第3話
自分の感情を溜めて溜めて、溜めた結果芸術になる。音楽しかり絵画しかり、小説もそうだ。この世の芸術家は爆発した想いを、思いのままに表現して、それを後世の人が芸術と銘打つ。自分にとって納得のいかない作品でも、大衆がそれに価値を見出せば素晴らしい作品となり、たとえ自分がどんなに意味を込めても、それに気づかれなければ駄作と呼ばれる。これほど残酷な職業もないだろう。金を稼ぐ上で大衆受けと言うのは史上の命題で、最も難しい問題だろう。俺の職業が小説家じゃなければ、一生思いもしないことだったろう。売れっ子作家なわけでは無いが、食っていける程度には、嬉しいことにファンがついている。俺がこの短い人生で痛感し、感じたことを書いても全く売れないこともある。その時ほど自分に対して懐疑的になったことはない。自分は考えすぎでもっと気楽に考えたほうが良いのだろうか。楽に生きるという点では、そちらの方が良いのだろうが、考えることにこそ幸せは詰まっていると思う。というより幸せについて追求している時が一番幸せに感じるのだ。真に幸せだと感じることは、この先の人生で無いと分かっているから、それについてただ思案している時間に幸福の種が育って行く。きっとその種が綺麗な花になることは生きているうちには無くて、死ぬ間際人生を振り返ったときに、ようやく種は育ちきり大輪を咲かせるんだ。そして、一瞬のうちは花は散る。そんな儚さが人生を美しいものにしているのかも知れない。自分にもそんな日が来ることを願っている。
次の小説のネタとしてキリスト教について調べた。「旧約聖書」を調べているうちに「ヨブ記」というものを知った。名前は知っていたが、初めて内容に触れた。あらすじとしては「敬虔なユダヤ教徒のヨブが、神とサタンから試練を与えられるも、それらを乗り越え神への絶対的な信仰を証明する」だいぶ内容は端折ったが、大体こんな感じだった。恐らく作者はヨブのような信仰心を持てば良いことがあるということを伝えたかったのかも知れないが、そんなことよりも何故そこまでして神を信じれたのかが気になる。誰かが言った「宗教は大衆のアヘン」という言葉に嘘は一ミリも無いだろう。実際過去の蛮行も宗教を理由に始められたことがほとんどだ。科学が進歩した現代でさえも、宗教は一定の力を持っているし、科学よりも宗教を信じるという人も少数だが居るらしい。大災害などを見ると、確かに神の存在を疑いたくなるときもあるし、そのとき誰かに責任を押し付けられたら、どれだけ楽だろうかと考えたこともある。そう考えると神とは人によって作り出された、世界の責任を一身に請け負う可哀想にモノなのかも知れない。もし神がいるのなら、この世界を創り出した意図を聞いてみたい。ただの暇つぶしなのか、それとも立派な理由があるのか。きっと大した理由は無いのだろう。ちょうど自分たち人間がペットを飼うように、可愛いとか癒されるとか、そんな勝手な理由で生かされたり殺されたりするのだ。
「とうとう木村も就職か。仕事見つかって良かったな」
「このまま無職で人生終えるかと思ったよ」
ようやく木村が定職についた。
「それにしても就職するまで色々なことがことがあったよな。我ながらよく人間不信に陥らなかったと思うよ」
「本当だよ」
木村が今までフリーターだったのには訳がある。彼の親はかなりの傍若無人で、我が子の奨学金を自分の開店資本として懐に入れていたのだ。それを知った木村はショックを受け、親とは縁を切り祖父母からの援助を受けながらなんとか食い繋いでいた。人間不信の始まりは自分への不信だ。その点木村は自分に対して信用していたので、人間不信になることはなかったのだろう。きっとこの世で強く生きて行くには、彼自身は無自覚だろうがこんな能力が必要になるんだろうと思う。
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