星空の下の子守唄

 視点:スミレ

 故国日本の、あの村を離れて、この国に移住してから5年の歳月が過ぎた。

 日本とは全く違う、西洋の文化に染まった新大陸での暮らしに、移住した当初は、戸惑う事も多かった。

 しかし、片言であればこの国の公用語である、英語も話せるようになった。

 私と父は、この国のとある都市の隅の、日本人街で生活していた。

 私も父も工場地帯に働きに出て、二人の稼ぎで、何とか生活は成り立っていた。

 工場での稼ぎだけで足りない分は、とある女主人が切り盛りする、日本人街の一角の酒場でも働いて、生活費の足しにしていた。

 常に飢えとの戦いだった、あの村の事を想えば、決して豊かではないが、この国での生活は数段もましだった。

 

 最近、私には、工場での仕事が終わった帰り道、細やかな楽しみにしている事があった。

 「ああ、今日も、何処かの御屋敷で歌ってる…。『白狼族』の人達の歌声だ」

 富裕層が暮らす、西洋館が立ち並ぶ住宅街。そこの一角を歩いていると、今日も、人間の歌声とは明らかに異なる、澄んで、何処までも届くような歌声が、音楽に乗って聞こえてくる。

 それは、何処かの邸宅での夜会に招かれている、「白狼族」の興行団が奏でる、歌と音楽だった。

 彼ら、彼女らの歌は、「白狼族」の言葉で織りなされている為、歌の意味は分からない。けれど、夜空へと吸い込まれていく、凛とした中にも、何処か郷愁も感じさせる、不思議な歌声を聞きながら、瞼を閉じれば、私はいつもそこに浮かんでくる光景があった。

 それはきっと、遠い昔、「白狼族」の人達が暮らしていたのであろう、彼ら、彼女らの故郷だった。霧が薄っすら立ち込める、鏡のように、波一つなく静かな、湖。その畔(ほとり)に立つ針葉樹林の木々。そして、見た事もない、異国の色とりどりの花々。

 邸宅から漏れ聞こえる「白狼族」の歌声を聞くだけでも、私はそうした場所へと行く事が出来た。

 立派な鉄製の柵の向こう、西洋人の邸宅の2階に、大きなバルコニーが見える。白亜の建物の中から零れだした眩しい光に照らされ、そこでは、金髪の西洋人の男女らが、華麗な夜会服、パーティードレスに身を固めて、葡萄酒の注がれたグラスを手に見つめていた。「白狼族」の歌声や、名前も分からない楽器の音色を組み合わせて、編まれる音楽に、耳を傾けているようだ。

 「白狼族」の歌や民族音楽、舞踊。それらのエキゾチックな世界観に魅せられて、邸宅に興行団を呼ぶ、西洋人移民の富裕層は沢山いた。

 最初に「白狼族」の人々の姿を見た時、衝撃を受けた。私達とは違う、明らかに狼のそれに酷似した二つの耳が、白銀色の髪の隙間から生えている。色素の薄い肌の色も、雪を思わせる程の白さで、まさに「白狼」と呼ばれるに相応しい風貌だった。

 この国の先住民である「白狼族」。その、人間には真似出来ない、唯一無二の歌声に魅了されるようになってからは、あの人達の事を、もっと知りたいと思うようになっていった。


 何より、「歌で生きていく」事を実現している、白狼族の人達の姿に、私は憧れもあった。 

 「あの人達はすごいな…、歌で生きている。私は、現実を見て、歌を捨てて働くか、それとも歌の道で頑張るか、決められずにいるのに」

 遠くから響く、白狼族の歌を聞きながら、浮かぶのは、いつも、そんな思いばかりだった。


 『スミレちゃんの歌は、才能があると、私は思っているわ。スミレちゃんには、歌の道で頑張ってほしい』

 私が働いている日本人街の酒場の、女主人。そして、私がこの国に来たばかりの頃は、言葉が全く分からない私の為に、英語を教えてくれたり、他にも色々世話を焼いてくれたりした人-、マリコさんの言葉を思い出す。

