届けたい。貴女の元へ、この歌を。
わだつみ
プロローグ
昭和X年の春の日の、夕暮れの事だった。
桜の蕾が綻び、花開き始めた頃の、日本の首都、東京。
その都の一角に佇む、明治から続く完全な西洋式建築の、老舗ホテルのフロント前に、一台の黒の車が入ってきた。
ボオイが、車に向かい、恭しく頭を垂れ、後部座席の扉を開ける。座席の左側に座っている、一目で日本人と分かる、黒髪の女がそれに応えた。そして、彼女の向こう、右側の席には…、様々な外国の賓客の出迎えをしてきたこのボオイも、見た事のない、銀髪の女がいる。肌の色は、日本人の物とも、西洋人の物とも異なっている。生まれてこの方、日の光を浴びた事がないのではないかと思わせる程に…あらゆる色素の存在を感じさせず、ひたすら、雪原のように白かった。
その髪の隙間からは…「普通の人間」には存在しないものである、獣の耳が生えている。それも、何故か左耳だけ。その獣の耳は、狼のそれに、最もよく似ていた。そんな、日本人の女の、右隣に座る銀髪の白い女の、異様な出で立ちに、熟練のボオイも一瞬、表情が固まった。
もし、異国の先住民族について、何の知識もない者が、この銀髪の女を見たならば、間違いなく、彼女の事を妖怪だとでも呼んで、大騒ぎした事だろう。
それでも彼は、今日来る客が、極めて珍しい客である事を事前に聞かされていたので、熟練らしくすぐに気を取り直し、二人に笑いかける。
「お待ちしておりました。美月(みつき)菫(すみれ)様。遠路はるばる、新大陸の国より、よくおいでくださいました。そして、もう一人のご婦人様も…」
そこでボオイは、瞬時に、彼女に向けて、日本語から、彼女らの国の公用語である英語に切り替え、右隣の女にも、流暢に英語で挨拶をする。そうすると、銀髪に、左だけの狼耳を持つ女が、流暢な日本語で名乗った。
「お気遣いありがとう、でも、私、日本語は分かりますので、日本語で話して頂き、大丈夫です。私の名はルナと申します。菫とは、養子縁組を結んでおりますので、美月ルナと呼んでくださいませ」
その言葉に、隣の座席に座る、日本人の女-菫(すみれ)は目を見開き、驚いた様を見せた。
それは、二人に応対していたボオイの、客の表情の微細を見逃さぬ、ベテランの目をもってしても、捉えきれない程の短い時間であったが。
「はい、私達は、向こうの国で縁組しておりまして…ですから、同じ苗字になりますので、案内の際は、下の名まで、フルネームで呼んでください」
そうして二人は、玄関に出迎えに出てきた、この度の、二人のコンサートを企画してくれた、日本のレコード業界など、音楽業界関係者らの一団に囲まれて、フロントに入っていった。
その間、二人を挟んで歩く、レコード会社の人間らからは、
「しかし、お話には聞いておりましたが、二人共お美しい!天は二物を与えずと、日本では言いますが、お二人の見目麗しさと美声の両方を見ていると、例外も、世の中にはあるものですな」
だとか
「異国情緒にあふれる、『白狼族』のルナ様の歌声と、日系一世‐日本人の菫様の歌声が不思議に調和して歌われる、『白狼族』の民謡は、子供から大人まで、レコードを通じて人気が広がっています。お二人が歌う歌は、遠い異国の民謡でありながら、日本人の心をとらえてやまないものがあるのでしょう」
そんな賛辞が飛び交っていた。
楽屋として割り当てられた一部屋。
そこに通されたスミレとルナは、既に歌を披露する為の衣装に着替え終えている。その衣装は、あたかも、西洋の結婚式の花嫁姿を彷彿とさせる純白のドレス姿であった。
あとは、舞台上に上がる時を待つだけだった。
楽屋の中央には、編み籠に色とりどりの、春の花々が飾られ、部屋に華を添えている。
鏡台の前の椅子に、二人並んで、スミレとルナは座っていた。スミレはルナに一瞥を向けると、こう言った。
「驚いたわ…」
「何が?スミレ」
二人の口調は、先程まで、レコード会社の人間などと話していた時のかしこまった言葉遣いは消え去り、砕けた口調へと戻る。
ルナが日本語で話せるようになってから、二人は、何気ない会話も、英語ではなく日本語で交わすのが自然となっていた。
「ルナが急に、私と貴女は養子縁組してるから、同じ苗字で呼んでなんて言うからよ。あんな嘘、言って良かったのかしら…。白狼族と人間は、いかなる形でも家庭を作る事は、私達の国では法律で認められてないのに…」
真剣な口調で案ずるスミレを、安心させるようにルナは言った。
「あたし達の国の詳しい事情は、ここ日本では、まだよく知らない人ばかりなんでしょう?これくらいの嘘、ここでなら分かりはしないよ。それに…」
ルナは、右隣に座るスミレの方へと手を伸ばして…、スミレの、膝の上に置かれていた手を握りしめる。
