩りから助けてもらって、日本の子守唄で寝かしつけてもらった時から、あの子は、スミレには心を許しているように感じる。スミレがくれた、ニッポンのユカタを来たエルマは、覚束ない白狼語で

 「アリガト、スミレオネエチャン」

 と、表情を柔らかくして、スミレにお礼を言っていた。

 ‐エルマを見つめる、スミレの瞳や、表情に違和感を覚えた。ニッポンのユカタを着て、微笑んだエルマを見た時、スミレは、一瞬だが、その瞳を震わせて、エルマを凝視していた。

 何か、弾けそうな思いを、自分の奥深くに必死に閉じ込めているような…、そうした空気を、スミレから感じ取ったのだ。エルマを見つめる、スミレの瞳を過ぎ去っていく色。こんな色を瞳に浮かべる人に、あたしは会った事がなかった。

 「どうした…スミレ?」

 「あ…、ごめんね。ちょっと、ぼんやりしてしまって。何でもないの…」

 あたしの声にスミレは、我に帰ったように、その顔に微笑みを呼び戻す。しかし、それは、ぎこちないものだった。彼女は、これ以上は、話を深く掘り下げられたくないというように、さっと、あたしとの間に見えない線を引く。

 

 スミレは何か、とても大切な事を隠している。そして、その秘密を話せる程の存在には、あたしはまだ、なれていないようだった。


 あたしが働く事となる、一階の酒場を、改めて、マリコさんとスミレに案内してもらった。

 バーカウンターと、テーブル席が並ぶ、開店前の店内。バーカウンターの奥には、色とりどりの洋酒が、ところせましと棚に並んでいる。

 店の奥の方へと、スミレ、マリコさんと共に歩いていく。下ろされていた緋色の幕を上げると…そこにあったのは、小さなステージだった。ステージの中央には、マイクスタンド。そして、その傍らにはグランドピアノも置かれている。

 「ここで、お客さんから、歌ってほしいっていう曲があれば、マリコさんがよく歌っているのよ。お客さんの前で。この町内から、ピアノを弾ける人を呼んで、弾いてもらいながらね」

 スミレの説明を聞きながら、二人でステージの前に立つ。

 話し終えた後、スミレはじっと、ステージ上に立つマイクを見つめていた。

 「私ね…、決めた事があるの」

 「何?スミレ」

 「私は、このお店でこれからは、歌を歌って働いていこうと思う。生活も不安定な中で、歌一本に絞って…という道に、中々踏み出せずに迷っていた。だけど、ルナが私の歌を好きだって言ってくれて、私は、ルナが傍にいてくれるなら、歌って生きていけそうな気がしたの。ルナもここでなら、自由に歌を歌えるし、私もルナがいてくれれば、歌う事が出来る…。これからは、私とルナの二人で、このお店で歌って、生きていかない?」

 スミレもまた、歌で生きていきたいと願っていたのか。あたしと同じように。


 それは、お互いの歌を、認め合っている者同士。支え合いながら、同じ夢に向かって歩いていこうという、スミレからの誘いだった。

 歌う場所のなかったあたしに、その場所をくれた。あたしの歌を、エルマ以外で初めて、好きだと言って、褒めてくれた。そんなスミレが隣にいて、共に歌ってくれるなら…、一度は現実の前に捨てかけた夢を、また追いかけてみようか。そんな気持ちが、再び、あたしの中に蘇ってくる。

 この先がどうなるかなんて分からない。苦しい思いをする時も、沢山待っているだろう。それでも、その先にある光景を‐スミレとならば、一緒に見たいと思える。「妹」であるエルマも連れて。

 「あたしも、スミレが、あたしの歌を好きだって言ってくれなかったら、きっと、あのまま、夢も捨てて腐っていた。スミレが歌いたいと思う場所で、あたしは一緒に歌うよ。その誘い、乗った」

 あたしはスミレにそう告げた。

 スミレは、固く、あたしの手を握りしめて、何度も礼を言った。

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