 私の歌を始めて聞いた時から、マリコさんは、私に、度々、歌の道に進む、第一歩を踏み出す事を提案してくれた。彼女自身も、音楽の才があり、酒場では、お客さんのリクエストがあれば、プロも顔負けの歌唱力の歌で、日本の歌謡曲を披露する。


 この国に馴染んで生活していく事は、マリコさんの支えがなければ出来なかったろう。私の事をよく見てくれていた彼女の、その言葉には私も、気持ちは揺らいだ。

それでもまだ、私はその道に、覚悟を決めて足を踏み出す勇気は持てないでいた。


 ‐そうして今夜も、住宅街の中を走る道を、夜風に乗って聞こえてくる歌声、楽器の音色に耳を傾けて、歩いていた時だった。

 道の向こう側から、ぞろぞろと何人かの、民族衣装に身をまとい、楽器らしきものをぶら下げている、「白狼族」の一団が歩いて来る。明らかに、興行団だった。何処かの御屋敷の夜会での演奏からの、帰り道のようだった。

 皆、上機嫌に「白狼族」の言葉で、賑やかに何かを話している。

 その時だった。

 「白狼族」の集団に向かって、一人の小さな影が、何かを叫びながら追いすがるのが見えた。私は目を凝らす。

 街灯の下で、興行団が足を止めて、一斉に振り返る。

 

 そこに、一人の少女が追い付いた。街灯の光を一瞬浴びただけでも、眩く、銀色に煌めく髪の色…、それは遠目でも、一目で白狼の少女だと分かった。

 そして、彼女の存在に気付いた瞬間、夜会帰りで上機嫌だった白狼族の者達の空気が変わったのも、一瞬で分かった。彼ら、彼女らの表情が一様に険しくなり、彼女を睨んだ。

 興行団の団長らしい男が、肩を怒らせながら、彼女の前に出てくる。

 彼女は、石畳の上に跪き、団長らしい男の足に、縋り付かんばかりにして、何かを必死に頼み込んでいる。

 彼女に相対していた男は…、跪き、何かを頼み込む彼女に向かい‐言葉は分からないが‐、何事かを怒鳴った。

 そして、少女に向かって、力いっぱい蹴りを入れた。

 蹴飛ばされた彼女は、道の冷たい石畳の上に、倒れ込み、痛みからか背中を丸めた。倒れ込んだ彼女の姿を見ても、興行団の他の白狼族の男女達に、助けようとする気配は全くない。そればかりか、転がっている彼女の姿を見て、どっと、冷笑の声まで上がった。


 彼女が、一体、興行団に何をしたというのだろうか?

 この衝撃的な現場に出くわして、私は固まってしまっていた。

 彼女はそれでも、生まれたての小鹿が、何とか自らの足で立とうとするが如き危うさで、両手、両足をついて、ふらつきながらも、立ち上がろうとした。団長を呼び止めようと、また何かを口にする。

 立ち去ろうとしていた団長は、つかつかと、彼女に向かって行くと、更にもう一蹴りを無情にも彼女の腹に叩き込み、蹴り飛ばした。捨て台詞らしい言葉と共に。

 興行団の白狼族は、腹を押さえて倒れた彼女に、誰ももう見向きもせずに、歩き去って行く。途中で、私の存在に気付き、日本人が珍しいのか、ジロジロと見られたが、何か言われる事はなかった。


 彼らが歩き去って、ようやく体が動くようになった私は、路上に倒れたままの白狼族の少女に駆け寄った。この国の公用語である、英語で話しかける。

 「しっかりして!怪我はない⁉」

 石畳に倒れ込んだ表紙に擦り剥いたのか、唇の端も切れて、血が流れていた。

 私は、痛みで気を失っているらしい彼女を抱え起こそうとして…、すぐに彼女が、他の白狼族とは違う事に気付いた。

 彼女の、美しく流れる銀髪。その隙間から生える狼の耳は「片耳」しかなかったから。

 彼女には、右耳は影も形も存在せず、左耳だけが、彼女が白狼族である事を証明していた。

 「この子…、どうして、左耳しかないの…?」

 その事は確かに気になったが、今は彼女の介抱が先だ。

 彼女の頭を、石畳から、膝の上へと移す。

 鞄から、工場で怪我をした際に、応急処置出来るように持ち歩いていたガーゼを取り出し、彼女の唇から流れた血を拭き取る。

 顔に触れられている感覚で、目が覚めてきたのだろう。白狼族の、「片耳」の少女は、瞼を薄く開けた。長い睫毛に縁どられている、その目の、色素の薄い瞳が私を、真っ直ぐに見据えた。

