花は夜ほどよく香る

くろつ

第1話

 新宿。

 裏さびれたビルの四階に、看板を出していない小さなタピオカ屋があった。


「だからねえ。頭を下げられてもだめなのよ。あたしはただのつなぎ役だから」


 美少女の目の前には小さなカウンターがあり、その向こう側にはダークスーツに身を包んだ、どう見てもカタギではない風体の男たちがぞろりと揃っていた。


「そこをなんとか、イッカさん。お口添えを」

「だからあー」


 美少女は困ったようにピンクの唇を尖らせる。


「あたしは依頼を聞いてつなぎをつけるだけなんだってばあ。依頼を受けるか受けないか、判断をするのはあたしじゃないの。判断はあくまで傭兵涼子がするのよね。わかる? 宇田川うだがわ組さん?」

「わかっております。が、そこをなんとか」


 直立不動で立っていた男たちは、頭が膝につくほど頭を下げた。


「わかってないじゃんねー」

「伝説の傭兵につなぎをつけられるのは、都内ではあなただけだ。我々の頼みはあなた以外にいないのです」

「もおっ」


 美少女はカウンターの内側に頬杖をついてぷんすか文句を言う。

 そんなイッカの様子をはらはらしながら見ている者がカウンターの中にもうひとりいた。

 おそろしく整った容貌をした幼い少年だ。

 少年はダスターを握りしめて心配そうにイッカとヤクザを見比べている。


「はいはい! ともかく依頼は伺いましたから! 涼子にはその旨伝えさせていただきます」

野宮のみや一華いっかさん、なにとぞ」

「勝手にフルネームで呼ぶなっつーの!」


 イッカはくわっと目を剥いて言う。


「いい返事がくるって保証はできないからね? これだけは言っておくよ? あといかついおっさんがぞろぞろ来るとタピオカ屋の営業妨害になるからやめてくれる?」

「客など来ないくせに……」

「なんか言った!?」


 立ち去り際、ヤクザのひとりがぼそりとつぶやいたのをイッカは聞きとがめた。

 実際はヤクザの言う通りで、この店にタピオカを求めてくる客はめったにいない。

 入口も黒一色のシックな扉があるのみで、内側をのぞけるようにもなっていないので、入りにくいことこの上ないためだ。


 イッカはカウンターの中でなにやらパソコンを操作していたが、やがて大きく伸びをするとエプロン姿の少年に言った。


「あー疲れた疲れた。オーちゃん、朝の一杯ちょうだいな」

「え、朝の一杯はさっきもう……」

「さっき飲んだやつは今の宇田川うだがわ組とのやり取りでエネルギー消費しちゃったよう。プラマイゼロってことで、さっ早く、朝の一杯! ベースは烏龍茶にしてね。タピオカは多めでね。チーズフォームをたっぷり乗せて氷は少なめでねー」

