故郷に眠るは、悲しき思ひで

視点 スミレ

 私が暮らす、この村は、絶望の底に沈んでいた。

 凶作と、疫病。二重苦が村へと襲い掛かっていた。

 凶作の為に、私達には、村の外へと売る作物はおろか、今日、明日を生きながらえる糧すらも、僅かしかなかった。

 台所のかまどにも、もう何日と、火を入れていない。炊く穀物もないからだ。少しの野菜と味噌だけが、私と父と、そして…、床の間で、消え入りそうな命火を、まだ辛うじて繋いでいる、ヤエの、三人家族の食料だった。

 「ヤエの具合の方は、どうだ…?スミレ」

 枯れた、寒々しい景色の畑へ、今日も出て行く、父の後ろ姿には、哀愁すら感じられる。

 「…せめて、もっと、栄養のある物を食べさせてあげられたら…。たった、これだけの食べ物じゃ…」

 台所に立って、何も乗っていない、まな板の木目を眺めていた私は、無力感に拳を握りしめる事しか出来ない。私自身も、そのような栄養豊富な食物など、もう長らく口にしていなかった。父も同じだ。

 「食べ物の事は、どうする事も出来んさ…。村のどの家にも、もう、人の家に食べ物を分けられるようなところはないんだ。わしらに出来る事は、せめて…、ヤエの傍に、最期まで…」

 「分かってる。それ以上はもう…、言わないで」

 玄関に座っていた父は哀し気に溜息を一つつくと、床を軋ませて、立ち上がる。そのまま、木の引き戸をガラガラと開けて、仕事に出て行った。

 ‐妹のヤエを蝕んでいる疫病が、村に蔓延してから、多くの村民が、悲しみの喪に服した。

 食べる物の確保も難しい凶作で、皆の体が弱る中で、この疫病の流行。

 もしも神が本当に存在するならば、あまりに神は非情だ。このような苦難を目にしても、何の天の助けも、この村に降りる気配はないのだから。人々は飢えによって衰弱し、忌まわしい疫病でとどめを刺されるように、死んでいった。死者が眠る、村はずれの、石を積み重ねて作った塚の数も、かつてない程の早さで、増えて行った。

 家の外に出れば、近所の村人が泣きながら、荷車に、わらのむしろを被せられた家族の亡骸を乗せて、村に一つだけの寺へと運んでいくのを、毎日のように見た。

 最早、疫病と凶作の二重苦で、村の日常が崩れ去っていくのを、誰も、どうする事も出来なかった。無力感と悲しみだけが、この村を飲み込んでいた。

 「スミレ、お姉ちゃん…」

 苦しそうな、掠れた声で、床の間から、私の名を呼ぶ。その声に私は、すぐに、彼女の元へと駆け付ける。

 この疫病に倒れた、愛する妹、ヤエの元へ。

 愛らしい彼女の顔が、幾つもの発疹に覆われて、更に、熱の為に上気し、赤らんでいる。

 高熱が下がらなくなり、何度も、冷たい井戸水で冷やした手拭いを、彼女の額の上に乗せていた。しかし、ヤエの額からそれを取ると、その手拭いは、私の冷え切った手には、熱い程だった。

