ルナとスミレの再会 ②

視点:スミレ

 ‐時刻は少し遡る‐。

 他に行くあてもなく、私は、この街の人々がよく使う、街の中心部の市場へ、気付けば行き着いていた。

 

 ここは、私も普段より、食料品などを買う為に使っている場所だった。必要な品物は大方、この市場に来れば何でも揃う。街の有名なお店の、出店なども並んでいる事があり、立ち並ぶ店頭の品を並べているだけでも飽きない。

 今日で、契約の工場の仕事も切れて、一番の収入源を無くした私は、とある事を真剣に考え始めていた。

 

 『むしろ、今が転機だと思って…、マリコさんからのお誘い、受けた方が良いのかもしれない…。真剣に、歌を歌って生きていきたいという、私の目標の第一歩だと思って』


 私には、今までも、臨時のお手伝いだけという形で、働かせてもらっているお店‐酒場が、日本人街に一つあった。そこを一人で切り盛りする、やり手の女主人であるマリコさんから、仕事の帰りがけに、こんな言葉をかけられたのだ。

 「スミレちゃんさえ良かったら…、ここのお店で、歌を磨く時間だと思って、これからは正式に働いてみない?今までみたいに、臨時の手伝いだけじゃなくって。ここでなら、思う存分に歌も歌えて、スミレちゃんも成長出来るし、夢があるのなら、悪い話じゃないと思うのだけど」

 

 ‐今までは、貧しい家計を支える方が先決だから、というのを言い訳にして、工場や、その他の雑用のような一定期間の契約労働を転々としてきた。

 しかし、歌を歌って、生きていきたい‐、つまりは歌手となりたい、という夢を、私は抱き続けていた。幼い日に、故郷の日本の村で、その歌を褒められた時から、それはきっと、常に私の中にあった。レコード歌手は高望みでも、歌で、何かしらの仕事に就けるのならば、それは一番、私にとって幸せな事だ。

 歌の経験も豊富で、日本人移民の客の胸を打つ歌を歌う、マリコさんの酒場で職に就くなら、本気でその為の第一歩を踏み出す事となる。

 マリコさんは、返事はいつでも良いと言ってくれた。

 職を無くした今こそ、その返事をする時なのかもしれない‐。

 

 そんな事を考えて、歩いていた矢先の事だった。

 通りの一角にたむろしている、金や茶の髪の、西洋人の少年らの集団が目に留まった。

 私は、彼らの素性を知っていた。この辺では有名な、悪童の集団だった。彼らを見かけても、私も日頃は出来る限り関わらないようにしていた。彼らは、相手が力が弱そうと見るや、大人が相手でも、金目の物を奪う為に、暴力も辞さない倫理観の持ち主で、子供だからと油断は出来なかった。

 その彼らが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、誰かに因縁をつけているようだった。私は、嫌な予感が胸を駆け巡る。

 「おい、今日はいい獲物が手に入ったな」

 リーダー格らしい、短い金髪に、碧眼の西洋人の少年が、何か、ボロ布を重ね合わせたような物を持ち上げて、笑い交じりの声で、取り巻く少年達に言っている。私は、数メートル離れたところで、足を止めた。‐その金髪の少年が右手で乱暴に抱えあげているもの‐、それは、よく見れば動いていた。ボロ布などではない。中に誰かいる。

 「白狼のガキなんて売れるのか、兄貴?」

 少年の一人が、彼に尋ねていた。金髪の少年は、布袋の中でもがくものを見つめながら、答えている。その表情は、愉悦で満たされていた。

 「何だ、お前、知らないのか?金持ち共の道楽で、最近は、顔の良い白狼のガキを密かに、『ペット』として飼うのが流行してるらしいぜ。良い買い手がつけば、俺たちも当分は飲み食い遊ぶのに困らないくらいの金が、簡単に手に入る。こそこそ、金をかっぱらうより、これがずっと手っ取り早い。しかし、まさかこうも上手くいくとはな…」