「あんまり飲むと太るよ……」


 言われたとおりにキッチンで体を動かしながら小声でつぶやいたのを、これもまたイッカは聞き逃さなかった。


「乙女になんてこと言うの、オーちゃん! 太るなんて単語を口にしてはいけません。言霊の力を知らないの!?」

「……わかったよ、わかりましたよ」


 はいどうぞ。と縦長のコップにストローをさして、少年はイッカにドリンクを渡す。


「んんんーっ、これこれ、たまんないっ。オーちゃんが炊いたタピオカ、黒糖の味が濃くてもちもち歯応えで、いくらでもいけちゃう!」

「だから、タピオカはでんぷん質だから太るって……」

「オーちゃん!」


 めっ、とシロップネイルを施した人差し指を突きつけられて少年はため息をついた。

 その細い指が翌日には無残なことになるなんて、その時は思いもせずに。


◇◇◇


「……えっ?」


 店の後片付けと翌日の仕込みをしていた少年は、ふとなにかの匂いを嗅いだ気がしてキッチンで顔をあげた。


 店主であるはずのイッカは、夜の散歩をしてくるーと言い残して一時間ほど前に店を出てまだ帰っていない。

 少年の、通りすがりの人間はおそらく誰もが二度見するであろう、整った愛らしい容貌の眉がかすかにひそめられる。空中の匂いを嗅ぐように、形のよい鼻がひくつく。


「血の……匂いがする……イッカの血の匂い!」


 真っ白なふきんを放りだして、少年は店から駆け出した。

 イッカのもとにはすぐにたどり着けた。

 新宿の雑多な匂いや人混みをかき分けて、少年はまっすぐに数百メートル離れた雑居ビルの裏手に駆けつける。


「イッカ! ……イッカってば!」


 細い裏路地から覗いただけではわからない、光の当たらない雑居ビルの裏に、イッカはぼろ雑巾のようにぐんにゃりと倒れ込んでいた。

 少年が声をかけると長いまつげがうっすら動く。


「オー、ちゃん……」

「どうしたのこれっ、これってもしかして、昨日のヤクザ……」

「大きい声、出さないで……ケガに響くから……」


 少年が確認してみると、イッカの様子はボロボロだった。

 衣服の乱れがないのがまだしもの救いだが、打撲は全身に及び、顔も腫れてあちこち血もにじんでいる。

 一番ひどいのは見せしめのつもりか、人差し指が一本折られていることだ。


「ひどいっ、なにこれ」

「まあ、報復、だよね」


 切れ切れにイッカは口にする。


「傭兵涼子が宇田川うだがわ組からの依頼を断ったことを伝えたからだよ。あたしに報復しても、なんにもならないのにね」

「黙って! お医者さんに連れていくから!」

「平気だよ、このくらい……この仕事してたら定期的にある。知ってる? オーちゃん。一度折った指ってね、前よりもっと丈夫になるんだって。この人差し指は前にも二回折ってる。だからあいつら、折るのに相当苦労したはずだよ」

「いいからしゃべらないで!」

「へへ、監禁とかさ、レイプとかさ、風俗に落とすとかさ、そこまではする気なかったみたいだねー。やっぱりそこまでやっちゃうと傭兵涼子を怒らせることになっちゃうからさ、一応あいつらもさ、限度ってものを」

「しゃべらないでって言ってるでしょ!」


 一瞬、空気が震えるほどの怒気を発して、それから少年はできうる限りのやさしさで彼女を抱きしめた。

 汚れた彼女の額に自分のおでこをこつんとくっつける。


「眠れ、イッカ」


 聞こえるか聞こえないかの声でそう言うと、イッカはことんと眠りに落ちた。

 まるで魔法にかかったかのように。


◇◇◇


「まあ関節で折れとるしのぉ、しばらく安静にしてたらきれいにくっつくよ」


 人目につかないことではイッカのタピオカ屋とどっこいどっこいの場所に診療所を構える新宿の太った闇医者は、彼女の指にギプスをはめ終えてそう言った。


「タピオカ屋の仕事はなるべくやらせないで……と言いたいところだが、あれだろう、店の仕事はお前に任せっきりで元々やりゃしないんだろうから」

「──ありがとう、先生」


 少年がぺこりを頭を下げる。

 イッカはすやすやと眠っており、その胸元は静かに上下している。

 少年は彼女の折れた人差し指の上に、そっと、限りなくそっと額を押しつけた。そしてなにかの匂いを嗅ぐように、大きく深呼吸をした。


 医療器具の片付けをしていた闇医者は、不穏な音を聞いた気がして振り返った。

 めりめり、めりっ。

 なにか密度の濃いものが裂ける時のような音がして、黒い物質が診療所の室内に充満する。

 あやうくそれを直視してしまいそうになり、闇医者は慌ててそっぽを向いた。


「こらいかん、封印が解けちまったか」

「先生ごめんなさい……」


 先ほどまでの少年の愛らしい声はもうどこにもなかった。

 しゃがれた耳障りな声が空気を震わせる。


「わしはなにも見とらん。見るつもりもない。お前の主人は目が覚めるまでここに預かっておく。いいな」

「はい先生……」


 ばさばさっ、となにか大きな翼が羽ばたく音が闇医者の耳を震わせたが、彼はがんとしてそちらを向こうとしなかった。とてつもなく質量の大きなものがゆっくり動く気配がする。

