昇らぬ太陽
長谷川 優
大学受験
人生49年目を迎える今年、振り返ってみると、多くの挫折と不運を経験した人生だと思える。考えようによっては、いい試練を味わえて鍛えられたとも言えなくはない。しかし、それはあくまでも結果的にそう思えるわけであって、不運の真っ最中は、到底そんなことは思えないのは、私だけではないだろう。
日本国民の凡そ6割が経験する大学受験。なぜ、「挫折」という感情を抱かなければならなかったのか。今言えるのは、「努力した」という考え方が、挫折感と失望感を想像する元凶と言うことだ。
高校時代は、バンド活動とバイトの日々が続いたが、保険として予備校にも通っていた。正直、勉強は好きだったというのが本音だ。しかし、自分の弱みとして、学習欲があるものの、試験の点数を上げるための勉強は大嫌いだった。
「知りたい」という欲求を勉強をして満たすのに、なぜ、試験で図られなければならないのか、納得できない自分が常にいた。社会人になった今でも、その考え方は変わらない。
「努力」という言葉が、「美談」と思い始めたのはいつ頃のことだろう。物心ついた時には、「努力」すれば夢が叶い、「報われる」と言われ続けてきた。しかし、それは、目下のものを制御させるために文化が強いてきたマインドコントロールだった。そう理解し始めたのは、恥ずかしながら、ここ数年のことだ。
高校時代には、バンドに明け暮れていたが、3年の時にバンドをきっぱりと止め、受験勉強に集中した。親も認める程、勉強ばかりしていたと記憶している。しかし、最初の不運は、父が難関大学以外の大学進学を煙たがっていたということだ。
自分の意思で選んだ大学は、ことごとく父から批判され、認めてもらうためにも、無理やり難関校を選んだ。模試での判定も結局CかDのまま本番を迎えることになる。
現役時代は、全滅だった。とはいっても、恐らく一浪は当たり前だろうと思っていたのもあり、落ち込んだりすることはなかった。寧ろ、予備校で勉強ができることが待ち遠しかった。
浪人生活が始まった。朝は、通学していた頃と同じような時間に自宅を出て、その日の授業を受け終えた後は、自習室で勉強。夜の9時か10時に家路につく毎日が続いた。家と予備校の往復。お金もなく、昼飯は、カロリーメイトを買い、小袋の1つを昼に食べ、もう一袋を夕方になってから食べて空腹を満たした。
そんな生活を1年続けて、とにかく勉強に打ち込んだ。英語は、目標通りだったが、日本史は射程圏内くらい、国語は、全く成長が見られなかった。特に現代文が苦手だった。日本人であり、現代人なのに、現代文が苦手というのは、アメリカ人が英語苦手と言っているようなものだ。
読書をしていたにも関わらず、俗にいう下線部の「筆者の気持ち」を答える問題が苦手だった。そんなの筆者に聞いて欲しい。もっと言うと、
「本当に筆者にその時の気持ちを聞いたの?」
とすら思えてしまう。この手の問題の正しい聞き方は、
「線部①に関して、出題者が正しいと思い込んでいる筆者の気持ちとして、最も正しいものを以下4つの中から選びなさい。」
だろう。最悪、出題者すら筆者に共感しきれていない可能性だってある。
「そんな人に、評価されて自分の将来が決まるのは、いかがなものだろう」とそんなことばかり考えているうちに、試験時間のタイムリミットがやってくる。
そんな浪人時代も終焉を迎えることになる。年を明けて、受験のラストスパートの時期に入った。第一希望である同一大学の3学部の願書を送り、記念受験1校、滑り止め1校、超滑り止め1校に願書を送った。滑り止め校は、2校とも受験問題は、良問に出来ていて、ひっかけ問題はない。
試験の日程は、滑り止め、超滑り止め、記念受験、本命の順にやってくる。多少の緊張はしたものの、ハイパフォーマンスの出せそうないい緊張感。試験終了後も、「手ごたえ」を感じた。
「どちらかは、受かる」
と確信を持って、試験会場を後にした。
本命の試験日を迎える。自宅から試験会場まで凡そ1時間、ウォークマンでメタルを聞きながら移動する。完ぺきではないが、やれるだけのことはやった。少なくともやった分の成果だけでも出したい、という気持ちで一杯だった。
その日、試験の最後の科目を終えた帰り道、明らかに手ごたえがなかったことが悔やまれた。残り15分のところで、半分も終わっていなかった。