 

 その言葉を聞いた時、温かな日差しが照らす昼間だと言うのに、私の背筋を冷たいものが走った。彼らが囲む薄汚れた布袋の中に、何が入れられているかを悟ったからだ。

 「ま、待ちなさい!貴方達‼一体、その袋の中の子に、何をする気!」

 ビルディングに挟まれた、狭い裏路地の奥に、袋を引き摺りながら入っていく少年達。その後ろに私は追いすがって、叫ぶ。少年らも私につけられていたとは思いもよらなかったようで、一瞬驚き、足が止まる。リーダー格の少年の青い瞳が、私を見据え、忌々し気にこちらを睨んだ。

 「白狼のガキを捕まえたと思ったら、今度は黄色い猿の女か…。最近、この街でも増えたな。目障りな奴らだよ」

 彼はポケットに手を入れると、そこから…、折り畳みナイフを取り出した。裏路地の影の中、カチリという音と共に、銀色の刃が現れる。

 「お前が誰か知らないが、刺されたくなかったら、とっとと消えな」

 次々と、少年らの手にナイフが握られ、鈍い銀色に光る刃が、私に向く。心臓の鼓動が速まる。彼らは、私をためらいなく刺すだろう。

 「それか、俺らと一緒に遊ぶか?俺らもしばらく女とやってないからなぁ。…丁度いい、お前、顔は中々の上物だよ。体と引き換えなら、命だけは助けてやるよ」

 舐めまわすような視線を、体に感じた。下衆た笑みを浮かべながら、二人の少年が、私が逃げられないようにジリジリと、近づいて来る。

 喉が、恐怖に詰まりそうになる。それでも、ここで私が恐怖に呑まれたのを悟ったら、白狼の子を助けるどころか、私も彼らに手籠めにされてしまいかねない。

 「馬鹿な事を言わないで…!!白狼のガキって、さっき言ったわね!その中の子を、すぐに解放しなさい!!ペットにするって…、どういう事なの⁉」

 私は、負けじと声を張り上げ、問い詰める。この状況に対する、自身の恐怖心をかき消そうという意思も込めて。

 地面に置かれていた、布の袋がバタバタと動く。何か叫んでいるが、私にはその言葉の意味は聞き取れなかった。白狼の言葉は私には分からない。

 「お前に話す義理はねえよ…。それより、これを見られたからには、お前をこのまま帰す訳にはいかねえ。おい、この女を連れていけ」

 金髪の少年が、冷笑を顔に浮かべたまま、そう言い放った。二人の少年が、私の腕をがしりと、両脇から抱え込むように掴んだ。力は強く、腕を振りほどけない。

 「離して…!!」

 じたばたする私の喉元に、すっと、「黙らないと、喉笛を搔き切るぞ」と、冷たい金属が押し当てられる。それが、ナイフの刃である事を悟った時、私は、息が止まりそうになった。

 

‐その時だった。

 「エルマ‼それに、スミレも…⁉そして…、お前ら、一体、二人に何をしていやがる…!!」

 

 聞き覚えのある声が…。しかし、私が、初めて聞いた時とは違い、怒りに満ちた声が、背中の方から、響いてきた。

 俊敏に、白い影が走り抜け、少年の腕からナイフを叩き落とした。体に絡んだ、彼らの腕の力が緩む。「逃げるぞ!」という、よく通る声が、両脇を挟む、建物の壁に反響した。

 ‐そして、私達は、狭い路地裏を必死に走って逃げていた。

 「畜生…、あのガキ共。あたし達白狼を、何だと思ってやがるんだ…」

 その背中に、袋から救い出された「彼女」を背負いながら、ルナは、私の手を引いて、ひた走る。

 「一体、あの子達は何を…!その子を、金持ちに売るとかペットとか言っていたけれど…」

 「スミレも聞いたのか…。あいつらは、白狼の幼い子を、西洋人の金持ちの道楽のペットとして、売ろうとして、エルマを捕まえたんだよ。でも、そうやって売られた白狼の末路は悲惨だ…。歪んだ西洋人の欲求の捌け口にされて、辱められ尽くして…精神を破壊された状態で、大きくなったら、あっさり捨てられるんだ」