 やつれて、汚れていながらも、隠しきれない、その顔の造形の端麗さに、私は思わず息を呑んで、しばし、私は彼女の顔を見つめていた。

 咄嗟に、彼女が瞼を開いたものだから、その下から現れた彼女の瞳と、私の瞳。その二つの視線が、ほぼ一直線に繋がり、数秒の間だけだが、真正面から見つめ合う形になった。

 最初、何が起きているか分からなかったようだが、やがて、私の顔を認識して、更に、自分の頭が、私の膝の上に乗せられている事に気付くと、彼女は大きく目を見開いた。

 「〇△※…⁉」

 彼女は大層驚いた様子で、白狼語で何かを叫んで、私の膝から飛びのく。そして、痛そうに、蹴られた脇腹を押さえる。白狼族からすれば、見慣れない人種である日本人の私に、目が覚めたら介抱されていたのだ。警戒もされるだろう。

 「ごめん、驚かせて!でも、貴女が、さっきの人達に酷い事されて、怪我もしていたから手当してただけよ…!どうか、安心して」

 拙い英語ではあったが、必死に訴える。白狼族の人々もある程度は、英語は話せた筈だ。

 そして、私の言葉はちゃんと彼女に通じたらしい。彼女は、ばつの悪そうな表情になり、白狼語ではなく、英語で、こちらに返事をくれた。

 「あんた、見てたのか…、さっきのあのやり取りを…。格好悪いとこ、見られてしまったな…」

 彼女は頭を搔いた。やはり、先程のあのやり取りは、見られたくない場面だったようだ。男の子のような口調で、彼女はそう言う。その声は、冬のよく晴れた朝の大気のように、澄み渡っていた。白狼族は皆、美声ばかりだと聞いていたが、彼女の声は、とりわけ、私の胸の中にすっと、沁み込んでいった。

