あへ
「書けないなあ……」
富美の寄越したそれ、『七日間の救済』は、千香の筆力では重かった。突飛な設定は千香の力量では対応できそうにない。
作家である千香。千香は、二人三脚の作家だ。
人気の出始めたデビュー作以降は。全て。
原作と作画に分かれた漫画というのはよく見るが、共著の作家というのは千香はあまり知らない。千香の知るのは岡島二人とキャプテンサンダーボルトくらいだ。
「そういえば」
日本を代表するミステリ作家、綾辻行人の館シリーズには、妻である小野不由美が深く関わっていると聞いたことがある。千香は本棚にあるそれを手に取るとパラパラと読み始めた。
「いけない」
七十ページ程読み進めていたところで気が付いた。二十分か三十分か、或いはもっとか……経過している。
ぐっ、と伸びをした。安物の椅子が軋みをあげる。己が下半身を見た。千香は股間に右手を伸ば、……そうとしたところをぐっと堪える。
「うーん」
思い出されるのは風呂場で、潮と共に尿を吹いていた富美、それから脚を舐められてむず痒がっていた富美の姿だ。ムラムラとする。集中できない。オナニーしたい。しようかな。だめだ。机の上に置いてあったティッシュ箱をベッドへと放り投げる。
こんなことを、最近毎日繰り返している。
流石にそろそろ何か手を付けないとまずい。着手しないと。なんでもいいから。進めている感がとにかくほしい。
千香はもう一度机に放ってあった五枚綴りのルーズリーフを手に取った。
七日間の救済。
主人公は堕落した天使。彼女は仲間殺しの罪で外界である人間界に落とされる。人間界は千香のよく知る現代社会とは大きく異なり、ディストピアめいている。もしくは終末戦争後のポストアポカリプスといった雰囲気だ。どちらを選択するかによって天使の辿る道筋が違う。そこは丁寧に出てくる登場人物の設定から舞台となる背景まで描かれている。正に。イラスト付きで。鉛筆書きの乱雑なものだ。けれど、陰影のはっきりした雰囲気のある絵が二枚。解説付きで。人物は雑だが背景が上手い。
道が違っても結末は同じである。
天使は最終的に外界で心通わせた唯一の人間に殺される。方法は絞殺。
七日間の救済というタイトルは天使に与えられた罰に由来する。主人公の天使には、天使には過酷な環境の外界で一年間過ごす罰が与えられる。一年間は地獄のような日々が覚悟しなければならない。それは予め与えられた、決定された運命である。しかし。
天使には一年の中で七日間のみ救済が付与される。
救済。救いの日。休、という漢字をあてた方がより分かりやすいだろうか。
つまり、その七日間のみ地獄のような苦しみからおさらば出来る。解放されるのだ。だから七日間の救済。
その七日間はコントロール可能だ。事前に申請を出せば。……このへんはなんとも雰囲気にあってないシステマチックな設定であるが、富美の書いて寄越すものには、時折こういうのが出てくる。ふざけているのか真面目にやっているならどういうつもりか、
『ねえ、ここ、いる?』と、本人に直接言ってやりたくなるような箇所がけっこうな頻度で登場する。
今のところなんにも云わずに削っている。
本人はなんにも言ってこない。
今までの感想は、
「思ってたのと違う」
「だいたい想定どおりだった」
「よくあれでここまで書けたね」
と、毎回褒めているのか或いは馬鹿にしているのか分からないものばかりだ。はじめて会ったあの時の反応、作家であると明かした時の富美の反応が一番感動していたっぽいような気がする。あの時は作品に対する感想というよりも、千香という実在する小説家に実際に会った感動だろうが。
「ふう」
溜息を吐く。文句は言えない。言えた筋でもない。人気が出始めた二作目からこっち、デビュー作以外、全てに富美の書いたアイディアが下敷きになっているのだから。
館シリーズ。の横。に、並べられた、今まで出版された己の本を眺める。タイトル名と共に千香の筆名がクレジットされていた。だが。本来なら、
原案 富美
文章 千香
とでも、表記するべきなのだろう。
もしくは著者プロフィールにでも共著を謳うか。最初からそうと言うか。していないけれど。明かしていないし、今後も明かすつもりもない。
千香も今更ここにきて明かせない。気持ちとしてはきちんと公表したいけれど、原案である富美がそれを拒んでいる。出版社だって今更言われたところで、だろう。
「なんなんだろうね」
富美は。
富美の存在は。
どうにも彼女、なんらかの執筆に関わる仕事をしているらしい。それはあの狭いアパートの床に折り重なった本からも読み取れる。小説ばかりではない。英字の本や医学系の専門書、動植物の図鑑まで、どうにもふつうの本好きが読むにしてはやや重いものが多かった。乱読家にしてもあの若さであの読書遍歴は妙に映った。
なによりこの絵や緻密な設定だ。絶妙に書きやすい。脇キャラの掘り下げや世界観の掘り下げなど書こうと思えば幾らでも書ける。ただ。
「今回はきついかなあ」
現代ベースだった今までと違って今回はやけにSFちっくだ。SFに造詣の深い女の子というのもどうなのか。まあ、ありなのだろうが、珍しいだろう。ちなみに千香は全くだ。故に描くのが難しい。書けないでいる。こうして日がな一日唸ってばかりいる。だから。
「行っていいのかな」
いいか。いいのか。いいか?
ここまで富美と会うのはだいたい土曜日である。直接家に行っているわけではない。公園を経由して、富美の家へと至る。
それが流れだ。コスプレめいた幼女の格好をして、公園でえっちなことをして、さらに富美を家へと送って、富美の機嫌が良い時はそこでさらに二回戦へと突入する。本音を云わせてもらえば、体力的にきついのと、あとやはり公共の場だと恥ずかしいから、直接訪ねてみてもいいか伺いたいが、伺おうにもなんとなく躊躇われている。理由は知らない。断られるのが怖いから、じゃない、公園を経由しないといけない気になっているとでも云おうか。
本日、平日。そもそも平日はどうしているか。家にいるか。
「行きたいなー行ってもいいかなーあ」
椅子をぎしぎしと鳴らす。時計を見やれば、午後二時を過ぎていた。
良い頃合いじゃないだろうか。時間じゃなし。最後に彼女が云った
「それなら七日目の救済の方がしっくりくるでしょ。今回はいつものよりも実験的かもしれないから。まあ、家に帰ってじっくり読んでみて。だめそうだったらまた来てもいいから。たぶん、それまでには用意しておける」
という、台詞を考えれば。じっくり悩んだ結果、大変申し訳ないことに、今回は書けませんでした、頂いておいてごめんさない、だから新しいの、下さい、が、通りやすく、告げやすい頃合いじゃなかろうか?
「よし」
千香は着替える。
すっぽんぽんに一旦なって、履いていたパンツを脱ぐ。
そうしてベッドの下に隠してある……手前じゃなく奥にある為、一旦ベッドをずらさないと取り出せない位置にある……そこから……つまりベッドを一旦ずらして、棚を出現させて、そこから子供パンツを取り出す。他に子供服ももちろん入っている。
当初はやってて自分がアホに思えた。
慣れた。
何の疑問も挟まず脚を通す。
今回子供服はいいだろう。いや、持っていくのもありか。富美なら喜ぶかもしれない。着てあげたら。無論、今着るのはなしだけど、アパートで着てあげるぐらいはしてもいい。
戻したベッドを再び引きずった。
鞄の奥にそれを詰めると、壁に掛かっていた車のキーを手に取った。少しだけ尿意を催したが、まだいいかと思った。
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