 前を向いたまま、ルナは、吐き捨てるようにそう言った。口にしたくもない話題、という感じだった。金持ちの、歪んだ欲求の捌け口…。その言葉の意味するところは、想像するだけでも悍ましかった。

 「おい、いたぞ、こっちだ!あの黄色い猿の女と、大きい方の雌の白狼を絶対逃がすな。獲物を取り返すんだ!」

 執念深く、あいつらが叫び、追いかける声がする。ルナはちらりと振り返って、忌々しげに言った。

 「くそっ、しつこい奴らだ…!」

 私達3人は、裏路地を抜けて、再び通りに出る。

 そこで、私は、道の向こうに、私が暮らしている日本人街の方に向かう、緑の屋根に、クリーム色の車体の路面電車が停留所に丁度止まっているのを見つけた。仕事に出かける時も、よく世話になっている電車だ。

 今度は私が、エルマを背負ったルナの手を引く。

 「ルナ、こっちへ!あの電車に乗って、逃げよう!」

 そうして、扉が閉まりかけていた電車の中へと、半ば、身をねじ込ませるようにして、私達3人は飛び込んだ。周囲の乗客らは、一体何事かというように、騒々しく乗り込んだ私達を見て…、特に、白狼族であるルナの姿にぎょっとしていた。しかし、そんな視線など気にしている場合ではなかった。

「ああ…助かった…」

 座席に腰を下ろすと、私は一気に、全身に張り詰めていた力が抜ける。ルナは、窓の外に目を遣る。停留所に乱入してきていた、あの少年達は、取り残されて、私達の電車の方を見て何か叫んでいたが、もう追っては来られないだろう。

 ルナは、背中に背負っていた、白狼の子を下ろす。彼女は恐怖のあまり、気を失ってしまっているようだった‐。


 逃げるのに必死で、彼女の顔をよく、見る事が出来なかった。しかし、ここで私は、エルマという、さらわれかけていた少女の顔を見て、激しく、心が揺れた。


 「ヤ、ヤエ…?」

 

 ルナの膝の上に寝かされた、瞼を閉じた、彼女の顔…。その彼女の顔は、私が、日本の、故郷の村で、何度となく、寝かしつけた妹、ヤエの、その寝顔に、あまりにもよく似ていたから。

 私は、エルマの顔を見て、しばらくの間、言葉を失くしていた。

 辛い過去を置いて、生まれ育った故郷の村も、故国である日本も離れ、遠いこの異国にやってきた。前に進んで、少しでも明るい未来へと手を伸ばしたくて。

でも、その私の前に、その辛い過去、忘れられるなら忘れたい過去の、最たるものとでもいうべき存在、ヤエと、瓜二つの、白狼の少女が現れた。まるで、「過去を忘れるなんて許さない」という、何か、見えざる者の意思のように。

 『ヤエを忘れて、自分だけ幸せになるなんて、私が許さない…!ヤエは、死んだのに!』

 そう、今も夢の中で、呪いのような言葉を投げかけてくる、チハヤの姿が、声が、頭を過ぎる…。

 そして、もう一つ、気付いた事がある。彼女の、星や、月の光を細い糸へと変えたような、白銀の髪。その髪の隙間から飛び出ている、狼の耳は…右耳しかなかった。ルナと同じ、「片耳」だった。

 そんな中、ヤエにそっくりな白狼の少女、エルマの、瞼が薄っすらと開いた。その奥の、色素の薄い白狼特有の瞳が、私を見て、次に、ルナを見て…。次の瞬間、その瞳に、涙の膜が張り詰めた。彼女は白狼語で、何かを伝えながら、ルナの服にしがみつき、すすり泣き始めた。先程の恐怖のひと時を思い出したのだろう。

