キラキラと輝くもの

「メチレンジオキシメタンフェタミン。略・MDMA」


 千香からの詰問とも呼べる問いかけに読んでいた本から顔を上げ、気怠げにそう言ってみせた富美は、いつもの様子と何ら変わることがない。

 最も、そのいつもの様子を、千香はあまり知らないのだ。

 改めて思う。この人は何者なのだろうと。

「レイヴパーティなんかで用いられることの多い合成麻薬。六十年代のアメリカカルチャー、ヒッピームーブメントなんかを調べると、必ずといっていい程登場する薬ね。並べて語られることの多いLSDなんかは、幻覚による副作用――躁鬱や、単純に幻覚による脅迫観念事故など――が多いことから、もっと手軽に、ラフに楽しむのになんかはこっちの方が向いてる」

 そう云って、富美は背中を預けていた壁から体を離すと、裏に手を回しごそごそとやり始めた。

 差し込む夕陽により目を凝らしてもいまいちよく見えないが、赤、或いはオレンジ色した、タブレット型した錠剤に見えた。

 ぱくりと富美は口に放り込む。

 その唇がうっすらと笑みを引いた。

「ハッピーな気持ちになれるの」

「ハッピー……」

 千香は言葉を繰り返す。あれはハッピーだったのだろうか。間違いなく満たされてはいただろう。千香はあんな自分がいるとは今まで生きてきてまるで思ってもいなかった。

「多幸感高揚感。そして親近感」

「親近感」

 それは間違いなく抱いていた。

 目の前の相手に。

 会ったばかりの彼女に。

「神経伝達物質。ドーパミンやセロトニンなんかを多量放出するからね。性への開放性も当然あるでしょう。副反応もある。当然。高熱や悪寒視覚障害脱水症状。不安や吐き気。筋肉の痙攣」

 千香の脳裏に直前に見た少女の姿が浮かんだ。

 それから自身、ここ最近風邪を引いたような症状が出たことも。

「ただこれね。すごく高価なの」

「こーか?」

 言って、高価という文字と結びついた。衝撃でいまいち頭が回っていない。

「通常、巷に出回るのになんかは殆どMDMAは含まれていない。含有率なんて五%がせいぜい。合成麻薬ってのはつまり何が混ざっているか分からないってこと。他の麻薬から風邪薬から、何ならその辺に生えている草まで。作成者でも効果を把握していなかったりね」

 千香は無意識に腕を抱いた。

 その動きをチラと見て、富美は腰を上げると、部屋の真ん中に座る千香の横を通り過ぎていく。直後、冷蔵庫を開け閉めする音。首を巡らし伺うと、富美はペットボトルのミネラルウォーターに喉を鳴らしていた。きゅっと蓋を閉め、傍らに置くと、そのままシンクに寄り掛かり喋り始める。

「脱法ハーブって聞いたことあるでしょう? あれなんかは主に大麻を差すけれど、その意味合いとして、法の目をくぐり抜ける為にどんどん化合物を足していったって背景がある。今はそういうのにもきちんと規制を設けているけれど」

「じゃあ、富美が口にしているのは、その、純粋なMDMAじゃないってこと?」

 口に出した質問がこれで合っているのか分からなかった。相応しい、適切な質問にも思えなかったが、効能の不明なものが富美の口を経由して自分の体内を巡っていると聞くと黙って聞いていられなかった。案の定、

「純粋な方が良いとも限らないけど」

 と、冗談めかして言われる。そうして、

「純粋なMDMAなんか殆ど出回ってないわよ」

 と、続けた。

「効果……依存率、は――」

「安心してよ。依存率は高くないから。最も、人によるでしょうけれど」

 千香は息をつく。

「私が口にしているのは、そのへんで出回っているものより純度は高いけれどね。一応」

 それは良いことなのだろうか。

 それは悪いことなのだろうか。

 その純度の高いものが手に入る立場にあるこの子は一体何者なのだろうか?

