守りたいもの

視点:ルナ

 政府が定めた、都市部の郊外の狭い居住区、「白狼族保護区」の中に、あたし達、白狼族はぎゅうぎゅう詰めになって生活していた。

 元々生活していた広大で、自然豊かな土地は、西洋人らの移住者の開拓によって奪われ、白狼族は、故郷から出て行くように迫られた。抵抗した部族もいたが、銃や大砲という、圧倒的な武力を持つ西洋人らの軍隊には全く歯が立たず、皆、銃弾の前に倒れていった。

 西洋人への抵抗戦争に全て敗れた白狼族は、彼らと和平を結び、彼らの支配の中で生きるのを受け入れる他なかった。

 代わりの住み家として与えられたのは、都市の郊外の一部の狭い土地だけだった。それでも、故郷で存在していた、かつての共同体を何とか維持しようと、保護区に住むようになった後も、保護区の中を更に小さく区切り、元の集落の出身者で固まって生活するようになった。

 だから、そこには、元の集落の、負の因習もそのままに持ち込まれていた。

 

 「また、この落書きか…。下らない迷信に皆で取りつかれて、バカみたい…」

 朝。あたしは毒づきながら、あたしと「妹」の住み家である、この掘っ立て小屋の外に出て、洗濯物を干そうとしたところで、壁板に『業病人の片耳は、早く出て行け』とペンキで書き殴られているのを見つけた。また、余計な仕事を増やしてくれたものだ。

 『片耳病は、前世の行いが悪かった天罰で、業病だなんて与太話を、今でも皆信じてるんだから』

 溜息をついた後、共同利用の井戸に、水を汲みに行く。その途中で、クスクスと嘲笑する声が聞こえた。他の小屋の外に出ている、同じ集落の白狼族が、意地の悪い笑みを浮かべて、あたしを見ていた。

 聞こえていないふりをして、さっさと生活用水をバケツに組み、立ち去ろうとする。

 「あんな奴、早く、『熱』が出て、耳が腐り落ちて死ねばいいんだよ」

 あたしにわざと聞かせるように、白狼族の一人が声を一際、張り上げて、そう言った。

 嘲笑う声と共に「あいつは、また、何処かの興行団に働かせてって頼みに行って、断られたんだって?」という言葉も聞こえた。ぎゅうぎゅう詰めの保護区の、小さな社会で噂が広まるのはあっという間だ。

 共同利用の場所を使うのはこれだから嫌だった。さっさと引き上げようと思い、あたしに送られる、冷ややかな視線や、押し殺した嘲笑を無視して、井戸の底に桶を投げ入れ、水を汲み上げる。

 『この集落にお前の居場所なんかない』という悪意を四方八方から浴びせられ、いくら無視して振る舞ってはいても、心は曇らざるを得ない場面だった。普段であれば。

 しかし、今朝のあたしの心は曇らなかった。

 『私は、ルナの歌声が好き』

 『妹』以外で、あたしの人生で出会った中で、初めて、そう言ってくれる人に出会えたから。

 後ろで束ねた長い黒髪を揺らして、あたしに語りかける、その澄んだ声や、優しい声色、

 細やかな気遣いや所作。あたしの良いところを見つけて、褒めてくれるところ。

 そこには、何処か、弟か妹がいて、その接し方に慣れた、「姉」の空気感を、あたしは感じ取っていた。

 彼女-スミレにも兄弟姉妹がいるのだろうか。家で待っている、あたしの『妹』と、同じように。

 「スミレ…だったっけ。また、街に出た時、何処かで会えたらいいな…」

 そんな事を独り言ちる。

 額の汗を拭って、桶に組んだ水を、家である、掘っ立て小屋まで運ぶ。ボロ雑巾に水を含ませ、壁に書かれた落書きを、急ぎ、ごしごしと擦って、消しにかかる。あたしは良くても、こんな汚い言葉を『妹』に見せたくはなかったから。

 

「ルナお姉ちゃん、おはよう…」

 まだ、眠たそうな目を、手で擦りながら、その『妹』が戸を開けて出てくる。

 「ああ、エルマ。おはよう。ごめんね、あたし、もう少しやる事があるから、おうちの中で待っててくれる?」

 あたしは、その『妹』‐エルマに、壁に書かれたものを見られないように、家の中へ戻るように促す。

 エルマは、あたしと同じく、生まれつき、狼の耳を片耳しか持たない病‐「片耳病」を患っている。正確な年齢は分からない。恐らく10歳にも満たないだろう。右耳だけが、そのくしゃくしゃになった銀髪の中から飛び出ていて、彼女が白狼である事の証明となっていた。

