放課後の神サマ

こでぃ

   幻視の放課後


重苦しい屋上への階段を一段一段と上るたび、張り付くような罪悪感が背中を蠢いていくのを感じていた。

踊り場の窓から漏れる黄色からオレンジに変わっていく光で強調された影を思わず避けてしまいたくなる。


小学生の頃まではむしろ進んで影を踏み、次の陰に飛び移り帰路についていた、と思う。

だけど今はその影が底の見えない落とし穴のように視えて仕方がない。

とはいっても今更全てを避けようと思うほどの忌避は無いし、何よりそれが歩みを止める理由にはならない。


思い沈みながら靴を階段に沈ませていくと、いつの間にか階段の段鼻についている黄色い滑り止めが無くなっていることに気が付いた。顔を上げると、そこには緑の塗装が剥げ、あらわになったなった鈍色と錆が目立つ屋上へ続く扉が鎮座していた。


冷たいドアノブに手を置き、無機質なゴールテープを切る。

ビュオォ、と耳を打つ風を抜け、何とか体が入るほど扉が開いたところで滑り込む。屋上の空は沈みかけた太陽がいっぱいに膨張し、眼下の校庭や街を茜色に染めていた。

その太陽に溶け込むように、ポツンと人影が立っていた。

その人影はまるでボクが来ることを知っていたように、ジッとこちらを見つめている。


「待ってたよ五十嵐いがらしクン」


「雫さん……何時からそこにいたの?」


「ずっと前から、だよ」


青月雫。ボクが初めて屋上の扉を開けた日から、彼女はずっとそこにいた。

制服からこの学校の生徒だというのは見当がつくが、それ以外のことをボクは知らない。

同級生なのか、上級生なのか、それとも年下なのか、それすら分からないのだ。ただ、いつも持ち歩いている高そうな日傘と、ボクの考えていることを全て見通してしまっているような眼差しから、年上か、相当な優等生なのだろうと勝手に思っていた。


吹き上げる木枯らしになびく髪と半袖の制服を押さえつけながら、雫さんが歩み寄る。

やがて二人の足から伸びる影の先端は重なり、一つに混ざり合った。


「今日もお話する?、それとも、もう決まった?」


「そうだね、今日は飛べるかもしれない」


そもそもボクが屋上へ来たのはそれが目的のはずだった。事故防止の金網に手を掛け、目下の校庭を見つめるボクに後ろから「五十嵐クン」と話しかけられたあの日から目当てが変わってしまった。それからの放課後は、もっぱら雫さんとくだらない事に談笑する場となっていった。

談笑とは言っても、口下手のボクが吐いた言葉に雫さんが相槌をうつか、短くへえ、と返事をするぐらいのもので、自分で話した内容の事も殆ど覚えてはいない。つまりは会話の中身などどうでもよかった。ただ誰かに話を聞いてもらうだけでよかったのだ。


「へえ、そうなんだあ。」


そういってクスクスと口だけの笑みを浮かべる雫さんの夕日に隠れたすみれ色の横顔

が、女性経験の薄いボクには妙に煽情的に映り、反射的に目を逸らし、誰も居なくなった真下の校庭を視線の逃げ場とした。


「ねえ、五十嵐クン。聞いていいかな」


雫さんからの問いかけという珍しい出来事にビクン、と身体が一瞬跳ね、それを悟られまいと今度は全身が膠着した。いや、白状すると、ボクのこの反応は何か彼女に対して後ろめたい、畏怖のような感情があったからだ、それを雫さんに指摘されたような、そんな気がしての反応だった。何故彼女にそんな印象を抱いているのかまでは分からなかったが。

顔も向けられず、ただ短く「どうぞ」と答えると、


「五十嵐クンはなんで飛びたいの」


ああ、と間の抜けた返事が出た。忘れてしまっていた。そうだ、そういえばそのためにここに来たんだった。


「ボクは、ボクが醜くてしょうがないんだよ」


「そう?私にはそう見えないけど」


右耳に直接届く声量からして、顔を見つめながら言ってくれているらしい。


「……外見はどうも思っていないんだ。中身なんだよ」


目に入れても痛くない程になった太陽を見つめながら、記憶を手繰り寄せ、それを一方的に吐き出した。


ボクは今まで何も成し遂げることができなかった。親に無理をいって買わせたピアノも、絵も、水泳も、勉強も、みんな直ぐに向いていないと決めつけては放り出して……いや、辞めたわけじゃないんだ。むしろ、それならまだよかったのかもしれない。それらに縛られることも無いしね。


