なんでだろ。なんでわからないの。なにもわからないのなんでだろ。3

「すごくよかった。二作目はないの?」

「はくちゅっ! ……は?」

 当たり前みたいに助手席に乗り、千香が着替える前にシートベルトを締め直角姿勢で座り待つ富美が出し抜けに尋ねてきた。千香は鼻を擦る。

 ミラー越しに見せてきたのは千香のデビュー作、『知りたい』。自分が知られること極度にを嫌う少女、紗里の究極の自愛小説。幼い頃から他者との交流、その一切を拒絶して生きてきた紗里。社交や社会性、情操の形成期に他者との交流を行ってこなかった紗里は、生活の中、どうしても必要な際、他者と会話するとその度とんちんかんな受け答えをしてしまう。そんな紗里を面白がり近づいて来る人々とそれでも自身を最優先する紗里とを書いた小説だ。

 一人称形式で、マシンガンの如く、紗里の内面を激烈に描いたこの小説は、当時高く評価された――審査員には。

 世間受けはさっぱりだった。

 似たようなことをしたマシンガントークの一人称形式小説だったら先駆者が何人かいたし、先駆者たちと比べると千香の『知りたい』はエンターテイメント性に欠けていた。読者からは正に独りよがり、と称された。

 千香が応募したのは地方誌主催の、エンタメよりは文学性に重きを置いた賞で――少なくとも千香はそう思っている――千香も意図的にそこは省いた。紗里周りの人間関係の決着や、作中における事件らしい事件、も、紗里の性格故に深く関わることなく終わってしまうのだ。

 後々、紗里がもっと関わっていたら違う結果もあり得たんじゃないか、と読者に想像させるくらいに留め、ただひたすらに利己の追求だけをする。それが紗里。そんな小説。

 一部の読者受けは良かった。

 審査員の編集者や著名な作家様方、目の前にいる、

「サイン。あっ、表紙はだめ。今めくった何も書いてないとこにして」

 みたいな文学少女には。

「ありがと」

「なんであなたがお礼言うの?」

 どうにもこの黒服女、読書家らしい。先週家に上がった際、部屋を見、千香は思った。その日は「シャワー浴びるから」と玄関で一方的にイかされて帰らされたが。

 手持ちのポケットティッシュで玄関、ひとり股をこしこし拭っているのは気分の良いものではなかった。その際、今の自分を俯瞰的に見たら、と想像してしまって、自身を殴りつけたくなって部屋を出た。ティッシュは悩んだ末、部屋のゴミ箱に捨てずに持ち帰った。

 黒服文学少女はサインをじーっと眺め言う。

「知ってる。与田治郎だとか宇ヅ木春雨だとか出している賞でしょ。もうかたっぽの方が千香と逆にエンタメエンタメしている上に同時受賞だったから埋もれちゃったのね」

 解釈が優しい。

 それも一時期考えたが、今はもう単純に実力だと千香は認識理解している。愛おしそうに千香のサインを撫でる富美に口の端が緩んでしまう。

 千香は以前担当編集から云われた作風を変えるよう促された件を伝えた。すると、富美は顎に手をやり肉を伸ばし摘むようにした後、その手で髪をくるくると指先に巻きながら、

「それはないんじゃないかしら」

 と、仕草の割に真面目な顔して言ってきた。

「え? なにが?」

 一瞬怒られたように感じてしまい、千香はへらっと冗談めかして返した。そんな千香を富美はチラと一瞥。何か気に障ったことをしてしまったのか千香は不安になる。

「ごめん」

「だから何で謝るのよ。そうじゃなくて」

「じゃなくて? あ、そうだよね。編集さんの言葉は素直に受け取るべきだよね。うん。でもね、分かってるんだけど、それまでの自分を否定されたみたいで」

「だからそうじゃなくって」

「え? え?」

 こんなことも云われないといちいち分からないのか。富美の表情をそう読み取ってしまった千香。自分が極端に緊張しているのが分かる。心臓が早鐘を打っている。

「リラックスして」

「うん」

「息を吐いて」

「うん。うん」

 素直に従う。二度三度と息を吐いたところで確かに気分は落ち着いてきた。それを機に彼女は口を開く。呆れがちに。

「穿って見過ぎよ。いちいち」

「穿ち?」

 すぎ、と口の中で呟き千香はその言葉を反芻する。が、意味は分からない。

「素直にアドバイスとして受け取ればって言ってるの。私はその編集のこと知らないからなんとも言えないけど、ここ最近作品を提出できてないんでしょう? 単純にあなたが悩んでいると思って、たまには明るい話でも書いてみたらどうかって提案のひとつでもしてきただけじゃないの? それをあなたは必要以上に気に病んでいる」