 「通りすがりのところ、迷惑かけて悪いな…。でも、あたしはもう大丈夫だから、帰るよ、ありがとう…」

 そうして、彼女は顔をしかめながらも、無理やりに立ち上がる…。

 しかし、すぐに、足をふらつかせて、よろめく。私は急いで立ち上がって受け止める。

 「無理したら駄目よ!まだふらふらしてるし…」

 彼女がまた倒れ込んで、その綺麗な顔を打ってしまわないように、支えていると、彼女の腹がぐうと、大きくなった。

 街灯を受けて、陽の光で白く輝く雪原のように見える、彼女の頬の肌に、薄く朱が差した。

 「貴女、お腹空いてるの…?」

 彼女は恥じらいながらも答えてくれた。

 「…ああ、もう何日、まともな飯にありつけてないよ…。日雇いの、誰でも雇ってくれるような仕事で入るお金じゃ、たかが知れてるし…。パン一個も買えやしないから」

 彼女の横顔はやつれている。事情はまだ分からないが、ろくに食べ物にもありつけていないというのは本当なのだろう。

 私は、鞄の中に詰めていた、茶色の紙袋に手を伸ばす。

 「それだったら…」


 住宅街の中にある、公園のベンチに、二人並んで腰を下ろした。

 白狼族の、「片耳」の少女は、パンにかじりついていた。今日の晩御飯の予定だった、日銭で買ったパンを、彼女に分けていた。

 「これ、貰って、良かったの…?あんたの晩ご飯じゃなかったのか」

 「うん、でも、あのまま帰していたら、お腹が空いてふらふらして、また倒れそうだったから、ほっとけなくて…」

 「本当にお人好しなんだね、あんた…。見ず知らずのあたしを介抱してくれて、貴重な食べ物まで分けてくれて…」

 パンの最後の一欠けらを口に放り込み、彼女は飲み込む。

 「聞いていいのか、分からないけど…、さっき、なんで、あの人達、貴女をいきなり蹴飛ばして、置いて帰るなんて、酷い事したの…?」

 興行団とどんな会話をしていたかは、白狼語で話していたから、私には分からなかった。しかし、罵声を浴びせられていたらしい事くらいは、あの剣幕を見れば分かる。

 彼女は苦々しい表情をして、唇を噛む。

その時、唇の隙間からちらりと垣間見えた、その犬歯の鋭さに驚く。やはり、彼女は、私とは、人間とは違う種族なのだと実感する。

 「…門前払いされたところだよ。興行団に、歌や音楽はやらせてもらえなくてもいい。雑用でも飯炊きでも、何でもやるから雇ってくださいって、頼み込んだけど、相手にもされずに蹴飛ばされて、この有様。もうこれで、いくつの興行団に断られたか、途中から数えるのもやめたよ。『お前みたいな、不吉な業病(ごうびょう)の、『片耳病』を雇うような、悪趣味な興行団が何処にいる』って、皆そればっかり」

 業病…?片耳病…?白狼族について、歌や音楽、舞踊などに優れた人達がいるという事以外、何も知らない私は、疑問符が頭の中を飛び交う。

 そして、彼女は自分の頭の、左耳しかない狼の耳に、指先で触れた。

「まぁ、元はと言えば、こんな風に…、あたしが、片耳しかないのが、全部悪いんだけど」と、吐き捨てるように言った。そして、私へと尋ねてくる。

 「あんたも、こいつが気になってただろう?あたしが、左耳しかないの。片耳な事」

 「その事と、興行団で働かせてもらえない事が関係あるの?」

 「…あんたは、あたしらの部族の事、まだよく知らないんだな。白狼族の中で、生まれつき片耳しかない奴は、あたしらの中では、不吉な病気の「片耳病」…。呪われてるに等しいくらいの意味で、前世のばちが当たっての『業病』っていう扱いだから…、部族の皆、本当はあたしなんかに関わりたくないんだよ」

 彼女は、深い溜息と共に、吐き捨てるように、私にそう言った。

 片耳しかない病は、白狼族にとっては「呪い」に等しいと…。

 「呪い」と病…。私は、故郷の村を襲って壊滅させた…、高熱と共に発疹が現れて、村人の命を奪って行ったあの忌まわしい病も、村の老人を中心に、「あれはただの病などではない。人ならざる者の呪いだ」とか、色々と噂されていたのを思い出した。それは、病になす術を持たない村人を、更に恐怖と絶望に陥れた。

 海の向こうの、この国でもそれは同じようだった。正体不明の、抗う術も何も分からない恐怖に晒された時、非力な人間は、「呪い」だとか、超自然的な力を原因にしようとする。「呪い」という事にしてしまえば、自分の無力さも、理不尽な運命も、仕方のない事だと諦めもつくから。

 そして、「呪い」の病にかかった者を、忌み嫌って遠ざけようとする風習も、故郷の日本の村でも見た光景だった。この地の先住民である、白狼族も、そうした風習は私達にそっくりなようだ。

 故郷の村の病の事-、私の、大切な母も、そして妹まで奪い去っていった、あの死神の事を思い出して、私は、自分の表情が曇っていくのを感じた。

 それを見た彼女は、私が、彼女の話を聞いていて、重たい気分になったのかと心配したようだった。

 「初対面で、こんな重い話、聞きたくないよな。あたしも、していて気分のいい話じゃない…。ところで、あんた、見慣れない顔だね。一体何処の国から来たの?」

 無理やりに話題を切り替えるようにして、彼女は、私について尋ねてきた。

 「私は、日本人よ。まだ、この国に移り住んでから5年。ここの日本人街に住んでるわ」

 「ニッポン人か…。最近、この街にも増えてきたって、聞いてはいたけど、あたしが直に話すのは、あんたが初めてだよ。名前は?」

 「スミレよ。ニッポンの花の名前」

 「スミレか…。その花は見た事ないけれど、綺麗な響きの名前だね。あたしはルナ。この市の郊外にある、白狼族の保護区で暮らしてる。まぁ、この『片耳病』のせいで、そこでも、爪弾きなんだけどね」