 ルナは、彼女に白狼語で何かを伝えている。その声の調子と、表情から、エルマの事を叱っているらしいのは、私にも伝わった。二人は、一体どういう繋がりなのだろうか。姉妹としては、ルナとエルマ。お互い、片耳である点を除けば、二人は全く似てはいなかった。

 そして、ルナは、私に向かい、深々と、頭を下げる。

 「すまなかった、スミレ…。あたしのところの、エルマの為に、あんな危険な奴らに向かってまで、助けようとしてくれてたんだな…。巻き込んで、本当、申し訳なかった」

 ルナがエルマに何か言うと、エルマも、ルナに倣って、頭を下げる。そして、私の方を見上げると…、片言の、たどたどしい公用語で、こう言ったのだ。

 「アリガト…、スミレ…オネエチャン。ホントニ、アリガト…」

 涙を浮かべ、私の膝を覆う、ズボンの生地を掴みながら。

 日本語とは違う言語で発せられた、その言葉。しかし、「スミレオネエチャン」という、この国の公用語で織りなされたその呼び方は、私が、記憶の底で、無理やりに眠らせてきた、ヤエの、声に、言葉に変換されていた。

 「ありがとう、スミレお姉ちゃん。お姉ちゃんの傍なら、怖くない…」

 雷と雨が酷い夜。怖くて眠れないと、私の布団に入ってきたヤエを、寝かしつけて、安心させていた時。彼女が私に確か、そう言ってくれた。故郷の村の、ヤエと過ごした日々の一幕が、私の頭の中に蘇る。私は、途方もない懐かしさ、ヤエへの思慕の念が込み上げてきて、言葉を詰まらせた。この子と目を合わせていると、嬉しいような、悲しいような気持ちになって、感情を掻き乱されてならない。

 

‐「あら?スミレちゃんじゃない!こんなに早い時間に、珍しいわね。それに…、珍しい、お友達と今日はご一緒みたいね」

 その声で、私ははっと、我に帰る。私はその声の方をさっと振り向く。

 洋装だらけのこの街の中において、珍しい、日本の着物姿。その着物姿に、一見、似つかわしくはないのに、何故か、着物の鮮やかな赤の色使いと不思議に調和する、金色の髪や、日本人にしては、彫の深い顔立ちに、青い瞳。すらりと伸びた高い身長。

 気付けば、停留所にこの電車は停車していた。

 そこで、私達が暮らす日本人街では、「日本人街の母」だとか「女主人」と、慕われる人-マリコさんが、折り畳んだ日傘を持って、乗り込んできていた。

 

 マリコさんは、市内で、酒類の行商人との打ち合わせをした、その帰り道だったらしい。

 私達の事情を聞いた彼女は、そのまま、日本人街の彼女のお店兼、自宅へと、案内された。

 私は、何度か、お手伝いとして臨時で働きにきた事がある。地味な色合いの小さな平屋が多い、日本人街の中にあって、マリコさんのお店は一際、目を引く立派さの、白亜の西洋館だった。

 一階はテーブルが並んで、バーカウンターなども備えた酒場となっており、二階が彼女の家となっている。

 その二階に、私とルナ。そして、ルナに抱えられた幼い、白狼の少女、エルマの3人は案内された。


 外装に似合わぬ、襖で廊下から仕切られ、畳が敷かれたその和室は、私が今、日々を生きているこの国が、故郷を遠く離れた異国である事を、忘れさせそうになる。

 そこは、私が、下のお店で遅くまで働いた時に、「もう遅いし、泊まっていけばいいわ」と、マリコさんが使わせてくれた部屋だった。店で働く者が臨時で泊まる為の部屋だ。

 ルナが、公用語で、幾度も、マリコさんに例を述べた。

 「ありがとうございます…。私達を匿ってもらって…」

 「お礼なんていいわ、スミレちゃんのお友達だもの。それに、白狼の子を狙う白狼狩りは、最近この街でもうようよしていると風の噂で聞くわ…。貴女達だけで、保護区まで帰るなんて危険よ。エルマちゃんの、手当をしないと」