 見ないようにしていても、視界の隅っこに黒い光沢のある物質が入りこんでくるのをどうしようもない。

 羽根の一部のような、皮膚の一部のような表面はびっしりと凹凸のあるもので埋まっている。それは爬虫類の鱗のようでもあり、異質なイボのようでもあった。


 それの気配が診療所からなくなってようやく、闇医者は大きな吐息をついた。


「──主人に従い、主人を守る。一見すると愛らしくやさしいが、それは凶暴な本性を抑えるために人の形に変身して理性を保っているだけの話……」


 誰に聞かせるでもなくひとりごちる。


「主人が傷ついた時には、その本性をむき出しにして命がけで主人を守る。いやはや、こうなると気の毒になってくるのう、この子を傷つけたどこぞのチンピラが」


 そこまで言って闇医者は、おっとしまった、というように首を横に振る。


「いやいや、見ておらん。わしはなにも見とらんしなにも知ってはおらん。そうだそうだ」


 とその時、診察台の上で患者が身じろぎした。


「んん……ここ、どこ」


 イッカは目覚めるとすぐに状況を把握し、自分の人差し指にはまったギプスに気づいた。


「先生……オーちゃんはどこ」

「わしに聞くな」

「あたし、オーちゃんに待てってしてない気がする! やばい、オーちゃんが切れちゃう!」

「わしはなにも見とらん、だからなにも聞くな」

「あーだめだめ、絶対、封印解けちゃってる自信がある! やっばーい!」


 イッカはがばっと起き上がると痛みに顔をしかめた。


「いたーいっ、ちょっと先生、麻酔効いてないよ!」

「麻酔なんぞ打っとらんわ、骨折と打撲にそんなもん打つか!」


 PTPシートに入った痛み止めをぽいぽいと放り投げる闇医者に、イッカは、サンキュッ、と折れたほうの手で受け取って、再び、いたーいっ、と悲鳴をあげた。


「ありがとね、先生! 今度お土産にタピオカ持ってくるからねー」


 裏さびれたビルの四階にあるタピオカ屋で、イッカは明かりをつけずにソファ席のひとつに腰かけていた。

 気配はしない。人影も見えない。だがそこにいるのは知っている。


「──おう

「はい、ぬし


 ざらついた声がどこからともなく聞こえる。

 その声におびえと不安が入り混じっているのを聞き取って、イッカは続ける。


「出ておいで」

「……俺、汚れてる」

「知ってる。いいから出ておいで」


 タピオカ屋の空気が振動し、どこからともなく黒いぬめりのある物体が現れる。

 明かりをつけていないので全貌は見えないが、窓から入る月明かりに鋭い爪がぎらりと光った。


「──血の匂いがする。殺したの?」

「うん。だってあいつらぬしのことを傷つけた」

「毎回思うけど、よく見つけられるよねえ」

「簡単だよ。あいつら主の匂いがした。間違いようのない、ぬしのいい匂い」


 これ、いつもよくわからないんだよな、とイッカは内心で苦笑いをした。おうは初めて会った時からイッカをよい匂いだと言う。これまで生きてきた中で一番いい匂いの人間だと。

 イッカにはよくわからない。


「その後どうしたの。食べたの?」

「うん」

「あんまり変なもの食べるとお腹こわすよ」

「だって日本の警察は物証主義だから。死体があがらなければ行方不明で片付くでしょ」

「……変なことばっか覚えるんだからー」

「大切なことだよ。俺のぬしを守るために、大切なこと」


 それが身じろぎした気配がした。

 イッカはソファから立ち上がる。打撲がいまさらながらに傷み、ひょこひょことびっこを引きながらその気配に向かい合った。両手を大きく広げる。


「おいで」

「俺が……もっと早くに気がついていれば、ぬしはケガしなかった。ごめんなさい……気がつかなくてごめんなさい」

「いいからおいでってー」


 ひんやりとした気配を肌で感じるくらい近くにそれがいるのがわかる。だが、彼のほうからは触れてこない。

 イッカは自分からそれを抱きしめると、凹凸のあるおぞましい表面に軽くキスをした。

 その刹那。

 さっきまで得体のしれないどす黒い塊だったそれは、夜目にも愛らしい幼い少年の姿になった。なめらかな白い頬が明かりをつけていない室内で発光するように輝いている。

 イッカはにこりと微笑んだ。


「おかえり、オーちゃん」

「イッカ、ごめんなさい! お願い、俺のこときらいにならないで!」


 柔らかい少年の体がイッカの腕の中に飛び込んでくる。ケガを気にしてか力を加減している少年を、イッカはぎゅうっと抱きしめてやった。


「きらいにならないし、あたしも待てを言うべきだった。オーちゃんがこれ以上汚れる必要はどこにもないんだよ」

「いやだ、イッカがいなくなったらいやだ。イッカがいなくなったら俺どうしたらいいの」

「……またいい匂いのする人間を探せばいいよ」

「やだっ!」


 イッカの体に顔を埋めたまま、少年が小さくいやいやをしているのがわかる。イッカの匂いを心ゆくまで嗅いでいるのも。イッカはしたいようにさせておいた。


「でもあたしのほうが絶対に先に死ぬよ。そうしたら次の人間をまた探さなくちゃ」

「言わないで……考えたくない」

「今回のことは本当に気にしなくてよかったの。どうせ涼子からお見舞金だって言ってけた外れの入金があるはずだし」

「そういう問題じゃないよ」

「そういう問題だよ」


 イッカは少年と密着したままゆっくり壁際まで歩いて店舗の明かりをつけた。

 窓の外からはどこからか車のクラクションやけたたましい笑い声が聞こえる。新宿の夜だ。

 煌々と明るい電球の下、現実が戻ってくるのを感じながら、イッカは指にはまったギプスをひらひらさせて言った。


「ねーえ、オーちゃん。あたし甘いものが飲みたいなあ。なんだか今夜はマンゴーの気分。あっそうだ、タピオカマンゴーミルクティーにしよう! ミルクティーは甘さ控えめでね。上に乗せるのは生クリームでね。四角いアイスじゃなくてクラッシュドアイスにしてね」


 目をきらきらさせて言うイッカに、少年はげんなりした顔を隠そうともしなかった。


「また飲むの……」

「体力消耗した時はカロリーとらないとダメなんだよ、オーちゃん」

「そういうのじゃなくて食事を食べてほしいよ……」

「ねーねー早くしてよー、早く作ってくれないともっとダダこねるんだからねー」

「ダダこねてる自覚はあるんだね。よりにもよって一番面倒くさいやつ頼むし……」

「ふーん、そゆこと言うんだ。じゃあタピオカスイカジュースが飲みたい気分になろっかなー」

「それはやめて、最寄りの果物屋もう閉まってるし……」


 新宿の夜はゆっくり更けて、少しずつイッカの傷を癒し、また少しずつ少年の漆黒を癒すのだった。

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