 彼女の、澄んだ声で、名前を呼ばれて、綺麗だと褒められた時、私は、胸の鼓動が一瞬、早くなる。

 今まで、感じた事のない感覚に戸惑う。

 「ルナも、綺麗な響きの名前だと思うよ」

 私はそう返した。

 ルナは、短めの銀髪の下に覗かれる、項から首筋のところまで、仄かに赤味が差す。


 噂に聞いていた通りの、雪を思わせる肌の白さだ。ベンチに座り、月の、弱い銀白色の光を浴びた彼女は、神々しい美しさを感じさせる。彼女の色は全て、「白狼族」の名の通り、銀色と、新雪の白色で構成されていた。

 口調はさばさばとして、男の子のようなのに、褒められるのに慣れていないのか、反応が可愛らしいと思う。

 「何か…、ルナってちゃんと名前で呼ばれるとこそばゆいな…。村の連中からは、『片耳』とばかり、呼ばれてるからさ」

 そして、ルナはベンチから立ち上がると、夜空を見上げる。

 「私と同じくらいの年でも、興行団では歌って生きている白狼族は何人もいるのに、片耳のせいで、歌で生きていけないのが、悔しい…。こんな耳じゃなければ、胸を張って、歌う事が出来たのに。でも、何処の興行団に行こうと、門前払いで、雑用すらさせてもらえないあたしには、歌を歌って生きていくなんて、夢物語だよ」

 彼女が、どれ程、自分の片耳を憎んでいるかが分かった。言葉に口惜しさを滲ませる。月の光を受けて、彼女の目尻がきらりと光る。


 そして、彼女の言葉を聞いた時、私は、『ああ…、種族は違うけれど、この子は、私と何処か似ている』と感じた。

 ルナという、この少女もまた、歌を愛して、歌で生きていきたいという夢を抱きつつも、現実の前に打ちのめされて、足を止めざるを得なくなっている。

 きっと、彼女の置かれている状況は、私よりもずっと厳しいが…。


 「ルナの歌を、聞いてくれる白狼族の人はいなかったの…?上手だねって褒めてくれるような人は…?」

 私がそう尋ねると、ルナは、苦々しい表情をして、こう答える。

 「…一人だけいる。あの子だけは、私の歌を好きだと言ってくれる…。だけど、それ以外の集落の白狼共は、あたしが歌っているところなんて見つけたら、あたしを袋叩きにするだろうね。片耳しかない奴は、見られないように姿を隠して暮らしていろというのが、白狼の集落の掟だから。あたしの歌を聞きたいなんて人、今まで誰も…」


 どれ程歌を愛していても、自分の歌を誰にも聞いてもらえない…。それは、想像するだけでも苦しい事だ。

 まだ、平穏だった頃の故郷の村。そこで流れていた、細やかな、幸せな時間を、私は思い出す。私には、歌が上手だと褒めてくれる、祖父母も母も、近所の子供達もいた。そして、私の声で、子守唄で寝る事を何より好んだ妹、ヤエも。その人たちは、皆、あの無慈悲な風土病で、冥府に召されてしまったが…。

 ルナには、歌を褒められたような体験も殆どないらしかった。彼女がいう、ただ一人の存在を除いては。


 星々が散りばめられ、瞬く夜空に、ルナの話し声は吸い込まれて消えていく。

 彼女の、澄み切ったこの美声を聞いているのは、私の他には、夜空で銀に光る星達だけだ。

 彼女の声で作り上げられる、白狼族の歌の世界に、私は、行ってみたいと思った。きっと、ルナの歌声でしか作りだせない、歌の世界がある筈だ。

 彼女の声を、このまま、星達にだけ聞かせているのは、あまりにも勿体ない。

 

