悪夢は、影のようにつきまとう

 視点:スミレ

 あの夢に、私はうなされていた。

 夢の中で、私は、日本の、捨てた筈の故郷の村に戻っている。

 最初、それはいつも、美しい光景から始まる。亡くなった筈の、ヤエも、母も、元気な姿で、私の目の前にいる。私達は、村の外れにある、桜並木の道を歩いている。この村に、春の訪れを告げる、淡い桃色の花びらが降り注いで、それを、家族で見上げている。

 私が、春の訪れを喜ぶ民謡を歌うと、「スミレは、お歌がやっぱりお上手ねぇ」という亡き母の声がありありと蘇って、私の耳に聞こえてくる。

ヤエも、私に手を引かれながら、拙い口調で、私の真似をして歌っている。

 そして、舞い落ちてきた花びらを掴んだようで、小さい掌の上に握ったそれを、私に見せてくる。彼女の手の中にある、桜の花弁を私は「綺麗だね」と見つめていた。

 私の歌声に、惹きつけられるようにして、桜を見にきていた、村の子供達も集まって来る。ヤエと同じく、私に合わせて歌ってくれる幼子もいた。

 穏やかで、幸せな、春の日の景色を見ている筈だった。


 ところが、次の瞬間には、その光景は一変している。

 穏やかな団らんの景色は一変し、隧道(トンネル)の中に迷い込んだかと思う程、一面の闇に周囲は包まれた。

 そして、足元に目線を落とせば…、わらの筵をかけられた、小さな膨らみが横たわって…、その脇に、小さな、発疹に覆われた腕が一本飛び出している。

 その掌の上には、一枚の桜の花弁が落ちていた。

 悲鳴を上げて飛びのく。あの日…、村に唯一の寺の境内に、息を引き取ったばかりのヤエの亡骸を運んだ、花盛りのある日、見たものと同じ光景だった。

 私は、氷を背中に押し当てられたような、寒気を感じた。誰かの凍てつくような視線が、背中に刺さっている。

 振り返ると…、両の頬に流れる、涙の雫もそのまま、射殺すように鋭い視線を私に送る、チハヤの姿があった。私が、ヤエの真実を伝えられず、ずっと嘘をつき続けた相手…。

 「どうして嘘ついたのよ…!あんたのせいで、私は、ヤエにお別れの言葉も言えなかったじゃない…!ヤエは必ず助かるなんて、出鱈目ばかり言って…!許さない…、この大嘘つき…。ヤエを忘れて、あんただけ、幸せになろうなんて、あたしが許さない…!」

 ごめんなさい、と何度も言おうとした。しかし、水槽の中で口をぱくぱくと動かす魚のように、いくら唇を開閉させようと、声が出ないのだ。

 チハヤの罵声と、視線の前に、声も出せず、私は、最後には情けなく、膝から崩れ落ちるしかなかった。

 私には、チハヤに何も言う権利はない。私が彼女にとっては大嘘つきで、ヤエが危篤となった時まで、チハヤの事をずっと騙していたのは、事実なのだから。

 「助からないって分かっていたなら、私は、ヤエに、本当の気持ちを伝えに行ったのに…。あの子が、死んでしまう前に…。私はヤエの事が…〇△×…」

 チハヤの声が、怒鳴り声から、泣き声へと変わっていく。怒鳴られる以上に、私には辛い彼女の声だった。彼女は、涙ながらにいつも、この夢の最後には、同じ事を私に伝えようとしてくるのだ。そして、決まって、チハヤが最後、何を言おうとしたのかは、聞き取る事が出来ない。

 ‐目を開いて、障子越しに差し込んできた朝日に、救われた心地がする。布団から上半身を起こして、頭を抱え込む。まだ、鼓動は疾走した後のように速く、耳元でドクドクと響いていた。

 故国日本の村を離れて、幾年が経ったのに、ヤエとの別れの記憶にまつわる、暗い影は、私の後ろにぴたりと貼りついて、離れてはくれなかった。ヤエの事で、私を憎んでいる少女-チハヤの存在も。ヤエが亡くなって、程ない時期に、離村と、新大陸のこの国への移住が決定して、同郷の村人は移民として、この国に四散していった。チハヤもきっと…、この国の何処かで移民として暮らしているだろう。

 あの悪夢で起こされた朝にはいつも、どうかこの国で、チハヤにだけは再び会いたくないと願ってしまう、何処までも卑小な自分がいた。結局チハヤに謝る事も、向き合って話をする事も出来ないままだった。彼女の中で、私は憎むべき相手のままだ。

 工場で働く為の、簡素な作業服に着替えながら、考える。

 母国である日本を去って、この新天地の国に移住を即決した理由には、ヤエの死の、後悔が残る場所から少しでも逃避したいという気持ちがあった事は、否めない。少しでも前に進もうとしているのに、私にとっての暗い過去の記憶の、象徴ともいうべき存在になってしまったチハヤが目の前に現れたら…、そして、「過去を忘れて、幸せになろうなんて!」と罵られたら、私は平常心を保てる自信などなかった。

 洗面所に駆け込むと、冷たい水道水を何度も顔に浴びせた。暗い感情に埋没しそうになるのを振り払う。この感情の淀みも、澱も、洗面台の排水口に流されてしまったらいいと思いながら。

 

 父はもう、仕事に出ていた。給与は比較的良い方だが、肉体労働の、大農場での作業に、毎朝、バスに揺られて向かっている。

 その父の稼ぎでも、何でも買えるが、何でも物価の高いこの国で生活するにはぎりぎりのところだった。だから、親子共働きとならざるを得ない。

 もそもそと粗末な朝ごはんを終えて、家の外に出る。市内を走る路面電車の停留所へと急ぐ。

 日本式の木造家屋が立ち並び、電柱には、この国の公用語だけでなく、日本語の張り紙やらが張られ、軒先に、日本語の看板を出している飲食店もある。お金を持っている住民は、立派な瓦付きの屋根の家に住んで、コンクリートブロック塀で家を囲っている人もいる。