「え。でも……」

「編集さんはあなたの才能と作品をきちんと評価してくれたんでしょう? 大きなお金を掛けて、企業として、出版社として、これを世に出してくれた人なら信頼しなきゃ。長編が書けていないんだったら短編でも書いてみたらどう、くらい言うでしょ。短編の方が難しいのは置いといて」

「そう、かな」

 書けないわけではない。書いてはいるのだ。ただ、作風を変えてみましょうという言葉が引っ掛かり、書いたものを提出していないのは事実だった。短編集なんて言葉が出てきたから尚更出し辛くなったのもある。

 いや。作風を変えてみましょうなんて言っていたっけ。言ったか。似たような言葉を受けた記憶はある。

「でも確かにデビュー作のアレは一旦忘れてって。わたしはあれで」

 傷ついて、とは言えなかった。

「まって」

 と、手と言葉で静止するよう促されたからだ。

「会話の前後は思い出せる? 直接云われたの?」

 思い出す。もう半年前だ。あれは、確か。

「電話」

「どういう会話だった?」

「まず電話掛かってきて。どうですかって」

「進捗確認ね。あなたはなんて?」

「書いてはいるんですけど。なかなかって」

 吉村という編集者だ。勿論直接会い、挨拶はしたことある。基本、東京にいる為、はじめ以外は電話やメールでのやり取りだが。

 三十代前半の若手社員といった風で、少し話しただけでも千香は好印象を受けた。それは千香のデビュー作『知りたい』を、これでもかというくらい目の前でべた褒めしてくれたからであり、しかもその吉村は自分以外にも何人か担当を持っているということだった。出版社の編集である以上当たり前といえば当たり前なのだろうが、そんな複数の作家を受け持つ人に自分の作品が褒めそやされているのが衝撃だったのだ。他人事にすら感じた。容姿に関しては最早おぼろげなくらいであるが、あの時の吉村の言葉とテンションは心に残っている。

 だからこそ、そんな人から『アレは一旦忘れて』などという言葉が出てきたのはショックだった。

 富美は言う。

「だからどういう文脈で言ったの」

「文脈って。ええっと……。『知りたい』がちょっと読者の反応見た感じ、頷ける意見や部分も確かにあったので、今回は違う感じにして、起承転結からかっちりプロットを組んでってなことを」

「吉村が言った?」

「ううん。わたしが自分で言った」

 富美がずっこけた。

 コントみたい。そんな動作で。

「お前がしたんかい」

「うん」

「はあ。で?」

「でも何も。それでおしまい。まあでもアレは一旦忘れて次は短編集なんてどうですかって云われて。あ、やっぱり言ってた。ん? 言ってない? あれれ?」

「? じゃあそこまで気にすることないじゃない」

「なんで?」

 さっきからどうしてそういう結論に至るのだろう。千香は不思議になる。

「だからいっこいっこの言葉を重く捉えすぎなのよ。吉村は、あなたが極端に前の作品を気にし過ぎて書けなくなっているって思ったから、アレは一旦忘れて新しいの書いてくださいって言っているだけでしょう? 何も作風を変えろとまでは言ってない。普通の、よくあるアドバイスじゃない。……ネガティブな言葉だけずっと覚えているタイプ? それ反芻して大きくしちゃってあほみたいに落ち込む奴……いるわいるいる。ネガティブな言葉ですらないけど」

「言ったよ。そう聞こえた」

「なんでそこ、頑ななのよ」

 富美は息をつくと、

「……要は自分の書いているものに自信がもてなくなったってだけ?」

 と、根本を指摘するみたいに言ってきた。

「違う」

 即否定する。

「わたしの書いた小説面白いもん」

「……めんどくさいなこの子」

 ――子供。

 そんな呟きが聞こえた。いや、勘違いか。分からない。どうして誰にも話せなかった胸の内を彼女に話してしまっているのか。行為の後のナーバス? まるで知らない自分を見ているようで、千香は言葉ではこんな態度を取りつつも、気持ちは楽しくなっていた。

「わたしはね。全肯定されたい」

「全肯定? それはまた」

「見られたくない読まれたくない批評してほしくない。けど見てほしい読んでほしい評価してほしい。悪し様に言ってほしくない。良いようにだけ言って? 包み込んで優しく接してくれて、けど時には厳しいことも言ってほしいかな。それはちゃんとした読者に。わたしよりずっとずっと本読んでる人。特別でありたいわたしは特別。みんな良いこと言っててほしい。好きな人は好きなんて評価じゃだめ。いちばん。すぐれていてうまくてかっこよくて……」