 だから私は、ルナにお願いをした。

 「ねえ、ルナ…。もし良ければ、私の前で歌ってみてくれない?ルナの声で、聴きたいの。白狼族の歌を」

 ルナは、面食らったような表情で私を振り向く。まさか、そんな言葉を投げかけられるとは、思ってもみなかったようだ。

 「聞きたいの?あたしの歌を?興行団で歌の練習もさせてもらえた事なんてないし、完全に、あたしの我流だけど…。そんな、スミレが期待してるような上手なものじゃないよ」

 「ルナの澄んだ声を聞いていたら、どんな歌声なんだろう。ルナの声で歌われる、白狼族の歌の世界に行ってみたいって思ったから。ほんの少しでもいいの。聞かせてほしい」

 ルナは、考える時の癖なのか、再び夜空を見上げる。

 住宅街の街灯は、都市の中心部に比して、少な目なので、街の中でもこの公園は、星の煌めく空が見える。

 その星空の、弱い光を受けて、彼女の短めの銀髪はよく映えていた。彼女の髪色は、星が放つ、淡くて、銀色にも見えるその光を集め、細い銀の糸に変えて、流したかのようにも見える。

 「…それなら、本当に、少しだけな。ここは、住宅地だし、あんまり声は出せないけど…」

 褒められ慣れていないらしい、彼女は、首筋をほんのり赤くしたまま、私の方は見ずに…、やがて、星々に聞かせるようにして、その歌声が響いた。

 その瞬間に私は、自分の意識が、体を離れて、この、西洋人が作った近代的な都市からも離れ、星々と月の光だけが照らす夜空。夜風が吹き抜けて、水面が波打つように揺れる、平原の草たち。目に映るものは、それだけしかない場所へ、旅だっていた。

 

 それは彼女の部族…白狼族が生きていた、原初の自然の風景なのだとすぐに分かった。そんな、人工の物は何もない、光も乏しい世界であるというのに、私は、不思議な事に、心細さのようなものは何も感じなかった。ルナの喉から発せられる、私達人間には出す事が不可能な声。歌われている言葉の意味は、分からない筈なのに、その歌声から、愛を感じた。

 その歌の愛とはきっと、恋人への愛のような、そうした熱情的なものではなく、幼い我が子か、或いは弟、妹などに向ける、穏やかな、家族としての愛だと感じた。

 愛する子へ歌う、子守唄…。その、安らぎを感じさせる声の抑揚から、私は、この歌の事を、直感的にそう感じ取っていた。

 『これは、きっとルナの種族‐白狼の人達の子守唄なんだわ…。人間と白狼族。種族も言葉も全く違うのに、故郷の村の子守唄と、同じ安らぎを感じる…』

 故郷の子守唄。その曲を思い出した刹那に、私は、鼻がつんと、熱くなるのを感じた。

 『スミレお姉ちゃん…!』

 今は亡き子の声が、私の耳の傍に舞い降りる。

 その声を思い出すだけでも、私は未だに、哀愁や感傷や、罪の意識が入り乱れた感情に、胸を抉り取られるような痛みを覚える。


 その痛みに、目を伏せると、私が歌う子守唄に、心地良さそうに目を閉じて、私の膝の上で、すやすやと寝息を立てていた、ヤエの顔が瞼の裏に浮かんでくる。そして…、その優しい思い出の中のヤエの顔は…、忌まわしい発疹に覆われ、熱でやつれた末に、二度とその瞼を開く事は亡くなった、あの日のヤエの、変わり果てた顔に変わる。目を開けて、それを必死に打ち消す。



 「どう…だったかな?あたしの歌。こんな、真剣に聞いてくれる人がいるの、初めてだから、緊張した…!」

 ルナの声で、私ははっと、意識を現実に引き戻される。見れば、ルナの顔がこちらを向いて、私の方に自信の持てなさそうな表情で、私の感想を待っていた。

 「やっぱり、下手だったよな…、興行団で食ってるような人達に比べりゃ、あたしの、一人でこっそり練習してきた歌なんか…」

 私がしばらく押し黙っていたから、どうやらルナは、評価に困っていると受け取ったらしい。

 彼女が、凹んだ表情を見せそうになったので、私は急いでそれを否定する。

 拍手をしながら、私はルナに、感想を述べた。

 「そんな事ないよ…!ルナ。急な我儘だったのに、歌を聞かせてくれて、ありがとう。ルナの歌声が耳に入ってきた瞬間に、何処までも広がる星空と草原しかない場所に連れていかれたみたいな、不思議な感覚がして。それなのに寂しいとか、心細い気持ちとかはなくて、子守りをされながら、眠りについていくみたいな、安らいだ気持ちになった。…多分、今の歌、白狼族の子守唄かな?」

