煙の毒は目に見えない

神無 有月

1.

《痴情のもつれで殺害に至った》

 自分や周囲の人に起こったなんてことはなく、どこまでも他人事で自分からは遠い場所の話だなぁ、なんて思う。愛情が憎悪に変わることもあれば、愛故に相手の命まで独占したくなることもあるとか。それほどまでに相手を想えることが、少しだけ羨ましくもあったりする。私にも恋人がいたことはある。相手は所謂と言われる人で、いつだって私が何をしているか、誰といるのかを知りたがっていた。

「君以外はどうでもいい」

「君を信じていないのではなく周りの人間を信じていない」

「自分の中が君でいっぱいであるように、君の中も自分でいっぱいであってほしい」

 しかし、私は相手と同じだけの気持ちを抱くことはできなかった。私の淡白な態度に耐えられなくなった彼は別の人のもとへ。私もこういうことには慣れていたので、特に揉めることもなくそのまま別れることになった。


 行きつけの居酒屋で、テレビから流れるニュースを見ながらぼんやりと考える。誰かと結ばれるということが尊いものであると理解はしているが、今は私を悩ませる種である。就職し、実家を出てしばらくになるが、両親は口を開けば結婚の催促ばかりしてくるようになった。

「良い人はいないのか」

「親戚のあの子も結婚した」

「孫の顔を見るまでは死ねない」

 電話だけでは飽き足らず、メッセージまで送ってくる始末だ。恋人がいなくても寂しいと感じたことはないし、仕事もそれなりに順調で生活にも困っていない。それに、結婚なんて話になったら、家族に紹介しなければならないというのも気が重い。狙いすましたかのように、テーブルの上に置いた携帯電話が震えた。画面には、母親から受信したメッセージが表示されている。雑に電源ボタンを押し溜息をつくと、鞄からタバコの箱とライターを取り出す。店主に一声かけて席を立ち、出入り口の横にある喫煙スペースを目指し引き戸に手をかけた。

 戸を開けると、ぬるかった店内に、すっとした空気が流れ込む。夏も終わりへと近づき、夜の風は秋の匂いを含んでいる。少しなら平気だろうと、上着は店内へ置いていくことにした。戸を閉めると、賑やかだった空間から切り離される。気持ちをリセットさせるように夜の空気で肺の中を入れ替えると、夜の匂いの中に自分のものではない銘柄の匂いがあった。それを視線で辿ると、喫煙スペースにいた先客と目が合う。

「お疲れ様。休憩中?」

「ども。サキさんも休憩っすか?」

 お客さんに休憩も何もないでしょ、と軽口を叩き合う。この店の従業員であるイズミ君だった。私より少しだけ年下の彼は、細身で高身長(180センチはあるだろう)、整った顔立ちで、話し方はハキハキとしているが控えめに笑う。女性から連絡先を聞かれることは数知れず。それら全て断っておきながら、一つも恨みを買っていないのだから大したものだ。態度には嫌味が無く、誰とでもすぐに仲良くなっている。私がこの店に通い始めて少し経ってから見かけるようになり、今ではこの店の立派な戦力だ。私も彼も喫煙者であるため、時折こうして煙を一緒に嗜む仲である。

 持っていた箱から1本取り出し、口に咥える。イズミ君の手が私へ伸びてきて、ライターを奪っていった。流れるように手をかざしたライターが向けられたので、素直に顔を近づける。彼に奪われたライターが使い捨てでなければ、もっと格好がついただろう。

 1口目は話かけない。これが私たちの暗黙の了解となっていた。深く吸い込むと、空へ向けて惜しむように吐き出す。黙って繰り返していると、彼がじっとこちらを見ていた。

「何? そんなに見つめて、私に穴でも開けるつもり?」

 鼻で笑いながら、灰皿の上でタバコを叩く。彼は、真面目くさった様子で言ってきた。

「女の人がタバコ吸ってる姿って、なんか色っぽい」

「君に気がある女の子たちが今のを聞いたら、皆こぞって喫煙者になるだろうね」

「ははっ。じゃあここだけの話ってことで」

 イズミ君が灰皿へと顔を向ける。薄暗くて気がつかなかったが、彼の左頬は心做しか腫れていて、薄っすらと赤くなっている。

「どうしたの? それ」

 私は、自分の頬をトントンと指さす。彼は自らの左頬のあたりに視線を向けた。

「あぁ、これですか。友達の彼氏さんに、ちょっと殴られちゃって。たまたまその子と俺が二人でいるところを見て、俺のことを浮気相手だと思ったみたいです。そんなに強く殴られてないので、見た目ほど痛くないですよ」

 彼は、なんでもないことのように言った。もっと怒っても良いのにと思ったが、本人は誤解が解けていることで気にしていない様子だった。

 タバコも半分ほど縮んだあたりで、ぶるりと身震いをする。さすがに夜に半袖は少し寒かったか。これが終わったら中に戻ろうかと考えていると、両肩に重みが加わった。肩口を見ると、自分のものではない上着と、先程より近い距離にいるイズミ君。彼は着ていた上着をわざわざ脱いで、私にかけてくれたらしい。少し驚いて彼を見上げた。

「サキさんもそんな顔するんすね」

 普段あんなにクールなのにと、くふくふ笑う。

「私をなんだと思ってるの。上着ありがと」

 少しばかり恥ずかしくなって、そっけなく礼を返す。誤魔化すように煙を吐き出していると、イズミ君がまたもや私を見ていた。

「今度は何?」

 先程のふざけた様子とは打って変わって、真剣な面持ちで彼は言った。


——さっきのタバコ吸ってる女の人が色っぽいって話ですけど

——今までそう見えた人いなかったなぁって


「俺、サキさんだからドキドキしてるみたい」


 立ち上る2つの煙、そして彼と私の視線が絡まる。彼の瞳の奥にはチリチリと熱が見えて、それがただの常連に向けられるものではないことは理解できた。

 私が何も言えずにいると、イズミ君はチラリと携帯電話を見てから持っていたタバコを灰皿に押し付けた。どうやら休憩は終わりらしい。彼は視線を私に戻すと、咥えるだけになっていたタバコを私の口からゆっくりと奪い取り、今しがた消したタバコの上に重ねて押し付けた。

 おーいイズミー、と店主の声がする。いつも通りハキハキと返事をしたイズミ君は、視線だけを最後まで残し戻っていった。

 糸が切れたマリオネットさながらに、膝からカクリとしゃがみこむ。胸の奥を裏側からなぞられているような感覚に力が抜ける。上着からするタバコ混じりの彼の匂いが、それに拍車をかけていた。私は、新しいタバコを咥えたものの火もつけず、ただただリップで汚した。

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