 ここは、いわゆる日本人街だった。ハイカラな西洋風の建築が並ぶ、異国のこの街の一角で、ここだけが小さな「日本」だった。

 停留所にひた走る私に、「やあ、スミレちゃん!今日もお仕事?大変ね。頑張って!」とか、気さくに声をかけてくれる、近所の人も増えた。公用語ではなく、日本語で話しかけられると、やはり、心は何処か和らぐ。どれだけ、この国の公用語に慣れようと、この感覚はきっと変わらないのだろう。


 「クビ…ですか」

 午前の勤務が終わった後に、工場の事務所に呼びつけられた私に、西洋人の工場長が言い渡したのは、要はそういう事だった。

 「もう人手不足も足りてきたし、本社の方からも、西洋人‐白人の労働者を、東洋人の移民よりも優先的に雇うようにしろと通達が来てるんだ。君も知っての通り、街によっては、喰い詰めた白人が、東洋人ばかり雇っていた工場や農場に不満を募らせて、襲撃する事件にまで発展してる。この街はまだ比較的、白人、東洋人の対立は少ない方だが…、いつ、そうなるとも限らない。もうじき、ここにも白人の労働者が沢山入る事になったから、契約期間よりも短めになって申し訳ないが…」

 それでも、やむにやまれぬ事情がある事を隠さず話してくれて、少ないながらも退職金まで渡してくれた、太った中年の西洋人の工場長はかなり、西洋人の中でも良心的な人だった。

 私も、同じ工場で働く西洋人女性の労働者ら、何人かからは、「本当、目障りね。最近はああいう黒い毛に黄色い肌の猿が、この街でも沢山うろつくようになって不愉快よ」と、職場でのすれ違いざまに陰口を言われる事くらいは日常茶飯事だった。私達のような、東洋人に職を奪われると、負の感情を募らせる人達がいる事もよく知っていた。

 私に「黄色い猿」と影口を言った彼女らは、私が工場を出て行く時、邪魔者が去ったとばかりに、ニヤニヤ、笑みを浮かべて、窓から私の方を眺めていた。


 今更、ああいった態度を取られたくらいで、傷つくような事も無くなっていた。それよりも、明日からの仕事をどうしよう…という事への心配や焦りの方が、私の中では膨れ上がっていた。

 封筒の中、退職金としてもらった、この国の紙幣を数える。この額では、どれだけ生活費を切り詰めて使っても、1週間もてば奇跡だろう。その間に短期契約でも良いから、何か仕事にありつけなければ、家計は苦しくなる。

 まだ日は高く、家に帰るにも早すぎる時間だ。路面電車を使っても良かったが、真っ直ぐ帰る気持ちにはなれなかった。

 

 立派な鉄門が構え、上の方に花や、植物を模った装飾が施された鉄柵に囲まれた、邸宅が立ち並ぶ、住宅街をまた歩いてみる。

 わざわざ回り道になっても、この住宅街にまた立ち寄ったのは、昨日の白狼の少女-確か、ルナと言ったか‐の事が気になったからだ。彼女がまた、同じ場所に来ているという保証もないのに。

 今は、人の食い扶持を心配していられる状況でもなくなったが…、昨日、必死の様子で、興行団の人達に「何でもやるから、雇ってください」と縋り付いていたルナは、あの後、何とかなったのだろうか。あの、抱き起こして膝に乗せた時に感じた、体のか細さ。やつれた横顔。何年も着続けているのか、丈が合わなくなって、汚れたへそまで見えていた古い洋服…。昨日、彼女が夜空を見上げて、歌を聞かせてくれた公園の前で立ち止まり、それを思い出す。

 昨日会って、少し話して、歌を聞かせてもらっただけの相手がどうしてこうも気になるのか。

 

 公園のベンチにじっと、腰掛けていると、ルナの歌声が蘇ってきた。

 それは確か、白狼族に伝わる、星空の下、夜の闇を恐れて泣く、幼子を落ち着かせる歌だった。

 あの歌声を、急にまた、聞かせてほしくなった。今朝は、あのような過去の悪夢で夜の眠りから覚めたからだろうか。今年17歳になる身でありながら、あの、ヤエの死にまつわる悪夢を見たら、しばらくは、夜、一人で床に就くのがとても怖くなる。

ルナのあの子守唄があれば、安らいだ心地で眠れそう…。そんな思いが、年甲斐もなく浮かんでくる。

 あの悪夢にうなされた翌日は、眠れていないのもあるだろうが、何処か、頭の中に霧がかかったように、体がだるくなる。そして、酷く、情緒が乱れやすくなる時がある。

 昨日、私を別世界に連れていってくれた、ルナの歌声をまた聞きたい…。

 そうした不安定な気持ちが私をここに連れてきたのだろう。

 彼女が来ている筈もない、昨日と同じ場所の公園に、ふらりと寄って、ベンチで、ルナを待つような事をしている。

 同じ場所に、都合よく彼女が来る筈もないのに。

 こんな馬鹿な真似はもうやめようと思いなおし、公園をふらふらと、私はまた出て行く。

 他に行く場所も思い浮かばない。お昼がまだだったのを思い出し、ここからそう遠くない市場を目指して、また街を歩く。日中から住宅街の中の公園を歩く東洋人の娘を、上質な服に身を包んで、パラソルをさして散歩中だったらしい、西洋人の貴婦人らが、不審な目で見ていた。

 今日の自分は、まるで、紐が切れて、風向きのままにあてもなく流され続ける凧のようだと思った。

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