 目は潤んでいて、徐々にその視線も、焦点が定まらなくなってきている。それでも、まだヤエの瞼がしっかりと開いている事に、ほんの少しだけ、胸を撫で下ろす。

 この病が進めば、やがて意識が薄れて、瞼は閉じられ、瞬きさえもしなくなると、私は聞いていた。そうなったら、死期はもう目前であると。

 少なくとも、今はまだ、その段階まではヤエの病は進行していない事だけは、私にも分かった。

 「お姉ちゃん…、わたし、元気になる…?また…、スミレお姉ちゃんとも、お隣のチハヤちゃんとも、遊べるようになる?」

 もう何度となく、ヤエの、熱に乾いてひび割れた唇の隙間から、発された問いだ。

その問いを投げかけられる度に、私は、拳を握りしめる。ヤエに、気休めの為の嘘を言い、束の間の希望を持たせる。そんな事の繰り返ししか出来ない自分を呪って

 「…大丈夫よ、ヤエ。お姉ちゃんが付いてるから。絶対、流行り病なんて治って、元気いっぱいに遊べるようになるよ。お姉ちゃんとも、お隣のチハヤちゃんとも」

 その問いに、定められたように同じ台詞を私も繰り返す。そして、かけ布団の下に左手を差し入れ、私のそれより、一回り小さい、ヤエの手をぎゅっと握りしめる。

 「お姉ちゃんの手、冷たくて、気持ちいい…」

 私の掌の温度を気に入ったのか、ヤエは、私の掌を両手で掴むと、自分の頬に摺り寄せるようにした。彼女の熱が、手の肌を通じて伝わってくる。

 これだけ接しているのに、私も、それに父も全く感染する気配がない。それが、この流行り病の不思議なところだった。

 私達姉妹と父を遺して先だった、母がこの病に倒れた時も同じだった。まるで、死に神に、家族の中で選ばれたように、彼女だけが急に衰弱していき‐、そして息絶えた。あの時と同じ死に神が、母の次は、私の大切な妹のヤエにも、その鎌を無情にも振り下ろしたのだ。

 その鎌の餌食にされたのが、私ならば、どれ程良かっただろう…と、みるみるうちに弱っていくヤエの姿を、傍で見ているしかない私は、幾度も思った。

 「お姉ちゃん…、お歌を、聞かせて…。いつもの、綺麗な声で…」

 ヤエの求めに、私は、空いている方の右手で、彼女の背を優しく叩き、寝かしつけるようにしながら、彼女の好きな歌を歌って聞かせる。村に伝わる子守唄を。

 ‐貧しい村にあっても、歌を歌う時間だけは、私にとって、いつも特別な物だった。

 今は亡き母。それに、同じく、亡き祖父、祖母からも

 「スミレはお歌が本当に好きなんだねぇ。これはきっと、将来は歌手になるかもしれないねえ」

 と、歌を褒めてもらえた。

 歌を歌うと、褒めてもらえるのが嬉しくて、どんどん、私は歌を覚えた。物心がついた頃には、村でよく耳にする民謡の類いは、完璧に詩を覚えて、歌えるようになっていた。

 母が、まだ赤ん坊のヤエに、子守唄を歌って、寝かしつけているところを見てからは、よく真似して、私もヤエに、子守唄を歌ってあげるようになった。

 「あら、ヤエは、スミレが歌って聞かせる方が、寝付くのが早いみたいね。流石は、我が家の歌上手さんね」

 母も農作業に出て、ヤエをあやせない時には、私が彼女のおもりをするようになった。私が子守唄を歌って聞かせると、ぐずり出した時などでも、ヤエは不思議な程に落ち着き、すやすやと寝息を立てて、眠り始めるのだった。

 いつしか、近所の子供達からも「歌上手のスミレお姉ちゃん」と呼ばれるようになって、その子達にも歌を聞かせたり、一緒に歌ったりするようにもなった。

‐あの子達も、多くはこの、村を食らいつくそうとするような疫病の為に、幼い命を散らしてしまった。


 ‐今のヤエは、私の二つ下だから、もう、十歳になる。もう、子守唄を歌って、寝かしつけるような歳ではない。けれども、あの頃、私の歌声で感じてくれた安らぎを、病の不安の中で、求めているのだろうか。赤ん坊に返ったかのように、私に、寝付くまで、子守唄を歌い聞かせてと、せがむようになった。