そこで、改めて気が付いたことがある。勉強ばかりに集中して、戦略的に試験当日の流れのシミュレーションを怠っていた。「時間が足りない」と思うのは、決して私だけではないはずだ。多かれ少なかれ、私のように焦っていた受験生は他にもいたはずである。しかし、いざ本番を迎えると、「自分だけ」が焦りの沼に足を取られ、もがいていると思い込んでしまうのである。
時間が足りなすぎることに気が付いても、時すでに遅く、現代文、古文、漢文、全てが中途半端な仕上がりの状態で試験時間が終了した。試験官の「やめ!」という言葉が妙に大きく聞こえた。
帰宅中の電車の車内では、試験の不出来をくよくよしてしまう程に、当時の自分はナイーブな性格を持ち合わせていた。大雑把な性格のわりに、悪い意味で繊細さがあり、自分でも嫌になるほどだった。あとどれだけ挫折を繰り返せば、このカバーガラスがプレパラートになるのか、そんなことばかり考えていた。
重たい気持ちのまま、漸く自宅についた。両親も既に帰宅をしていた。母は、夕飯の支度をしていて、父はいつものように晩酌しながらテレビを見ていた。
そのテーブルの上に、色付きの封筒がおかれてあった。私宛だった。大学からだ。手に持っていたくないくらい薄っぺらな封筒だ。この時期、誰がどう見ても、大学から送られてくる封筒の中身は、合格発表であり、薄さからして不合格通知であることは明白だった。
そんなことは、郵便受けからこの封筒を取り出した、両親のうちのどちらかも良く分かっていることで、だからこそ、私が封筒を見つけるまで、その存在に関しては一切触れなかった。送り主は、滑り止めで受けた大学からだった。滑りを止めるべくして戦略的に打ち込んできたピッケルだったが、どうやら全て折れてしまったらしい。私の落下を止めるには至らなかった。
封筒に入っている三つ折りの紙を開いて、5秒後に元あった通りの三つ折りに直して封筒の中へしまった。晩酌していた父の視界に入ったのだろう。いつも決まって不合格通知を貰った時は、にんまりと半笑いを浮かべながら声をかける。
「残念でした」。
数日して、本命の1つ目の学部の合格発表が届いた。何度か見たことがある薄さで、明ける前から「不合格」と書かれてあるのは分かっているものの「もしかしたら合格してる可能性もある」と、その封筒の厚みからは100%起こらない望みを、神が私の脳に直接問いかける。神を信じて取り出した紙には、「そんなわけない」の7文字が書かれていた。神のいたずらとは恐ろしい。この不合格通知は、3学部を受けた本命大学の一番難易度の低い学部のものだった。
いつもは帰宅の遅い父ではあったが、なぜが合格発表時期は、まっすぐに帰宅してきていて、合格発表を見る時には、決まって近くにいた。「そんなわけない」合格発表を封筒にしまうと、父は、にんまりと半笑いを浮かべて言った。
「残念でした」
そして、父は続けた。
「もう他もダメなんだろ?」
「どうかな、見てみるまでは分からないけど」
と私は自信なさげに小声で返した。父はかぶせるように言った。
「恐らく、ダメだと思うよ。」
私は、悔しさを滲ませながら押し黙った。
「くよくよしてもしょうがない。やるだけやったんだろう?恐らく、やったんだと思うよ。俺からはそう見えた。やるだけやってダメだったことを、悔やんでもしょうがないだろう」
「まあ、そうだけど」
私は、力なさげに返した。そこに母が割って入ってきた。
「あれだけ勉強してたのにね。あなたってバカなのかな。あれだけやってダメなら、そう思っちゃうよね」
慰め方にしては、実に斬新な方法だと思った。
そんな折、父が一つの冊子を私に見せた。アメリカ留学を支援する代理店からのものだ。
「アメリカに行ってみたらどうだ」
父の提案は唐突で、しかも当時の自分にとっては大それた提案だった。
「やるだけやってみてどこもダメだったということは、日本の大学はお前を必要としていないと言われているのと同じだ。それに、二浪してどこか受かる保証なんてどこにもない。同じお金をかけて全滅する可能性も50%ある。だったら、英語が得意なんだから、英語の世界で自分が受け入れられるのかを試すのもいいんじゃないか」
全く驚きの提案だったが、この言葉を聞いて瞬間的に思った。
『夢が叶ったかもしれない』
難関大学不合格から受けた心のダメージは大きかったものの、留学の可能性が見えてきたことで、「受験に失敗した落ちこぼれ」から「アメリカ留学の神童現る」という世間体のV字回復を果たしたことになる。しかし、これが不運の始まりであることは、その時は誰も分からなかった。
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