第8話 だって彼には
大通りまで出てタクシーを待つ間、上椙さんはずっと隣にいた。
「僕が入ってすぐの頃、営業がフロアの引越しをした時のこと覚えてる?」
「覚えてま……」
敬語を使いそうになったわたしを、上椙さんは嗜めるような顔で見た。
「……覚えてる」
言い直したけれど、さっきまで敬語で話していたのに、そうじゃなくなっただけで、別人と話しているような感覚になる。
「床ひっぺがしたら、とんでもなくケーブルが絡まってて、これ一個一個PC辿っていってたら一日じゃ終わんない、って気が遠くなった」
上椙さんが入社して1ヶ月くらい経った頃だった。
営業部が手狭になったからフロアを引っ越すということで、PCの移動に情報システム部は全員が休日出勤をした。
誰が誰のPCか後でわかるように印をつけて、後はどのPCのケーブルがどのハブに刺さっているかを見ようと床をめくったら、フロア内に使われている全てのケーブルがとんでもなく絡まっていて、途方にくれてしまった。当時はフロアの中にファイルサーバーもあって、そのケーブルも床下のごちゃっている中にあるようだった。
個々のPCを辿るなんて時間の無駄に思えた。
「そうしたら、館山さんが片っ端からケーブル引っこ抜いていった」
「そんなこともあったね」
少し緊張しながら、友達にするような相槌をうった。
「結局、新しく配線し直すからって怒られなかったけど、そういうのは事前に相談しろって注意された」
「今は笑い話だけど」
「……あの時、館山さんのことかっこいいって思った。それから、どうやって近づこうか考えてた」
平日の夜中だったせいか、道路に車の往来は少なく、時々タクシーは通るものの、既に誰かが乗っているものばかりだった。
ずっと道路の方を向いていた上椙さんが、初めてこちらを向いた。
「話しかける時、いつも下心ありまくりだった」
その時、空車のランプがついたタクシーがすぐ横に停まって、ドアが開いた。
「お疲れ、また明日……じゃなくて、もう今日か」
「上椙さんも、お疲れ様でした」
タクシーのドアが閉まって、運転手の人が声をかけてきたのに、他のことに気を取られてしまっていて聞いていなかった。
「お客さん? お客さん? どちらまでですか?」
「あ、すみません……」
上椙さんの最後の言葉に意味なんてない。
こんなことで動揺するなんてばかげてる。
彼は、二番目に近づいてはいけない相手。
だって彼には彼女がいる。
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