だけど、ボクは捨てられなかったんだ。おかしな話だよ、大した目標も無いのに初めておいて、そんな心持ちで結果なんて出るわけもないのに一丁前に未練を持っていたんだ。


それで思ったんだ。「ボクは何も出来ない」って。まあ十数年しか生きていない小僧が今までの人生の成果を求めるというのもおこがましいかもしれないけど、とにかくそう思ったんだ。

ボクが醜いのはそれからさ。捨てられずに引きずっていた自己実現の欲求が余計なものまで引っかけてきたんだ。


ボクには兄がいたんだ。ボクなんかよりもずっと優秀な、ね。                                                                  

勉強もスポーツもできるし、なによりそれをひけらかそうともしない。

何もできない癖に、承認欲求をおさえようともせず、その欲求実現の努力をしようともしないボクとは正に正反対の完璧に近い人だったよ。


だからか両親もボクと兄とでは扱いに偏りがあったように思う。明確じゃないのは、兄は謙虚で何かをねだることことが殆ど無くて、それどころかボクに何かを買い与えてくれと言うぐらいだったから、両親の言葉遣いが兄に対しては妙に柔らかかったくらいしか判断材料が無かったのだけど、とにかくボクと兄とではそれだけの差があったんだ。


中学に上がるころだったかな。根暗なボクはよくいじめを受けていたんだけど、それを助けてくれたのも兄だった。ボクの為にいじめっ子を殴りつけてくれてさ……

倒れるボクを見下ろして手を差し伸べるんだ。

でも、あろうことかボクはその時確かに感じたんだ。どうしようもない嫉妬と憎悪を。

兄が自分よりも優秀なのは当たり前だ。そんな兄のことを尊敬していたはずだった。でも、あまりにも兄はボクの理想像過ぎたんだよ。こうありたいと思う自分と現実の自分とのギャップを感じることは誰にだってあることなのかもしれない。けど、ボクには大きすぎた。理想と現実の両方に耐えがたい嫌悪感を覚えてしまったんだよ。


だからこそボクはさらに兄を尊敬し続けた。兄が大学に入った時にはそれは既に信仰に近いものになっていたと思う。


でも、ボクが畏敬する神サマは突然ただの人間になってしまった。

死んだんだ、それも崖からの投身自殺。 部屋に残ってたメモ用紙には短く

「生きる目的が見つからない」とだけ書かれていた。

葬式の遺影を見ても、火葬炉に入れられる棺を眺めても、全く涙は出なかった。

悲しみはあったはずだ。間違いない。でもそれ以上に失望が大きかった。


「ボクの中では神聖不可侵で、それでいて完璧のままだと信じていた兄が、あろうことか自分自身に殺されるなんて、赦しがたい背信行為じゃないか。」


いままで無意識空間で練りこまれ続けていた毒が、それを覆い隠す信仰心の殻を破り、流出した瞬間だった。

でも、その毒は、誰にも悟られることは無かった。そいつに侵されたのは紛れもない自分自身だったからだ。分かりやすく他者への攻撃に行かなかったのは単にそれだけの度胸を持ち合わせていなかっただけの事なんだけど。

行き場を失った毒は凄まじい自己嫌悪と言う形となってボクを蝕んだ。

努力をしない自分が醜い。それを他者や環境のせいにする自分が醜い。死んだ兄を勝手に信仰して勝手に失望した自分が醜い。そして……


「自殺して逃げようとすることも、その逃げる勇気も出ない自分がどうしようもなく、どうしようもなく醜いんです」


気づくと西の空は茜色から紫色に変わり、反対側は既に星が確認できるほどに暗くなっていた。それでも雫さんはその口だけの微笑みを何ら崩すことなく、ボクの愚痴に耳を傾けてくれていた。


「こうして金網の向こうを覗くだけでも怖くて仕方がない。やろうと思えば直ぐに登れてしまうようなこんな金網に足を着けるだけで背中が震えてしまう。この世への未練なんてものじゃない、単純に痛みへの恐怖ですくんでしまう、これさえも兄にはかなわないというところが醜くて、でも、最後に残った悔しさなんです」


「でも、そんな自分が可愛くてしょうがない。……五十嵐クンってワガママなんだね」


やはり、気づかれていた。


「そう、ボクは我が儘なんです。どこまでも自分と信頼できる人を貶めずにはいられない、褒められたい、でもその能力は無い。だから自分を貶める、屈服させる。可哀想に思われたい。そうして近づいてきた人を引きずり込んで、あわよくばボクだけが蜘蛛の糸を掴みたい正に傲慢の権化。こんな思考をしている自分が醜いと思っている自分が醜くてでもそんな自分を好きになって欲しくて直したくても直せなくていや直す気が起きないというかそれは単に面倒くさいだけなのかボクはそんなボクを赦してホシイという贖罪のようなしこうなのかボクにはワカラナイけど……」


自分は何を言っているんだろう。こんな醜悪な事を雫さんにぶつけて、何がしたいんだろう。ボクは何をしているんだ、ボクは今、何処にいるんだ。俺は誰だ?

