2.

 あれから何度か店に行っているが、私はあの夜について触れずにいた。イズミ君からも切り出される様子はなく、軽口の叩き合いや話すことは以前と変わらないままだった。しかし、あの夜からイズミ君の瞳は、熱を宿し続けている。

 彼のことは好ましいと思っているが、私はこの気持ちに名前を付けることを躊躇っていた。彼の私に対する感情は、悩むまでもないだろう。2人の関係をどちらに転がすかは、おそらく私の手に委ねられている。

 あの夜以降、私を戸惑わせているものは彼の瞳だけではなかった。それは、私の目が彼の体の傷を追うようになったことだ。

 頬の腫れは彼が言ったように軽かったようで、今では綺麗に治っている。しかし、腫れた頬が目に入っては顔も知らない相手を想像し、友人(仮)を傷つけられたことに若干の苛立ちを感じていた。それが治ると、今度は他の傷が目に留まった。厨房に立つ彼の手には、常に火傷や切り傷が作られる。それらを見ると、彼の努力や生活を感じた。また、いつだったか足にある傷痕を見せてもらったことがある。幼少期の大怪我で残ったものだと言っていた。その話を思い出しては足を眺め、彼の幼少期に想いを馳せたりもした。

 もちろん、私だって怪我をすることはある。紙で指を切ることもあれば、腕や足をぶつけて痣ができることもある。しかし、どんなに自分の傷を見ても、イズミ君の傷について考えている時のような、そわそわと落ち着かない気持ちにはならなかった。


 どんなことがあっても、変わらずこの店の料理は美味しい。私の好物である鮭の塩焼きを心待ちにしていると、カウンターの向こうから望んでいたものが差し出された。今日はイズミ君が焼いてくれたようだ。箸で身をほぐし、大切に口へ運ぶ。1人の食事は、好物を独り占めできるのが良い。悩むのは美味しいものを食べた後にしよう。鮭に舌鼓を打っていると、カウンター越しにイズミ君から声をかけられた。

「見てくださいよ、これ。それ焼いてるときに火傷しちゃったんだから、美味しく食べてくださいよ」

 彼は自分の腕を指さし言ってきた。指の先で肌の一部が赤くなっている。

 それを見た瞬間、ぞわりとした感覚が鳩尾のあたりから喉元まで迫り上がる。


 それはどれくらいの間、赤く咲き続けるのだろうか。

 それが疼くたび、私を思い出すのだろうか。


 彼の体に私の存在が刻まれたようだと思うと、心臓が大きく跳ねた。

 イズミ君が私を呼ぶ声で、火傷を見つめたまま固まっていたことに気がつく。イズミ君には申し訳ないが、もう味なんて分からなくなっていた。


——私には妹がいる。妹にとって5つ年上の私は“お姉さん”に見えたらしく、私と同じ事をしたがったし、同じものを欲しがった。そんな妹に両親は甘く、「お姉ちゃんなんだから」と私にばかり大人になることを求めた。

「お姉ちゃんになる前の5年間、お父さんとお母さんからたくさん愛を貰ったんだから、今度は妹に譲らないといけないよ」

 そんなことを、親戚の誰かに言われたことがある。そんな言葉で納得なんてできるわけもなく、妹と同じ年齢だったときの私を比べては、妹の方がたくさんのものを手にしていると思わずにはいられなかった。しかし、時間が経てば諦めがつくもので、どんなに譲っても何も感じなくなっていた。そして“妹に優しい姉”が人の目に良く映ることを理解できてしまった私は、模範的な姉へと成長していった。


 妹に譲ることが私の普通になった頃、1つだけ、どうしても譲りたくないものができた。

 それは、当時放送されていた女の子向けアニメの玩具で、アクセサリーボックスを模したものだった。いつだったか、叔母夫婦と私の3人で出かけたことがあった。いつも譲ってばかりだった私を見兼ねて、叔母が買ってくれたのだ。玩具が手に入ったことよりも、私の為に買ってくれたということが何よりも嬉しかった。絶対にそれを手放したくなかった私は、妹だけでなく両親からも玩具の存在を隠すことにした。数日間、私の心は久しぶりに幸せな気持ちで満たされていた。しかし後日、叔母夫婦が家を訪れたときに叔父が余計なことを言った。

「あの時買った玩具で遊んでくれてる?」

 そこから妹の行動は速かった。私が両親にどういうことか詰め寄られている間に、妹は私の部屋をひっくり返し、それを探し当てて持ってきたのだ。当たり前のようにそれを抱きかかえると、真っすぐな瞳でいつもの「欲しい」を口にした。これまでいろんな「欲しい」を聞いてきたが、あの時ほどこの言葉に苛立ったことはない。私は騒ぐ妹を無視して、彼女の手からそれを取り返そうとした。私と妹で綱引きが始まったが、力の差を理解し手加減をしたことが失敗だった。私が玩具を掴み直したその瞬間、妹が渾身の力で引っ張った。私の手は振りほどかれ、勢い余ったそれは妹の手からも離れると、大きな音を立てて床へと叩きつけられた。部屋の中は水を打ったように静まり返り、呆然とする私と妹の間には、割れた蓋、取れた装飾、かつて箱状だったものがあった。静寂を破ったのは妹だった。何故か妹が大泣きし、両親は私を叱った。叔母だけが私の肩を持ち、両親を宥め、私を気遣ってくれていた気がする。気がするというのも、私の耳にはそれらがほとんど聞こえていなかった。私は、壊れてしまったそれをただ見つめていた。悲しんでも、怒ってもいなかった。

 安堵したのだ。

 壊れたものに、妹が関心を示すはずがない。奪われる心配がなくなった。正真正銘、私のものになったのだと、喜びさえあった。

 その後は私の予想通り、妹はあの大泣きが嘘だったかのように興味をなくした。そして私は壊れたそれを、両親に捨てられるまで大切にしていた——


 ずっと忘れていたあの玩具の事を、今になって思い出す。これは気づいてはいけないことだと、頭の中で警鐘が鳴っている。

 もう一度、忘れなければ。

 奥底にしまい込むことは得意なのだから。

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