「むちゃくちゃ言ってる……って、ねえ。ねえ。おーい。ああ、これ」

 暖かい。いいや温かい? 多幸感に包まれている。千香は富美の膝枕で寝息を立てていて、そんな千香を富美が撫でてくれている。あれ、わたしはいつの間に。富美の

 部屋に。

「そんなに」

 何か言っている。

 富美が言っている。

 あの柔らかい唇で。夢見心地な唇で。

 聞き届けないと。

「――なら」

 うまく聞こえない。

「うまく聞こえないよ」

 心と言葉が一体になっている感覚。こんな風に素直になれるなんて。いつぶりだろう。子供自分。十歳の時にはもうそんな千香はいなかった。なら九歳か。八歳か。七歳か。

「私の為の小説書いてよ。私なら千香を全肯定してあげる」

 飲みたい。飲み込まれたい。彼女の雫という雫を。口の中に入れて転がしたい。すっぱい梅干しを口に入れた時みたいに口腔内に涎が溢れる。糸を引きそれが七色に輝く。

 寒い。

 寒いよ。

 お姉ちゃん。

「でもそれじゃ」

「なに?」

「なにってなに?」

「あなたが言ったんでしょう」

 なにってなにってなにってなになにってなにってなにってなになにってなにってなにってなになにってなにってなにってなになにってなにってなにってなにって?

 わたしは誰に向かって喋っているんだろう。何に対して悲しんでいるのだろう。幼い頃の自分が言った。濡れた鏡に向かってひとりで喋っている。

「あくたがわしょう」

「芥川賞は二回も取れないよ」

「わたしテレビ映った?」

「映ったよ。ほら。見て」


 目の前に鏡があった。

 鏡には裸の千香が映っていて、張り付いた前髪の隙間を覗かせている。口を半開きにして、虚ろな眼で首を傾けている様は、満員電車で揺られ熟睡しているサラリーマンを連想させた。実際に見たことはないが、ドラマか映画で見たことが――いいや、自作で描写だけしてみたんだったか。参考でネットで画像検索した記憶がある。

 そのまま十数秒はぼうっとしていたろうか。

「あっ」

 まずいことに気付いた。千香は急いで出しっぱなしだったシャワーを止めると、バスルームを出、スライド扉を開けた。窓から差し込む日光の具合から時間を推測する。夕暮れ。だ。お母さんが帰ってくる。その前にこれをどうにかしないと。

 洗濯はとうに終わっていた。ドラム洗濯機を開けると、むっとした湿気が襲ってくる。まず千香の目にひらひらしたパンツとその紐が飛び込んできた。適当にタオルで体を拭ってからそれらを抱え込み、自分が何も身につけていないのを思い出して下だけ履いて洗面所を出た。

「ただいま~」

 お母さんが帰ってきた。千香はとっさに体にバスタオルを巻き付ける。左右の脇に強引に子供服を挟むと、何食わぬ顔をして廊下を音を立てて横切った。

「おかえりー」

 と、帰し、自分の部屋へと行く。目は合わせない。出来るだけ落ち着き払い。そんな千香を玄関から目を丸くして母が見ていた。

「あんたなんて格好してんの。って、雫雫! ああ、もうびっしゃびしゃにして。ちゃんと頭乾かしてって聞いてるのねえ」

 汁が滴る液が滴る雫が落ちる。

 逃げるように階段を上り息が上がっている。

 ぶるぶる震える。

 ぼんやりする。

 身体が。

 身体が言うことを利かない。

 部屋の扉を閉め千香はそのままベッドに倒れ込む。敷きっぱなしだった掛け布団の上でうつ伏せになった。膝を立てて四つん這いの姿勢へと。入り口に向かって尻を突き出し、左手でもって、尻を広げた。残る右手で茂みに手を伸ばす。

「ん」

 茂みがない。千香のそこはつるつるだ。いいや違う。パンツを履いている。いつの間に。昼間のことを思い出す。彼女にいじってもらえたそこを。細くしなやかな指先をまさぐり入れ……いいや違う。膝で擦られたんだ。こう、パンツの上からちょうどこんな具合にして。腕を膝と腿に見立ててパンツの上から股間をまさぐる。す、す、と前後に動かす。お尻を突き出し、掛け布団を濡らし喘ぐ。びくっと身体が跳ねた。びっくりする。そこで意識が覚醒してくる。

 はて。自分は何をしていたんだろう。ムラムラとした気持ちが湧き上がり、股を人差し指で掻くとぴくっと身体が痙攣した。「あっ、ああっ」「あ」「ああああっ」きゅうっとそこをつまみたくなる。どうしようかなどうしようかなどうしようかなと悩んでいたところでお母さんが階段を上りながら千香の垂らした雫を拭っているらしき音が聞こえ、千香は億劫に俯せていた顔を上げた。部屋を見渡し部屋着を探し、シャワーを浴びる前、洗面所に全て置いてきたことを思い出した。着るものが。ああ、子供服を片付けないと。


 怠い。

 体が重い。

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