 白狼狩り…。エルマのような、幼い白狼の子をペットとして欲しがる金持ちを客層に、捕獲した白狼の子を売り飛ばす人達がいるという事に、衝撃と共に、怒りも覚えた。

 エルマは、逃げようとして何度も、路上で転んだらしい。手も、足も、擦り傷だらけで、血が滲んでいた。その血の色は、私達と変わらなかった。

 マリコさんが、消毒液を沁み込ませた脱脂綿で、血を拭き取り、エルマの傷を消毒していく。エルマは、怯え切った様子で、小さな肩も、右耳しかない、小さな狼の耳も小刻みに震えている。白狼狩りの少年達に追いかけられて、乱暴に、袋に詰め込まれて…連れ去られかけて。想像を絶する恐怖だったのだろう。

 ルナは、初めて見る和室というものに、興味深げに室内を見回していた。そして、私に「スミレ、ところで、ここは一体…?」と、この場所について尋ねてくる。

 「ここは、マリコさんが経営する、日本人街の酒場よ。私も、前からちょくちょく、臨時で働かせてもらって、お手伝いしてるの」

 そんなやり取りをしていると、マリコさんが「終わったわ、これで、傷の方はもう大丈夫」と言って、畳の上にちょこんと座る、エルマから離れる。擦り傷は、絆創膏やガーゼで覆われていた。

 「それにしても…、ルナちゃん、だったかしら。貴女も、それにエルマちゃんも、一体、ご両親はどうしたの?誰か、一緒に暮らしてる、大人の白狼はいないの?二人だけで暮らしていると聞いたけど…」

 私も、その事を、ここに来る道すがら、彼女から初めて聞いた時には、大層驚いた。この姉妹はどうやら、白狼族の集落の隅で、二人だけで生活しているらしい事に。

 そこを、マリコさんに尋ねられると、ルナは、ばつの悪そうな表情になった。この年代の少女二人だけで生活など、只事ではない状況なのは明らかだ。

 「…いないんだ。両親も、一緒に暮らすような大人の白狼も…。あたしらみたいな、片耳病の嫌われ者と暮らしたい奴なんて。あたしらは、集落では爪弾きにされてるから」

 私と、マリコさんに向かって、ルナがそう答えた時、彼女は苦々しい表情をしていた。

 

 村八分‐、故郷の国、日本の村でも時折、耳にした言葉が、私の頭をよぎった。村の中で色々な事情から、一切の助けを受けられず、疎外される。それと同じ事が、日本を離れて何千里もの距離になる、この異国の、白狼族の集落でも起きていたとは…。


 「あたしの両親は、呪われてる片耳病を生んだからと、罪人のように集落で扱われて、二人は、あたしのせいで、働いていた興行団からも追い出された。そこからは二人共、家に金を入れる為に、誰もやりたがらない危険な仕事にばかり行くようになって、母さんは無理がたたって病気で…、父さんも炭鉱の爆発事故で死んでしまった…」

 耳を塞ぎたくなるような凄惨な話だった。

 ルナの話は、まだ続いた。

 「エルマに至っては、両親の顔も、もう、覚えてないと思う。大雨の日に、あたしの家の近くで、ずぶ濡れになって、歩いてた…。両親がきっと、置いていったんだ。あたしが住んでるのを聞きつけて、片耳の子は、片耳に押し付けて、厄介払いしようとでも、考えたんだろうな」

 畳の上、体育座りで、ぼんやりとしているエルマに目線を送り、ルナは、その時の光景を思い出してか、憤りの籠った口調になる。それはきっと、エルマを置き去りにした、彼女の実の両親への怒りだろう。