「わたしみたいな、その小さい子を狙っている理由って」

 答えは分かりきっていたが、確認の為に訊いた。

「勿論、私の性癖だからってのもある。ただ、もっと上でも私はいける」

 それだってどうせ年下だろう。いいとこ、いったって中学生だ。

「覚醒剤やヘロインなんかの方がよっぽど手に入りやすいのは確かだけれど、あまり好きじゃなくて。使い物にならなくなるのはごめんだわ。薬も容量も少しずつ変えていって今のかたちに落ち着いたの。もうそろそろここも危ないかもしれないからまたしばらくしたら逃げるけど」

「逃げる」

 くすり、と富美は笑った。さっきの話、と言葉を次ぐ。

「小さくて華奢な方が薬はよく回るでしょ?」

「そんな、ことない」

「?」

 言葉の意味が分からなかったようだ。富美が首を大きく傾げてみせた。最も、千香も意味が通るようには言っていない。『そんなことない』は、富美のやり口に対する反発が無意識になって出た形だ。言葉に意味はない。そんなものに頼ってくれなくてもわたしはあなたに惹かれて心も体も許していただろう。それが口から出ただけなのだ。

 富美もあまり重要に捉えなかったのだろう。口を開いた。

「千香は知らないけどさ」

 言いながら、瞳を眇めて天井を見つめた。

「幼いながらに性への興味ってあったでしょ? 誰しも。自分の子供の頃を思い出して欲しいんだけど、いなかった? 周りに。仲の良い男の子と体を触り合ったことあるだとか、ちゅうしたーだとか、胸触りあっただとか、みせあいっこしただとか。そういう」

「いた、ね」

 それこそ千香の偽った年齢、十歳、よりももっと以前、六歳、七歳、八歳くらいの小学低学年の頃から周りにそういう話はあった。ありふれていたわけではないが、まるでなかったというわけでもない。進んでいる子は確実にいた。

 羨ましがって聞いていた気はする。やりたいとは思わなかったが、聞いていてどきどきと胸が高鳴っていたことは記憶にある。

「純粋よね。子供って。雰囲気に酔いやすいから。楽ちんでいいわ」

 聞いて、立ち上がり、振り返った。怒りの感情に身を任せたのは間違いない。

 背中越しで聞いていた為、見えていなかったのだ。彼女の左手に持っている出刃包丁に。

 富美が刃物を持っていることよりも、この部屋にそんなものがあったことの方が意外に感じた。料理なんてしなさそうなのに。果たしてこれは現実逃避な思考だろうか。

「なっ!」

「純粋だからすぐ嵌まる。酔いしれる。危ない橋を渡っていること事態が楽しくって仕方がない」

 ふらふらと包丁が揺れる。富美の左頬のすぐ横で。きらきらと夕陽に照らされてその度にきらめく。たじろぐ千香にゆっくりと歩み寄りながら富美は殊更に無表情だ。

「心を許しあった気になってるの? 相手が危ない人だと決めて掛かっているのに懐に飛び込んでいって問い詰めるって一体どういう心境? 快楽の虜になりにきたの? それとも私に謝って欲しいの? やめるよう訴えに来たの? わたしだけを見てってやつかしら」

 どうこうしようという気などない。ないのだ。この詰問にゴールを、出口をそもそも見出していないのだから。詰問して話し合って咎めて、それで一体どうするというのだろう。ただ、千香は聞きたかっただけなのだ。彼女の口から。

 千香との関係が始まった後も、千香以外の少女に手を出していること。その頻度や度合いや心境。聞いておきたかった割合としてそちらの方が多い。言葉にはしにくいし、千香も、少女のあられもない姿や、およそ正常とは思えない反応から湧いた、問い質さねばならないという義務感、その裏に隠れた漠然とした想いだったというのは否定できない。

 聞いていて怖くなったことは事実だが、薬自体、正直どうでもいい。よくなってきている。富美だ。今の千香の全ては富美に向いているのだ。

 しかし、そんな千香の心情など考慮してくれる富美ではない。し、第一にそんな場面でもない。

 五歩、四歩。

 だん、だん、だん、と、毛羽立った畳を鳴らすように富美は一息に距離を詰める。

「ちが、ちがくて、わたしは」

 たじろぎ、とにかくこの場を離れよう逃げようとして脚がもつれ背後へと倒れ込んだ。左手のその先に、本が積まれてあって、触れて崩れて斜めになったところに思い切り手を付いたものだから、ずりずりと身体全体が本と一緒に滑っていく。キラキラとした瞳と目が合う。表紙に描かれていた女の子は、瞳の大きい派手な制服を着た金髪の女の子だ。二次元。同人誌というやつか? あまりイメージと合わず、瞬間、千香は眉根を寄せる。

 合った瞳は富美の腕に塞がれた。暗い。そしてくすぐったい。富美の長い髪の毛が千香の首から頬から触れている。左手に構えた包丁は逆手に持っていて、今にも千香に振り下ろさんとしている。

 千香は目を瞑り、震える瞼に先にいる富美を想った。

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