 私の直感を述べただけだったが、それは正解だったようだ。ルナが、驚きに目を丸くする。

 「あんた…、もしかして白狼語、分かるのか?」

 「いえ、白狼族の言葉は、分からないけれど…。言葉の意味は分からなくても、歌声の抑揚とかを聞いていたら、何処か、私が故郷の村で歌っていた子守唄に、何処か、歌い方が似ているなって感じたから」

 「…驚いたな、言葉が分からないのに、何の歌か分かるなんて。そう。これは、あたしたちの種族なら、皆歌える、大切に受け継がれてきた子守唄。夜が怖くて泣く、白狼の幼い子供らに、夜空の星々があなたを見守ってくれてるから、怖がらなくていい…と、語りかけるような、そんな歌だよ」

 そう語りつつ、ルナは、ベンチの、私の隣に腰を下ろす。

 「子守唄の話をしてたけど、あんたも、もしかしてよく歌を歌っていたの?」

 「昔から、歌うのは好きよ。故郷の、日本の村でもよく歌ってた。スミレは本当にお歌が好きだし、上手だねって、村の皆には褒められていたわ。それで、この国に来て、ルナ達白狼族の歌を知ってからは、白狼族の歌をすごく好きになった。いつも、興行団の人達が、お屋敷で歌っている声が外に漏れてくるから、実は、この辺の住宅街にこっそり、歌声をよく聞きに来てたの」

 「それで、この辺をほっつき歩いてたんだ。見かけない顔だなと思ったし、西洋人じゃないから、ここの住人じゃなさそうだとは思ったけど…。でも、じゃあ、あたしなんかより、もっと上手い、興行団の人達の歌もきっと、沢山聞いてきたよな。あの人達と比べられたら恥ずかしいな…」

 私の話を聞いて、ルナは、少々、自信を無くしたようにそう言った。私は、急いでそれを打ち消す。

 「そんな事ない…!私は、このあたりで、色んな興行団の人が歌ってる声を聞いたけれど…、それでも、私はルナの歌声が好きだって思ったよ」

 ルナは、照れ臭そうに、頬をまた染めると、左耳を、ぺたんと折りたたむ。

 「あたしの歌声、そんなに良かったかな…。でもまぁ、そこまで気に入ってもらえたのなら、嬉しいよ、あたしの歌の事」

 折りたたまれた耳を見て、白狼族の人達は、恥ずかしい時や照れた時には、このように耳を動かすのだと、初めて知った。その仕草を、私は可愛らしいと思った。

 

 彼女は夜空を見上げ、月の動きに目を向けると、それで、時間の流れを悟ったらしかった。

 「おっと、もう、こんな時間か…。スミレ。見ず知らずのあたしを助けてくれて、おまけに、歌まで聞いて、褒めてくれて、ありがとな。今日も、あちこちの興行団で追っ払われて、最悪な一日で終わるのかって思った。でも、あんたに会えたから、今日は少しだけ、悪いばかりじゃなかった一日で終わりそうだよ。家で待ってくれてる、大事な家族がいるんだ。もう帰らなきゃ」

 彼女はそう言って、ひらひら、別れの合図のように掌を振ると、「ここは広くはない街だから、また、何処かで会うかもな。それじゃあ」と言って、ベンチから離れ、公園の外へと、私を残して去って行った。

 

 私とルナ。のちまで続く、二人の繋がりは、この夜の公園が始まりだった。

 彼女が、とても苦しい立場で、集落で暮らしているのは間違いなかった。それでも、そこに、彼女の帰りを待ってくれる家族もいるらしいという事が分かって、私は少し、胸を撫で下ろした。

 独りぼっちの家に帰って行く彼女の姿は、想像したくなかったから。

 「ルナが言っていた、今まで一人だけ、自分の歌を好きだって言ってくれた人って、もしかして、その家族の人なのかな…」

 

 遅くなった帰り道、星々を見上げていると、先程聞いたばかりの、彼女の歌声の名残りが、まだ夜空に残響しているような心地がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る