 「じゃあ…、あの子、エルマとルナは、血の繋がりはないの?本当の姉妹じゃ、ないって事…?」

 私がそう尋ねると、ルナは頷く。

 「そうだよ…血の繋がりの話なら、あたしとエルマは本当の姉妹じゃない。でも、雨の日に、独りぼっちにされていたあの子を拾った時、あたしは心に決めたんだ。この子を助けようって。片耳病は、呪いの病気、業病だから、関われば皆不幸になるなんて迷信の為に、あたしと同じように、この子の全てが‐、家族すらも、奪われるような事、あってたまるかって思ってね。この子が失ったもの、家族にあたしがなろうと、そう思った」

 昔の自分と同じ悲しみを、エルマには味わわせたくない…、そうした思いから、エルマを「妹」として、拾う事に決めたのだろう。

 しかし、エルマの姿を見て、ルナは、自分を責めるように続ける。

 「でも、こんな怖い思いをあの子に、させちまった…。あの子が無くした家族の、代わりになろうなんて考えた癖に、結局、あの子に寂しい思いばかりさせて…。それで、遂に我慢出来なくなって、あたしの姿を追って、街に出て、そのせいで、こんな目に…」

 額に貼りついていた、銀髪をぐしゃっとかき上げて、呻くように彼女は言う。

 「スミレ…、マリコさん。あたし、駄目な姉だよね。エルマの事、全然、守り切れてない。仕事にもありつけないし、このままじゃ、エルマを食わせてやることさえ、出来やしない…。どうしたらいいんだろう…」

 

 沈鬱な空気が和室の中に漂った。ルナの抱えている重荷は、私の想像を遥かに超えるものだった。

 このままでは、彼女も、一緒に暮らすエルマも、白狼族の集落の片隅で、共倒れになる未来しか見えない。何とか、ルナに言葉をかけようにも、かけるべき言葉が見つからない。

 そうした時だった。ずっと、部屋の隅に寄って、体育座りをしていたエルマが、疲れからか、うとうと、舟をこぎ始めた。白狼狩りの少年達に追いかけられ…、ここで、マリコさんに匿われるまで、気の休まる時はなかった筈だ。緊張が緩んで、疲れが出てきたのだろう。

 そんなエルマの姿に、また、私の頭に残る残像が重なる。

 故郷の家…、そこで、ヤエがうつらうつらし始めた時、私は、よく、彼女の頭を膝に乗せて、子守唄を歌ってあげたものだ。

 私は、エルマに近づいていくと、そっと、彼女の頭を抱き寄せて、膝に乗せて…、昔、ヤエに歌ってあげたのと同じ、故郷の子守唄を歌ってあげた。

 日本語の歌の意味を、きっとエルマは解さないだろう。しかし、ヤエが、私の子守唄を聞きながら、心地良さそうに、眠りに落ちていった時の、安らいだ顔を思い出しながら、歌い続ける。最初、驚いて、一瞬瞼を開けたエルマは、徐々に私の声に聞き入り始めて、体からも力が抜けていくのが分かった。そっと銀髪を指先で梳きながら、頭を撫でてあげると、やがて、エルマは私の膝の上で、寝息を立て始めた。

 

 その、膝の上に広がる光景の、あまりの懐かしさに、幾度か、熱いものが込み上げ、歌声が乱れそうになったが、それをどうにか堪えた。この子は、ヤエとは別人だと、理性では分かっていても、私の心の別の部分が、ヤエが帰ってきてくれたかのような錯覚を、私に起こさせている。

 

 「あたしが歌って、寝かしつけないと寝られないエルマが、寝てる…。あんたの歌、すごいな…。言葉は分からないのに、なんかあたしまで、冷え切ってた胸の中、温かくなってきた…」

 その言葉に、私は、はっとなり、現実へ引き戻される。

 ルナが私と、その膝の上ですやすやと眠る、エルマを見ていた。先程、悲惨な身の上話をしている間は終始、彼女の心の内を現すように、ピンと立っていた左だけの狼の耳が、垂れている。表情からも、少しだけ、険しさが引いており、彼女もまた、私の歌声で安らぎを感じてくれた事が分かった。