僕、だっけ俺だっけ。 

学校そう、学校。高校だよな、うん、そうすることにしたはずだ。


ぼんやりと視界がにじむ。


「五十嵐クン。泣いてる」


「え?」


はっとして頬に手をやる。涙。ボクの涙。兄が死んだ時にすら湧かなかったあの涙がとめどなく流れ、顎の下から雫となって落ちていく。


「あ、あれ?何でだろ、だってボク、ただ雫さんと……」


ああ、そうか。何でボクは気づかなかったんだろう。そういえば、このことを話したのは雫さんだけじゃないか。

このことは誰にも知られてはいけないはずだった。羞恥心と猜疑心にで蓋をしていた筈の毒を、ボクは容易く吐き出し、霧散させらてしまった。

それも、家族でもなければ友達とも言えない、名前と制服姿しか知らない雫さんに、だ。


「泣かないで、五十嵐クン」


雫さんが、ぎゅっとボクを抱きしめた。服越しからでも分かるほど冷たい手、か細く、いつ止まるかも分からない心臓の音、繊細な、薄い硝子のような危うさ。

全てが微弱に、それでいてはっきりと確認できた。


「雫さん……なんで、なんで雫さんは、こんなに、優しいの。ボクは、雫さんの事を何も知らないのに、どうして雫さんは……」


雫さんは何も答えない。ただ気だるそう笑みを浮かべてこちらの顔を覗くばかりで、そこにはなんの不純物も感じられない。


「……ありがとう、雫さん。お陰で、勇気が出たよ」


ボクは、自ら雫さんの抱擁を破り、左手の金網に手を掛けた。

高さは二・五メートル程で、返しも付いているが、その網目は大きく、少し息が上がる程度でボクは向こう側に到達することが出来た。

向こう側は意外にも人一人が立っても、余裕が出来るぐらいにはスペースがあった。


「じゃあ、バイバイ、雫さん……あれ!?」


振り返ると、そこに雫さんはいなかった。ガシャ、と頭上で音がしたので見上げると、なんと雫さんが金網を超えてきていた。


「な、なんで、危ないよ」


「こうした方が、五十嵐クン怖くないかも、って」


そう言うと、雫さんは床から二十センチばかりをのこして飛び降り、少し汚れたスカートを手で払うと、けろっとした顔でボクの隣に立った。


「最後までみてて上げる。だって私、五十嵐クンを助けてあげたい」


「し、雫さん……」


その時、体の中で、何かが弾けた。ボクは靴の先端が飛び出るほどだった足を一歩下げ、雫さんの方に体を向けた。


「どうしたの?」


「雫さん、また明日」


その時、雫さんが視界から消えた。

何処に行ったのか。ボクには分かる。

校庭の下の方を見下ろすと。随分小さくなった雫さんがいつもと変わらない口だけの笑みを浮かべているのが見えたと思うと、そのまま闇に消えていった。

何かが落ちた音もしなければ、目を凝らしてみても、薄っすらグラウンド前の石畳が見えるばかりで、”何もなかった”。


「やっぱり……雫さんは、ボクの神サマだった!!」


一寸先は人間にとっては死だということも忘れ、ボクは初めての狂喜乱舞を経験した。ひとしきり感動に打ち震えた後、すっかり影から解放されたボクは、そのまま小走りで屋上を去った。





屋上への階段を一段一段と上るたび、もどかしさで体が痺れそうになる。

踊り場の窓から漏れる黄色からオレンジに変わっていく光で強調された影を全て踏み抜き、下の溶岩に落ちないように進んでいく。

先生からは「勝手に出歩かないでください」と言われたが、構うものか。


「今日もいる。きっといる!」


階段にスリッパの音を響かせていると、いつの間にか階段の段鼻についている黄色い滑り止めが無くなっていることに気が付いた。顔を上げると鈍色に光る屋上へ続く扉が半分開いたままだった。


ビュオォ、と耳を打つ風を抜け、滑り込む。屋上の空は沈みかけた太陽がいっぱいに膨張し、眼下の校庭や街を茜色に染めていた。

その太陽に溶け込むように、ポツンと人影が立っていた。

その人影はまるでボクが来ることを知っていたように、ジッとこちらを見つめている。


「待ってたよ五十嵐いがらしクン」


青月雫。ボクが初めて屋上の扉を開けた日からいる、ボクだけの神サマ

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