 あたしとエルマの間には、血の繋がりはなかった。エルマは、忌み嫌われる「片耳病」を持って生まれた事で、実の親に捨て子にされていたから。

 ある、冷たい雨が降りしきる夜の事。あたしは、素足を傷だらけにして、泣きじゃくりながら、彷徨っていたエルマを見つけた。その親に激しい怒りを抱くと共に、エルマを助ける為に連れ帰ったのだ。

 エルマを拾って、一緒に暮らし始めて、正確には覚えていないが、もうすぐ一年にはなる。

 両親のいないあたしには、血の繋がりがなくても、エルマだけが守るべき存在で、家族だ。

 

 「お姉ちゃん」

 落書きをやっと消し終わって、小屋の中に戻ると、エルマに声をかけられる。小屋の中には、二人分の寝床と、小さな台所らしきもの。それに、小さな暖炉が備わって、屋根の上の煙突に繋がっているだけだ。

 小屋の傍に、二つの盛り土がされている。そこを指さして、エルマは日課をしようと言っているのだった。

 「エルマはちゃんと覚えてくれてて偉いね。うん、朝のお祈りしよう」

 あたしは、エルマの頭を撫でると、その盛り土の前に向かう。

 「父さん、母さん…、どうか、今日も、あたしとエルマの事、見守っていてね」

 そう囁いて、あたしは盛り土の前に跪き、瞼を閉じて祈る。その横で、あたしに倣って、エルマも同じように祈ってくれる。エルマは、あたしの両親の生きている姿に、会った事はないのに、こうして一緒に祈ってくれる。薄目を開けると、まだ、小さな掌を組んで、目を固く瞑って、真面目に祈っている。

 エルマと会えていなければ、両親にも先立たれたあたしは、生きていけなかったかもしれないとさえ思っている。

 守りたい人がいるという事で、あたしはどうにか踏みとどまって、生きていられる。

 「じゃあ…、今日は、仕事をまた探してくるから、この家から出ないで、お利口さんにしていてね」

 そして、もう一つの日課を、家を出る前に、忘れずに済ませる。

 身を屈めて、エルマの額に自分の額を当てる。

 そこに「熱」がないかを確認する。今日も、彼女の額の温かさは、幸い、いつも通りだ。

 ‐この子に病の悪化の兆候がないのを確かめ、今日も安堵する。

 ボロボロの、一足しかない靴に足を入れて、あたしは、玄関で、エルマの目線に合わせて身を屈め、見送る彼女の頭を、もう一度撫でてやる。

 「今夜は、わたしが寝る前にあの綺麗な声で、お歌を歌ってくれる…?」

 その言葉に、ちくりと胸が痛んだ。日雇いの仕事などを転々としていれば、決まった時間に帰る事も難しい。エルマに一人きりで、時に夜遅くまで留守をさせるのは、不安を常に伴う事だった。

 今の生活も変え、安定して稼げる職を見つけなければ、エルマの安全を守るのは難しい…。そんな事は勿論分かっていた。しかし、興行団で働けない白狼族が安定して稼ぐ事は難しい。都市部で、高収入な仕事に就くなどほぼ不可能だ。西洋人がやりたがらないような、危険だったり不衛生だったりするような日雇いの仕事しかない。

 最近、この街でも増えた、ニッポン人など、東洋人の移民も仕事探しは大変らしいが、白狼族についてはそれ以上の厳しさだった。

 門前払いされるだけなら、まだ良い方だった。白狼族が働き口を求め、訪ねて来ただけで腹を立てて、いきなりバケツで水を浴びせてくるような西洋人もいるのだ。

 「…ああ、そうだね。頑張って、今度こそ、いい仕事見つけてくるね。それで、夜は一緒に寝よう。お歌も、歌ってあげるから」

 エルマには、今は気休めの、その場しのぎの言葉しか言えない。遅くに帰った時、毛布に包まって、頬には涙の痕のある寝顔で、既に寝入っているエルマを見て、何度、胸が痛んだか。「約束を守ってあげられなくてごめん…」と胸の中で、何度謝ったか、数えきれない。

 あたしは、「今日こそ、お仕事は何とかなるから…」と自分に言い聞かせ、粗末な家を後にする。そう思わなければ、やっていられない。

 もう、あの子に食べさせられるものも、家には殆ど残っていない…。一刻も早く、仕事にありつかなければ…、焼け付くような焦りで、腹の底が熱くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る