 歌いながら、私は何度も、声が詰まりそうになった。歌声に、嗚咽が混じりそうになるのを必死で押し殺した。涙が零れないよう、瞼を閉じる。

 『ヤエが病で苦しんでるのに、こんな事しか出来ないお姉ちゃんを、どうか許して…』

 そう、何度も心の中で、泣き叫んだ。この歌で、体の苦しみしかない現世から、眠りの世界へ、少しでもヤエが逃れる事が出来るのなら…。

 しばらくすると、赤ん坊の頃と変わらぬ寝息が、私の耳に届く。彼女が寝入った事に気付くと、私は、そっと、ヤエの布団の傍から少し離れ、指先で、目尻に溜まった雫を拭う。

 その時、玄関の引き戸をコンコンと叩く音が鳴った。

 「スミレお姉ちゃん、いる…?チハヤだけど…」

 ヤエと変わらない年頃の、幼い声が、木の引き戸越しに聞こえてくる。私は急いで、玄関の方に向かう。

 ヤエと同い年の、お隣の家の子である、チハヤがそこに立っていた。

 彼女は、私と同じく、老若男女問わず、村人を襲う、この疫病にもかからずに済んでいた。

 チハヤは、ヤエの一番の親友だった。ヤエが病に臥せてからは、こうして、毎日のように、私の家にやってくる。ヤエの具合を聞く為に。

 彼女は、眉を不安そうにひそめ、私を見上げながら、同じ問いを口にする。

 「ヤエは、元気になってる?本当に、ヤエは、大丈夫なんだよね…?」

 私は、チハヤに会うのが怖くなっていた。ヤエが病に倒れてからというもの、彼女は、私を見つければ、ヤエの具合はどうなのか、本当に助かるのかを、繰り返し尋ねてくる。

 それに対して、私はまた嘘で誤魔化すしかなかった。「良くなっている」「具合は落ち着いている」と。もしも事実を伝えれば…、私を見上げる、チハヤのその、不安の色を浮かべて、張り詰めている、瞳の中の暗い湖は忽ち決壊し、涙が止まらなくなってしまうだろう。

 だから、彼女の心を守る為、その場しのぎの嘘をまた重ねる。噓も方便と、自分に言い聞かせながら。

 だけど、もう、チハヤに嘘を重ねるのも限界が近い事も、分かっていた。本当に回復しているのなら、ヤエは今頃きっと、私の隣に立って、また元気に笑ってくれているに違いないのだから。ヤエが全く姿を見せない事が、私の嘘に綻びを生じさせている。

 チハヤの瞳の中に、私を信じようとする色と、私を疑う、不信感の色と、二つの色が混ざり合っているのが分かる。そのうちの、後者の色が次第に増している事にも、私は既に気付いている。だから、彼女の眼差しが、私には怖かった。

 「本当だよね…、スミレお姉ちゃん。嘘じゃないよね。ヤエ、全然出てこないけど、病気、良くなってるんだよね」

 病がうつってはいけないから、という理由で、彼女を、ヤエには会わせていなかった。しかし、本当の理由は、発疹に覆われ、熱に浮かされている今のヤエの姿を、チハヤに一目見られたら、一瞬にして私の嘘は崩れ去るからだった。

 今日のチハヤの視線、そして物言いは、そんな私の、事実を隠そうとする行動を、見透かしているようだった。私は、背筋に冷たい物が流れるのを感じる。

 「う、うん…、大丈夫、だよ。また、昔みたいに、チハヤちゃんとも、もうすぐ遊べるようになるよ…、だから、安心して」

 チハヤに、そう言い聞かせながら、今日も、彼女に何とか帰ってもらう。チハヤが去った後、私は頭を両手で抱えて、玄関の土の上に座り込んだ。

 嘘で塗り固め、チハヤも、そして病に臥せているヤエ自身も騙している自分が、何処までも、嫌いになっていく。でも、他に言える言葉が、私にはない。声を押し殺して、苦悩から呻く事しか出来ない。


 それから、三日と経たずして、ヤエは、私の歌声も届かない場所へと旅立った。二度と冷めない眠りについたのだ。

 母の亡骸を運んだ時と同じように、荷車に、小さな、ヤエの亡骸を乗せて、わらのむしろを被せて、覆い隠す。私は泣きながら、父と共に、その荷車を、村唯一の寺にまで運んだ。