「この、日本っていう、スミレの故郷の国にいる間の、ほんのひと時でもいい。あたしとスミレが、単に、デュオとして歌っている、仕事上だけの間柄ではなく、本当の家族なんだって、私達を見る人達が、信じて、認めてくれるなら、幸せを感じられる」
二人が出会った国では、ルナは、「人間に類似した容姿を持つが、あくまで人間とは別の種族の、先住民」-つまりは、「人外」として法的には見なされていた。仕事を共にする事については、昔に比べて寛容とはなったもの。
しかし、「人間ではない種族である白狼族と、人間が、異種間で婚姻、家族関係を結ぶ事は生物学的に危険であり、厳禁とする」という法の下、ルナ達の種族が、人間と家庭を持つのは、「異種婚姻」として国により、厳しく取り締まられていた。
ルナとスミレは、彼女達の国では、どれ程の時間を二人で共にしようとも、公に認められた家族とはなれない。
それならば、せめて、あの国の事情を知らない、日本の人達の前だけでも、自分とスミレは本当の家族だと、ルナは言いたかったのだ。
「昔、あたしがスミレに話した事、覚えてる?家族を失い続けるような人生は、もう、ここでお仕舞いにしようって話した、あの日。これからは、あたし達が、お互いの一番大事な家族になって、隣にいよう。そして、喜び、悲しみ、その他の、人生の色んな事も二人で分かち合って行こうって。あの話をした日からずっと、どんなに、あの国の法律があたし達の関係を否定しようと、あたしとスミレは、本当の家族のつもりだよ」
そう話しながら、ルナの手に力が籠っていく。
ルナに手を握られる力が、強くなったのを感じながら、スミレは自分の頬が熱くなるのを感じた。
スミレは、目の前の鏡台に映る、自分の顔を真面に見られない。きっと、すっかり薄桃色に肌が染まった自分の顔が、そこには映っているだろうから。
「忘れる訳、ないでしょう…?ルナがその言葉で、救ってくれたから、歌い続けるどころか、生きる事すら諦めかけた私は、再び歩き出せた。ルナが、私の手を引いてくれたから」
ルナが言う、「あの日」の事は、スミレも、一日たりとも忘れた事はない。
絶望の深淵。底も見えない暗闇へと落ちていきそうになった、あの日を。
そこから、スミレを引き上げてくれて、光差す方へと連れていってくれた、ルナを。
あの日のルナが必死にかけてくれた言葉を、スミレは忘れていない。
「『スミレは、もう、あたしの恋人で、家族なの!もう、これ以上あたしは、家族を誰も、失いたくない』…。そんな事も、あの日は言ってくれたわね。ルナ」
「ああ…。あの後は、二人して、小さな子供に戻ったみたいに、声を上げて泣いたよな…。あたしにとっては、あの時の言葉がスミレへの告白だった。だけど、あたしも涙に濡れていて、全然、格好よくは決まらなかったな」
その時の告白を思い出したのか、今度は、ルナの方が顔を赤くする番だった。一度きりしか出来ない、愛情を伝える告白というものを、格好よく決められなかった、という恥じらいがあるらしかった。銀髪の上、凛々しく立っていた、左耳しかない狼の耳が、項垂れてしまう。色素の極めて薄い純白の肌に、赤みが差しているその様は、夕陽の下の雪原を、スミレにいつも想起させた。
いつも客の前では、凛とした様で歌うルナが、こんな姿を見せてくれるのは、きっと自分だけなのだろうと、スミレは思う。彼女の愛らしい部分を、独り占めしていると考えると気持ちが嬉しくなって、スミレは更に触れたくなる。ルナに握られていない、右手を、ルナの左頬へと回して、掌をそっと当てる。
そのまま、ルナの顔をそっと横向かせ、スミレは、軽く彼女の唇に口づける。
しかしその口づけは決して、濃密なものではない。
例えるならば、宙をひらひらと舞い落ちる、二つの花びらが、偶々、お互いに触れ合った程度の軽やかな質感と、短い時間の口づけだった。
そんな軽やかさで、幾度か、お互いに唇を触れ合わせては、少し顔を離して、息遣いや、漏れる微かな声を聞く。そして、また、そっと唇を重ねる…。そんな口づけを二人は好んでいた。
春の、いたずらなそよ風に弄ばれ、少し触れ合っては風に引き離されて、また重なる…そんな一対の花びらにでも、なったような気分に、二人は駆られる。
この、細やかな時間が、舞台に立つ前の二人の心を一つにして、歌へと集中させる、大事なひと時だった。
このように、スミレとルナは、舞台に立って歌う前。楽屋で二人きりで過ごす、細やかな時間。口づけを交わすのが、ある種のルーティンのようになっていた。そこに至るまでの、流れは、その度に違えども。
どちらからともなく、唇を離す。終わる時には、本番を前にして、二人の胸の、速くなる鼓動も鎮まり、二人の心は、二人で一つの歌を作り上げる事へ集中する。
そして、ルナには、こうした晴れ舞台に立つ前に必ず行う、ルーティンが、もう一つあった。
彼女は鞄の中から、小さな木箱を取り出した。
その、古びた木箱を少し揺らすと、カランと、渇いた音が鳴る。その木箱を、白のドレス姿のルナはぎゅっと、胸に抱く。