 「私が、故郷で、よく歌っていた子守唄よ。日本語の歌だから、何を言っているのかは、分からなかったと思うけど…。エルマちゃん、疲れていて、眠たそうだったから」

 そこに、マリコさんが布団を出してくれて、エルマを寝かせてあげた。エルマはしばらく、起きる気配はなさそうだった。

 「スミレちゃんの歌の力ね…。さっきまで、エルマちゃん、まだ体が震えていたのに、すごく穏やかな顔で寝ているわ。やっぱり、スミレちゃんの歌声は凄いわ。前にも言ったと思うけど、もっと自分の歌声に自信を持ちなさい」

 そう、私の歌を褒めてくれたマリコさんは、掛布団を小さく膨らませて、寝息を立てるエルマの、髪を梳いていた。「折角の綺麗な髪なのに…。起きたら、エルマちゃんをお風呂に入れて、洗ってあげましょう。きっと、びっくりするくらいの美少女になっているわ」

 マリコさんは、じっと、エルマの寝顔を見つめていた。先程のルナの身の上話や、この二人の白狼の少女が置かれた、厳しい状況を聞いて、思うところがあるようだ。

 「こうやって、不遇な目に遭うのは、いつの時でも、何処の国でも、抗う力のない子供達なのよね…」

 彼女のぽつりと呟いた言葉に、私は、以前…、一度だけ、マリコさんが話してくれた、彼女の過去を連想していた。日本で、彼女が味わった苦難の過去と、その中にあった、彼女が救われた話を。

 彼女が何故、日本人でありながら、金髪に、青の瞳を持つのか。その理由にも繋がる話だ。

 今の二人の白狼の少女は、その青い瞳に、きっと、昔のマリコさん自身と重なって見えているのに違いなかった。

 「…こうして、貴女達の事を知ったからには、白狼族の集落に帰らせる事は出来ないわ…。ねえ、もしも、ルナちゃんが良ければ、のお話なのだけど、このお店なら、スミレちゃんも働きに来るし、集落に戻るより幸せだと思うの。建前上は、私が、住み込みで雇うっていう形にするから、ルナちゃんと、エルマちゃん、ここで暮らしてみない?」

 その申し出を受けた時、ルナは、全くの予想外だったらしく、「え…?」と、唖然とした顔を浮かべていた。


 「本当に、いいのかな…?あたしが、エルマと一緒にお世話になるなんて。マリコさんとスミレが、仲いいのは分かったけど、あたしはまだ、スミレと知り合って間もないくらいなのに、私にマリコさんが、こんなに良くしてくれる理由が分からないよ…」

 お風呂から上がったルナの頭や髪を、タオルで拭いていると、彼女が私にそう言った。

 エルマちゃんは私が見ているからと、ルナも、お風呂で体を洗ってくるように勧められたのだ。着替えなどは当然、ルナは持ち合わせていないから、家から持ってきた、私の浴衣で代用する。

 だぼだぼで、汚れ切った、丈の合わない上衣の下に隠れていた、ルナの首筋や鎖骨、胸元の肌は、朝日に照らされる雪原を思わせる程に白く、浴衣の下に色映えていた。私が着ている時よりも、着物としての価値が上がったかのように錯覚させられる。風呂で汚れも落ちて、垣間見える素肌の白さは、妖艶な程だった。やはり、人間の肌とはかけ離れている。「白狼」と呼ばれる所以は、その銀髪と狼の耳だけではない。

 湯浴みで、ルナの銀髪は、浴室の高窓から差し込む光を受けて、目に眩しいくらいに輝いて見える。水滴を拭きながら、いつまでも、その銀髪に触れていたくなる。淡い、月や星々の夜光をそのまま、糸に変えたような、繊細な手触りの髪を。