 その途中の事だった。私と父が引く、ヤエの亡骸を乗せた荷車に、一人の子供が駆け寄ってきた。

 「ヤエ…、ヤエ!!私よ、チハヤよ!ねえ、お願い、返事してよ!!」

 半狂乱となりながら、泣き叫んで、わらのむしろを払い除け、ヤエの亡骸に縋る少女。それを、両親らしい二人の男女が「やめなさい!ご迷惑をかけるんじゃない!!」と、必死に服を引っ張って、引き戻そうとしている。

 チハヤは、ヤエの亡骸を何度揺すっても、もう彼女の瞼が開く事はないのを見ると…、射殺すような鋭い目つきで、私を睨んだ。そして、涙声のままで叫ぶ。

 「スミレお姉ちゃんの嘘つき!こんなに病気が重かったのに、私がいつ聞いても、すぐに元気になるなんて、出鱈目ばかり言って!!スミレお姉ちゃんの、大嘘つき!!」

 チハヤの父親が「いい加減にせんか!お世話になったスミレ姉ちゃんに、何てことを言うんだ!謝れ!」と、彼女を強く叩き、無理やりに、ヤエの亡骸から引き剥がす。

 しかし、チハヤは全く、落ち着く気配もなく、最後は両親に道の上を引き摺られるようにして、私と父、そして、ヤエの亡骸から離れていった。ずっと、ヤエの名を呼ぶ。そして、私を「大噓つき」と罵る、チハヤの声が響いていた。

 チハヤの言葉は、私をズタズタに切り裂いていた。彼女の言葉は、一片の誤りもなく、事実だったから。私は、その場しのぎの希望を持たせる為に、チハヤを、そして、死の間際まで、ヤエ本人すらも騙していたのだから。

 結局、チハヤには何も言葉を返せず、その場から逃げる事しか、私は出来なかった。


 寺の敷地内には、今日も既に、何体かの亡骸が並べられ、安置されていた。

 その隣に、ヤエの亡骸も並べる。そこで、私は膝から崩れ落ちてしまい、しばらく、ヤエの傍から離れられなかった。立つ気力も、奪われていた。

 一枚の、薄桃色の花弁が、むしろの下にはみ出している、ヤエの小さい手の上に舞い落ちた。私はハッとして、顔を見上げた。頭上には、寺の庭先に一本植えられた、桜の木が、ひらひらと花を散らしていた。

 ヤエは桜を見るのが好きな子だった。私がヤエを背負って、父、母と一緒に、花見に行った事もあったな‐と、こんな時だというのに、ぼんやりと思い出していた。

貧しいこの村での暮らしの中でも、確かにあった、細やかで、短い幸せな時間を。

 今の、この桜は、あの日とは全く違って見える。散り行く花達は、まるで、疫病の為に無念にも亡くなっていった人々の、その散っていった命のように、私の瞳には映った。


 ヤエが亡くなってから数日後、村の集会所に集められた私達に、村長がこんな話を持ち出してきた。

 「もう、この村には未来はない。疫病に凶作にと、不幸続きだ…。皆で村を離れて、新天地を求めて、移住しよう。実は、新大陸への移民に応募しないかという、募集が、我が村にも来ている。日本を離れる事は寂しいが、新大陸に行けば、仕事は引く手あまたで、選ばなければ、食い扶持には困らんとの事だ。今よりはいい暮らしが出来る。希望を集めようと思うので、意見を、家でまとめてくるように」

 新大陸への移民。それに希望すれば、食い扶持にもありつけ、少なくとも、この村にいるよりは、希望は持てそうな事は、私にも分かった。

 それに、母を亡くし、ヤエも亡くして…、大切な家族を二人も失った、悲しい記憶が染み付いた、この地に住み続けたいという気持ちは、もう、私の中にはなかった。

 今は、少しでも遠くへと、この悲しい記憶から逃れられるところなら、何処へでも行きたかった。

 「この村には、村長の言う通り、もう先はないだろう。それならば、いっそ、一か八かでも、新大陸への移民にでもなった方がいいと、わしは思う。スミレはどうだ?」

 父の問いかけに、私は頷いた。

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