「どうか、見ていてね…、また一つ、新たな晴れ舞台に立つ、私の姿を」
スミレも、ルナが胸に抱く、小さな木箱の中、何があるかを知っている。
木箱の中、その人はいつも、晴れ舞台で歌うスミレとルナの事を見てくれている事も。
楽屋の扉がコンコンとノックされる。スミレが扉を開けると、レコード会社のスーツ姿の男性が、「お二人の国のレコード会社の、千早様という女性の方から花束とお手紙が届いております」と、スミレにそれを手渡した。
「見て、ルナ。チハヤちゃんから手紙だって!」
スミレは、顔を綻ばせて、楽屋のテーブルの上に花束を置くと、一枚の手紙を取り出した。
二人の国の、レコード会社に勤めている、彼女の協力が無ければ、ルナとスミレの、今回の日本への招待はなかっただろう。チハヤという、スミレと同じ日系一世の女からの手紙を受け取る。
彼女の手紙は、二枚の便箋だった。
一枚目は型通り、二人の来日コンサートが実現した事への祝いの言葉が述べられた。如何にも堅苦しい社交辞令的な手紙だった。
そして、もう一枚の便箋には、うって変わって、旧友に語りかけるような砕けた文体で、こう書かれている。彼女が、スミレに伝えたかっただろう本音は、そこに書かれていた。
‐菫へ。
どうか、八重(ヤエ)と、エルマの二人の元にも届くような歌を、ルナと一緒に歌って。
そして、菫の歌の素晴らしさを、日本の沢山の人達に知らしめて。
今宵のコンサートが終わったら明日は、私と菫と八重。3人の懐かしい故郷の、あの村へ行きましょう。
廃村になって、見に来る人もいなくなってしまったけど、あの村の桜は変わらず、今年も美しく咲いている筈。
八重もきっと、菫の帰りを、あの村で、待ち侘びているわ。
ルナとエルマにも、私達の故郷の桜を見せてあげて。
皆で、お花見をしましょう。‐
ヤエ。その名前を目にするだけで、今も尚、スミレの胸に、刃物でさっと、切られたかと思うような痛みが走る。心の古傷を開いて、また出血させようというばかりに。
ルナと一緒に、未来を向けるようになって、その痛みを感じる、時間の長さは短くはなった。どうにもならない時には零してしまう、心の古傷から零れ出た血‐涙も、その量を減らした。しかし、この痛みも涙も、一生、無くなる事はないと、スミレは分かっている。
それでも、この痛みと涙と共にスミレは生きていくつもりだ。それらが無くなる時は、スミレの中から、ヤエという大切な人が、確かに存在していた事を、消してしまう事になるから。
ルナも、スミレと出会ったばかりの頃とは別人のように、日本語を話すのも読むのも達者になった。スミレと共に手紙を見終えた後も、しんみりした様子で、手紙を見つめている。
「ルナ、覚えてるわよね…、あの子が私達に遺してくれた一枚の絵の事」
「勿論さ。忘れる訳ないだろう…。エルマも、日本の桜を見たがっていた。あたしとスミレと、あの子の三人でお花見したいって言ってたもんな…」
東京から、スミレの故郷の村に至るまでの旅程。汽車の発車時刻などをまとめた紙も同封されて、3人で落ち合う時間と場所も、指定されていた。チハヤらしい几帳面さが出ている。
「もうそろそろ、開演の時間ね」
スミレが楽屋の置時計に目を向ける。間もなく、再び扉がノックされ、今回のコンサートの司会を務めるレコード会社の中年の男が、タキシード姿の正装で入って来る。彼は、丁重に頭を下げて、こう告げた。
「それでは、美月菫様。美月ルナ様。もうすぐ、開演のお時間です」
照明の下、ステージ上に二つのマイクが立てられている。ピアノの奏者が、ルナとスミレがステージに上がってきたのを見ると、頭を下げ、ピアノへと向かった。
二人は、それぞれのマイクの前に向かう。観客の視線が、この身に集まるのを、肌で感じる。
スミレの胸に、緊張はなかった。自分の左隣に立つ、ルナに視線を送る。ルナはこちらに視線を返して、それは、準備は出来ているという合図だった。
これから歌う、白狼族の民謡。それらが歌っている世界を、頭の中に思い浮かべて、意識を没入させていく。
眠りにつく自分を優しく見守る、銀の光を落とす夜空の星々。
眩しく、日差しを反射して輝く湖の畔。野花が咲き乱れる中を歩き、愛を語る二人。
厳しい冬を越えて、花の季節の訪れを喜び、花びらが舞い散る中を、歌い踊る幼子達。
それらの歌の世界を頭の中に、今のスミレは、すぐに作り上げ、意識をその中へと入り込ませる事が出来た。
二人の後ろで奏でられ始めた、ピアノの音色と共に、曲の始まりを悟った会場には、静寂が訪れる。
自分の中にある、歌の世界。そこへ、この会場に来ている客を、二人の歌声で招待しよう。
その事に意識を集中させて、ルナと、スミレは、歌い始めた‐。
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