 「マリコさんは、ああいう人なの。困って、苦しんでる人を見つけたら、放ってはおけないの。例え、自分の私財を投げ打ってでも、助けようとする人なのよ。この日本人街でも、マリコさんに助けられて、恩のある人は沢山いる。だから、この通りに住む日本人からは、口々に日本人街の母、なんて呼ばれて、皆に慕われてるよ」

 そういう私も、彼女に救われた一人だ。

 ヤエとの死別。その傷と、罪悪感を引き摺って、この国の、この街に移住してきて…。そして、マリコさんに出会えて、「歌」を褒めてもらえなければ、私は前を向けないままだっただろう。

 「それに…、もし、ルナがこのお店に住み込みで働くようになってくれたら、私も嬉しい。ルナの優しい歌声、また聞きたいって、今日も思っていたところだったのよ。ここに来てくれたら、私は、ルナの歌をもっと沢山聞ける」

 私は、自分の願望を、お為ごかしに、ルナに押し付けているだけかもしれない。星々の下で聞いた、彼女の歌が忘れられなくて、もっと聞きたくて…。

 それに…、どうしても、ヤエの面影を感じる、エルマの事を、他人事だとは思えず、このまま、酷い目に遭い続けるのが分かっている集落に帰す気にはなれなかった。そうした理由もなかったと言えば、嘘になる。

 彼女は、私から顔を逸らすようにして、急に上を見上げた。照れ隠しのように、星々の散らばる空を見上げた時と同じ動作だ。ルナの顔は、正面からは見えないが、彼女の項の雪原が、夕陽に照らされるように、紅く色付いていくのが分かる。

 「あたしも…スミレが、エルマに歌ってくれた子守唄を聞いた時、さっきも言ったと思うけど、心が温かくなった…。歌であんな、心が安らぐ感覚、初めてだよ。スミレの歌声を、あたしも、出来るなら、もっと聞きたいって思うようになった。あたしも、スミレの歌声は、好きだよ…」

 振り返る事はないまま、彼女は、私にそう返してきた。左しかない彼女の、白い耳も銀髪の上で、仄かに朱が差している。

 思わぬ賛辞の返しに、心の準備が出来ていなかった私が、今度はやられる番だった。

 こうして静かな場所で話していると、歌っていない時でも、ルナの声は清涼感溢れ、美しいと思う。

 彼女の顔で、その声で、正面から見られて、褒められたら、きっと私の心拍は今以上に早く、波打っただろう。

 声が上ずってしまいそうで、ありがとうと、小声でしかお礼の言葉を返せなかった。頬が熱い。

 「と、とにかくね…、マリコさんも私も、気まぐれで、ここに住まないかって誘ってる訳じゃない。マリコさんは、ああして言ってくれたからには、絶対に二人を助けるし、私も、ルナと、エルマちゃんが苦しい思いをするのも、また、今日みたいに白狼狩りに襲われたりするのも嫌だから…、安全なところにいてほしい。この、マリコさんのお店は、二人が過ごすのにも、絶対安全だって、私も保証するから」

 話を意図的に逸らし、このお店で働く話に、話題を戻す。行く先々で、同じ白狼からも、西洋人からも酷い扱いをされてきた彼女が、他者を中々信じられないのは当然だ。

 ルナは、しばらく黙り込んだのち…、返事をくれた。

 「他に行く宛もないし、仮にあたしが働ける場所があっても、家にエルマを置き去りにしてしまうのは、変わらない。ここなら、確かにエルマを寂しくさせないで済むし…、それに、あたしの歌を褒めて、認めてくれた人がいる」

 私の方へ、高窓から差す光の筋の中、銀髪を翻して、ルナは振り向く。真っ直ぐに、私を、その瞳に捉える。そこに、迷いはもうなかった。

 

 「スミレ。ここのお店で、どうか、よろしくお願いするね。あたし、そしてエルマの事を。マリコさんにも、部屋に戻ったら、ちゃんと、返事を伝えるよ」

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